第15話 モラトリアムの特等席(3)
深夜のブランコで肩を寄せ合ったあの日から、三日が過ぎた。
二人の間に特別な約束はなかったけれど、午前二時になれば必ずあのコインランドリーで会える。その確信だけが、悠真の空っぽな毎日を鮮やかに彩っていた。
しかし、夜の魔法は永遠には続かない。
唐突に「現実」が牙を剥いたのは、木曜日の昼下がりだった。
『瀬戸くん、お待たせしてごめんね。明日の午前中、新しい洗濯機の搬入と設置ができるようになったから、家にいてくれるかな?』
大学の学食でうどんを啜っていた時、スマホの画面に表示された大家からのメッセージ。
本来なら「やっとコインランドリー通いから解放される」と喜ぶべき知らせだ。しかし、悠真の心臓は嫌な音を立てて冷たくドクンと跳ねた。
(明日からもう、あそこに行く理由がなくなる……?)
うどんの味が、急にわからなくなった。
「洗濯機が壊れているから」という大義名分がなくなれば、悠真があの深夜のコインランドリーに行く正当な理由は消滅する。なんの口実もなく、ただ彼女に会うためだけにあの場所へ行く勇気は、今の悠真にはなかった。
その日の深夜二時。
重い足取りでガラス戸を開けると、今日も紬はいつもの丸椅子に座っていた。
「こんばんは、瀬戸さん」
「……こんばんは」
いつものように自販機で缶コーヒーとカフェオレを買い、手渡す。
パイプ椅子に腰を下ろした悠真は、プルタブをいじるだけで、なかなかコーヒーを飲むことができなかった。
今日、言わなきゃいけない。「明日からもう来ない」と。
しかし、その言葉を喉の奥で躊躇っていると、隣に座る紬が、ぽつりと静かな声で口を開いた。
「瀬戸さん。……私、今日でここに来るの、最後にしようと思うんです」
「え……?」
予想外の言葉に、悠真は弾かれたように顔を上げた。
紬は両手でカフェオレの缶をしっかりと握りしめ、ドラム式洗濯機の回る窓ではなく、真っ直ぐに前を見据えていた。
「展示会の締め切りまで、あと一週間を切ってしまって。……これ以上逃げたら、私、本当に絵を描くことが嫌いになってしまう気がするんです」
「……鳴海さん」
「瀬戸さんとここで話している時間は、すごく温かくて、心地よくて……だからこそ、ちゃんと向き合わなきゃって思えたんです。真っ白で怖いキャンバスに、もう一度だけ、筆を落としてみます」
それは、彼女が「モラトリアムの特等席」から立ち上がり、自分の足で現実へ歩き出すという決意の宣言だった。
悠真は、手元の缶コーヒーを強く握りしめた。
彼女は前を向いたのだ。怖いものから逃げず、再び戦うことを決めたのだ。
それに比べて、自分はどうだろうか。ただ「洗濯機が直るから会えなくなる」と怯え、連絡先を聞く勇気すら持てずにうじうじとしている。なんて惨めで、カッコ悪いんだろう。
「そっか。……よかった。鳴海さんなら、絶対に描けるよ」
悠真は必死に声を振り絞り、無理やり口角を上げて笑った。
「実は俺もさ、大家から連絡があって。明日の午前中に、新しい洗濯機が届くんだ」
「あ……」
「だから、俺も今日でコインランドリー通いは終わり。ちょうどよかったよな。これで俺たち、元の生活に逆戻りってわけだ」
紬の目が、一瞬だけ寂しそうに伏せられたのを悠真は見逃さなかった。
けれど、彼女はすぐにふっと微笑み、「そうですね」と頷いた。
『ピーッ、ピーッ、ピーッ』
残酷なほど正確に、洗濯の終了を知らせる電子音が鳴り響く。
それが、二人の「夜の魔法」が完全に解けた合図だった。
無言のまま、悠真は洗濯物をゴミ袋に詰め込み、紬は乾燥を終えたオーバーオールを丁寧に畳んでトートバッグにしまった。
外に出ると、十一月の冷たい夜風が容赦なく体温を奪っていく。
「それじゃあ……瀬戸さん、今までありがとうございました。温かいコーヒー、ごちそうさまでした」
「俺の方こそ。……展示会の絵、頑張ってね」
「はい。瀬戸さんも、大学……頑張ってください」
お互いに深くお辞儀をして、背を向ける。
悠真は右へ、紬は左へ。
(待て。連絡先、SNSだけでも聞けよ。引き留めろ)
頭の中で警鐘が鳴り響く。振り返って声をかければ、まだ間に合う距離だ。
しかし、悠真の足はアスファルトに縫い付けられたように動かず、声は冷たい夜の空気に凍りついてしまった。
僕たちは、深夜という非日常の魔法に守られていたからこそ、惹かれ合っていただけだ。
昼間の明るい太陽の下で、立派にキャンバスに向かう彼女の隣に、空っぽな自分が並んで歩く資格なんてない。
遠ざかっていく彼女の足音が、深夜の街に小さく反響して消えていく。
振り返ることは一度もできなかった。
こうして、僕たちのモラトリアムの特等席は、誰に知られることもなく静かに閉店した。
手元に残った空っぽのコーヒー缶だけが、この三週間の出来事が夢ではなかったことを、ただ冷たく証明していた。




