第11話 午前2時のドラム式(2)
アパートの古い洗濯機が息絶えてから、三日が経った。
翌日すぐに大家へ連絡は入れたものの、「新しい洗濯機の手配には少し時間がかかる」と言われ、悠真の『深夜のコインランドリー通い』は余儀なく延長戦に突入していた。
午前二時十五分。
ゴミ袋に詰めた洗濯物をぶら下げて、悠真はまたあの色褪せたネオンサインの前に立っていた。
(……今日も、いるのかな)
引き戸に手をかけた瞬間、ふとそんな考えが頭をよぎり、悠真は小さく首を振った。
いくらなんでも、毎日この時間に洗濯に来る人間なんて自分くらいだろう。
しかし、ガラス戸を開けると、独特の洗剤の匂いとともに、見覚えのある背中が目に飛び込んできた。
絵の具だらけのデニムのオーバーオール。少し跳ねたボブヘア。
彼女は三日前とまったく同じプラスチックの丸椅子に座り、ドラム式洗濯機の中で回る洗濯物をじっと見つめていた。
(本当にいた……)
悠真は少しだけ驚きながらも、邪魔にならないよう手前の洗濯機に衣類を放り込み、小銭を入れた。
重低音を響かせて機械が回り始める。
悠真が少し離れたパイプ椅子に腰を下ろすと、また三日前と同じ、奇妙な沈黙の時間が訪れた。
ただ違うのは、外の空気が数日前よりもずっと冷え込んでいることだった。コインランドリーの中には大型乾燥機の熱気がこもっているとはいえ、入り口付近の隙間風が足元を容赦なく冷やしていく。
スマホの画面をぼんやりと眺めていた悠真だったが、ふと顔を上げると、丸椅子に座る彼女が身を縮こまらせ、自分の両腕をさすっているのが見えた。
(……寒いよな、そりゃ)
悠真は無言で立ち上がると、コインランドリーの外に出た。
入り口のすぐ横にある、色あせた自動販売機。ポケットの小銭を探り、自分用にブラックコーヒーのボタンを押す。
ガコン、と温かい缶が落ちてきた音を聞きながら、悠真の視線は隣に並んだ『ホット・カフェオレ』のボタンで止まった。
ナンパだと思われるだろうか。いや、ただ同じ時間に居合わせただけの他人に、いきなり飲み物を奢るなんて不審すぎるか。
普段の悠真なら、絶対にそんな行動は起こさない。他人に干渉するのは面倒だし、されるのも好きではない。
けれど、真夜中の午前二時という時間が、彼の中のストッパーを少しだけ狂わせていた。
チャリン、と。
気がつけば悠真はもう一度硬貨を投入し、カフェオレのボタンを押していた。
コインランドリーの中に戻ると、彼女は相変わらずドラム式の窓を見つめていた。
悠真はゆっくりと彼女に近づき、その丸椅子の隣に立った。
「……あの」
声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、目を丸くして悠真を見上げた。
近くで見ると、彼女の指先や爪の隙間にも、微かに青や白の絵の具が入り込んでいるのがわかった。
「これ。外、寒かったんで。……もしよかったら」
悠真が温かいカフェオレの缶を差し出すと、彼女は戸惑ったように瞬きを繰り返した。
「え……あ、でも……」
「変なもん入ってないんで。今そこの自販機で買ったばっかりだから」
不器用な言い訳を口にする悠真を見て、彼女はふっと目元を緩め、両手で缶を受け取った。
「……ありがとうございます。いただきます」
初めて聞いた彼女の声は、深夜の空気に溶けてしまいそうなほど、静かで少し掠れていた。きっと、何時間も誰とも口を利いていなかったのだろう。
「いつも、この時間なんですか?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。
「はい。……夜の方が、色々と集中できるので。気づいたら、いつもこんな時間になっちゃってて」
「ああ、なんとなくわかります。夜中って、余計な音がしないからいいですよね」
彼女はカフェオレのプルタブを開け、両手で缶を包み込むようにして一口飲んだ。
ホッと息を吐き出すその横顔が、三日前に見た時よりも少しだけ、人間らしく温度を帯びているように見えた。
「そちらこそ、いつもこんな時間に?」
「俺は、アパートの洗濯機が壊れちゃって。昼間はバイトとかゼミがあるんで、どうしてもこの時間になっちゃうんです」
「そうなんですね。ふふ、災難ですね」
彼女が小さく笑う。
その笑い声を聞いて、悠真の胸の奥で燻っていた泥のような焦燥感が、ふっと軽く透き通っていくような気がした。
昼間の社会から完全に切り離された、色褪せたコインランドリー。
名前も知らない。素性もわからない。
ただ『洗濯機が回るのを待っている』という共通の目的だけで、並んで座り、温かい缶コーヒーを飲む。
それは、モラトリアムの焦りに押しつぶされそうになっていた悠真にとって、何よりも安らぐ、魔法のような時間だった。




