第12話 午前2時のドラム式(3)
温かい缶コーヒーとカフェオレ。
少しだけ距離を空けて並んだパイプ椅子に座りながら、悠真はチラリと彼女の横顔を盗み見た。
「その服……絵の具、ですよね」
悠真がオーバーオールの染みを指差すと、彼女は少し恥ずかしそうに自分の膝を隠すようにした。
「あ、はい。お見苦しくてすみません。油絵の具って、一度服につくとなかなか落ちなくて……専用の石鹸で揉み洗いしてから洗濯機に入れないといけないんですけど、今日はもう疲れちゃって、そのまま回してます」
「美大の学生さんですか? この近くの」
「はい。二年生です」
彼女が答えると同時に、悠真の中で少しだけ腑に落ちるものがあった。
昼間のキャンパスで見かけるような、流行りのメイクをしてSNS映えするカフェに通う女子大生とは違う、どこか浮世離れした空気感。それは彼女が、自分とは全く違う『何かを生み出す世界』で生きているからなのだろう。
「すごいですね。俺なんか、経済学部で毎日適当に授業受けてるだけで、将来やりたいこととか全然なくて。毎日キャンバスに向かって絵を描いてるなんて、尊敬します」
自嘲気味に笑いながらそう言うと、悠真はブラックコーヒーを一口飲んだ。
周囲の友人が前へ進み出している中、自分だけが空っぽなままで立ち止まっている。そんなモラトリアムの焦燥感を、なぜか初対面の彼女にはポロリとこぼしてしまった。
しかし、彼女は悠真の言葉を笑うことも、否定することもしなかった。
「……すごくなかないですよ」
彼女は両手でカフェオレの缶を包み込んだまま、ドラム式洗濯機の丸い窓を見つめて、ぽつりと呟いた。
「むしろ、立ち止まってるのは私の方です。……本当は今、キャンバスに向かうのが少しだけ、怖いんです」
「え?」
「何も描けなくて。描いても、自分が本当に描きたいものじゃなくて。だからこうして、夜中に洗濯機が回るのをただぼーっと見てるだけの、空っぽな人間です」
その声は、深夜の静寂に吸い込まれて消えてしまいそうなほど、細くて脆かった。
夢中になれるものがあるからこその、重いプレッシャーやスランプ。
悠真の抱える『何もない焦り』とは種類が違うけれど、彼女もまた、この冷たい夜の中で一人、立ち止まって足掻いているのだと知った。
『ピーッ、ピーッ、ピーッ』
不意に、悠真が使っていた縦型洗濯機から、終了を知らせる無機質な電子音が鳴り響いた。
魔法の時間が、唐突に現実へと引き戻される。
「あ……終わったみたいですね」
彼女が小さく微笑みながら顔を上げる。
悠真は慌てて立ち上がり、ゴミ袋の中に湿った洗濯物を詰め込み始めた。彼女のドラム式洗濯機は、乾燥まで設定しているのか、まだゴウンゴウンと重い音を立てて回り続けている。
「それじゃあ、俺はこれで」
「はい。カフェオレ、ごちそうさまでした。とても温まりました」
入り口のガラス戸に手をかけたところで、悠真は少しだけ躊躇し、振り返った。
「あのさ」
名前も知らない。連絡先も聞いていない。
明日もここに来る確証なんて、どこにもない。
それでも、悠真はどうしても言葉にしておきたかった。
「……立ち止まってるのも、悪くないと思います。少なくとも俺は、今日ここであなたと缶コーヒー飲めたんで、この壊れた洗濯機にちょっとだけ感謝してますから」
不器用な慰めの言葉に、彼女は少しだけ目を丸くした後、今日一番の、柔らかくて自然な笑顔を見せた。
「……ふふ。私も、感謝しておきますね。瀬戸さんのアパートの洗濯機に」
「あ、俺、瀬戸悠真って言います。……じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、瀬戸さん。私は……紬です。鳴海、紬」
初めて、お互いの名前が深夜の空気に溶け合った。
「また、明日も来ますか?」
紬が小首を傾げて尋ねる。
悠真はゴミ袋の持ち手を握り直し、少しだけ口角を上げて頷いた。
「多分。……大家さんが、早く新しい洗濯機を手配してくれなきゃいいなって、今は思ってます」
十一月の冷たい夜風が吹き抜ける外へ出ても、悠真の胸の奥には、缶コーヒーの温もりがじんわりと残っていた。
何もない空っぽな毎日。
けれど、深夜二時の色褪せたコインランドリーは、僕たち二人にとって、モラトリアムの焦りから逃れられる『特等席』になり始めていた。




