第16話 夜明けのキャンバス(1)
翌日の午前中、大家の言葉通りに業者があっさりとやってきて、ベランダに真新しい全自動洗濯機を設置していった。
『ピーッ、ピーッ。洗濯が終了しました』
明るい昼下がりの日差しの中、新しい洗濯機は一切の異音を立てることもなく、軽快な電子音で任務の完了を知らせてくれた。
洗濯機から衣類を取り出すと、ふんわりと洗剤の良い香りがした。もう、真夜中に冷たい風に吹かれながら、重いゴミ袋を引きずって歩く必要はない。
完璧で、快適な、正しい大学生の日常。
けれど、ベランダで洗濯物を干す悠真の胸の中には、ひどく冷たい風が吹き荒れていた。
「……ははっ、なんだこれ」
空を見上げ、自嘲気味な笑いがこぼれる。
あんなに不便で苛立っていたはずの「壊れた古い洗濯機」が、今はたまらなく愛おしかった。あの不便さが、夜のコインランドリーという非日常へ自分を連れ出し、彼女と引き合わせてくれたのだから。
紬と会わなくなってから、一週間が過ぎた。
悠真は相変わらず、目的のない大学生活とアルバイトを往復していた。
ゼミの友人たちは本格的に就職活動の準備を始め、ますます活気づいている。その中でただ一人、悠真だけが色のない世界に取り残されているような感覚は、以前よりもずっと強くなっていた。
ただ一つだけ、確実に変わってしまったことがある。
午前二時。
布団の中で目を閉じていても、どうしても眠りにつくことができないのだ。
(今頃、あのコインランドリーには誰かいるんだろうか)
(彼女は今、ちゃんとキャンバスに向かえているだろうか)
頭の中を巡るのは、少し跳ねたボブヘアと、絵の具だらけのオーバーオール。そして、両手で缶コーヒーを包み込むようにして笑う、静かな横顔ばかり。
「……あー、くそっ!」
悠真は布団を跳ね除け、乱暴に頭を掻きむしった。
ベッドから降りてスウェットを羽織り、財布だけをポケットに突っ込んでアパートを飛び出す。
十一月も終わりに近づき、深夜の冷え込みは冬の気配を帯びていた。
白い息を吐きながら、悠真は小走りで住宅街を抜ける。手には重いゴミ袋もなければ、洗うべき洗濯物もない。ただ、「もしかしたら」というすがるような期待だけを胸に、色褪せたネオンサインを目指した。
『コインランドリー』の引き戸の前に立ち、息を呑む。
震える手でガラス戸を開けると、生温かい空気と洗剤の匂いが悠真を包み込んだ。
「……」
しかし、そこには誰もいなかった。
チカチカと明滅する蛍光灯の下、古びた洗濯機たちが沈黙を守っている。一番奥の大型ドラム式洗濯機の前にあるプラスチックの丸椅子にも、彼女の姿はない。
わかっていたことだ。彼女はもう、絵から逃げないと決めたのだから。
悠真はふらふらと外へ出ると、入り口横の自動販売機でブラックコーヒーとホット・カフェオレのボタンを押した。
温かい二つの缶を両手に持ち、パイプ椅子に深く腰を下ろす。
静かすぎる。
洗濯機の回る重低音がないコインランドリーは、ただの薄暗くて寂しい無機質な空間でしかなかった。
(どうして俺は、あの時引き留めなかったんだ)
隣に置かれた、誰にも飲まれることのないホット・カフェオレを見つめながら、激しい後悔が波のように押し寄せてくる。
自分が空っぽの人間だから。夢に向かって走る彼女の隣にいる資格なんてないから。
そんなものは、ただ傷つくことから逃げるための言い訳だった。
本当は、彼女が自分よりもずっと先へ進んでしまうのが怖かっただけだ。自分の何もない惨めさを、直視したくなかっただけだ。
「……会いたいな」
誰もいない空間に、掠れた声が落ちる。
どれだけ後悔しても、もう遅い。名前しか知らない彼女を探し出す術なんて、悠真には何一つなかった。
冷めていく缶コーヒーを握りしめながら、悠真はただ一人、夜が明けるのを待ち続けた。
彼女のいない『特等席』は、もう魔法の空間でも何でもなく、ただのひどく冷たい現実だった。




