第13話 モラトリアムの特等席(1)
あの日から、午前二時のコインランドリーは僕たちにとって、秘密の集会所のようになった。
「……こんばんは、瀬戸さん」
「こんばんは、鳴海さん。今日も寒いね」
ガラス戸を開けると、いつもの丸椅子に座った紬が小さく手を振る。
悠真は自分の洗濯物を縦型洗濯機に放り込んだ後、外の自販機でブラックコーヒーとホット・カフェオレを買って戻る。これが、すっかり二人の間の暗黙のルーティンになっていた。
パイプ椅子に並んで座り、プルタブを開ける。
『ガコン、ゴウンゴウンゴウン……』という、二台の洗濯機が回る低い重低音だけが、蛍光灯の下でBGMのように響いている。
「昼間、大学のゼミでさ」
缶コーヒーの温もりで悴んだ指先を温めながら、悠真はふと、今日あった出来事をこぼした。
「周りの奴らが、三年からのゼミ長を誰にするかとか、夏のインターンどこにエントリーするとか、そういう話で盛り上がってて。……なんか、急に息苦しくなっちゃって、途中で教室抜け出しちゃったんだよね」
自嘲気味に笑う悠真の言葉を、紬はカフェオレを両手で包み込みながら、静かに聞いていた。
「焦る気持ち、わかります」
「俺だけなんだよ。やりたい仕事も、行きたい業界もなくて、ただモラトリアムを消費してるだけの空っぽな人間は。周りがどんどん大人になって、ちゃんとした『社会人』のレールに乗っていくのに、俺だけが取り残されてるみたいでさ」
昼間の明るいキャンパスでは、絶対に口にできない弱音だった。
口にすれば、自分が「何もない人間」であることを認めてしまう気がして、ずっと胸の奥に隠してきたヘドロのような感情。
それが、深夜のコインランドリーという非日常の空間と、紬という少し不思議な女の子の前では、なぜか素直に吐き出すことができた。
「……瀬戸さんは、空っぽなんかじゃないですよ」
紬が、ドラム式の丸い窓から視線を外し、悠真の方へ顔を向けた。
「え?」
「空っぽに見えるのは、まだどんな色を塗るか決めてないからじゃないですか。……何色にでもなれる、真っ白なキャンバスみたいに」
「キャンバス……」
「はい。でも、真っ白なキャンバスって、すごく怖いんです」
紬はそう言うと、少しだけ自分の膝を抱え込むようにして小さくなった。
絵の具だらけのオーバーオールが、カサリと音を立てる。
「私、ここ一ヶ月、まともに筆を握れていないんです。今度の冬に、美大生が合同でやる大きな展示会があって、私も出展する予定なんですけど……」
「うん」
「いざキャンバスの前に立つと、足がすくんでしまって。自分が本当に描きたいものは何なのか、周りの才能ある人たちと比べて、私の絵なんて誰の心にも響かないんじゃないかって。そう思うと、怖くて、筆をキャンバスに落とせなくなっちゃったんです」
彼女の震えるような声には、悠真の漠然とした焦りとは違う、何かを生み出そうと足掻いている人間特有の、鋭い痛みが混ざっていた。
「だから、夜中になるとアトリエから逃げ出して、ここで洗濯機が回るのをぼーっと見てるんです。ただ同じところをぐるぐる回ってるだけのこの機械を見てると、立ち止まってる自分を許してもらえるような気がして」
紬は自嘲するようにふっと笑い、カフェオレを一口飲んだ。
夢がなくて焦っている悠真と、夢に向き合うのが怖くて逃げ出してきた紬。
抱えている悩みの形は違っても、二人とも「今」という時間に立ち止まり、前に進めずにいることには変わりなかった。
「……そっか。じゃあ、俺たち似た者同士だね」
悠真がそう言うと、紬は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、やがて柔らかく微笑んだ。
「そうですね。似た者同士、かもしれません」
昼間の眩しすぎる社会から切り離された、色褪せたネオンサインの下。
ここは、前に進めない不器用な僕たちが、少しの間だけ立ち止まって息をつくための『モラトリアムの特等席』だった。
温かい缶コーヒーと、洗剤の匂い。
並んで座るパイプ椅子の距離は、出会った夜よりも、ほんの少しだけ近づいていた。




