表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/16

Episode 10「人の痛みの分かる者の痛み」

ミッション帰還後、施設の廊下。

窓の向こうには夜の街が広がり、空には星が瞬いている。

悠真が、温めた缶ココアを持って歩いてくる。

少し先に、ベンチで書類を確認していた芦屋千歳の姿。

「千歳さん。……時間、いいですか?」

芦屋は顔を上げ、眼鏡の奥の目をやわらかく向ける。

「どうしたの? 悠真くん」

悠真は、缶ココアのうちひとつを差し出しながら、

少しだけためらいがちに口を開く。

「……今日の澪ちゃんの件で、考えてたんですけど」

「結局、“自己転移者”って……やっぱ“自業自得”なんでしょうか?」

芦屋は、一瞬だけ目を細める。

そして、ため息交じりに静かに答えた。

「……それはね、意見の分かれる質問よ」

「“自分で選んだんだから”“誰かに頼らず逃げたんだから”って、そう言う人は、たくさんいる」

「でもね、私ははっきり言うわ。——“自業自得”なんて、とんでもない」

「“自分の足で飛び込んだ”ように見える人ほど、そこに追い込まれた“背景”があるの」

「誰にも頼れなかった人。“助けて”って言ったけど、届かなかった人。誰かの顔色ばかりうかがって、自分の心を殺してきた人——」

「……そういう人の“選択”を、“自業自得”って切って捨てるのは、一番、無責任なことだと思うの」

悠真は、小さくうなずいた。

「……誰かに責められるより、“自分で自分を責める人”の方が、ずっと、苦しいですよね」

芦屋は微笑みながら、ココアの缶を軽く持ち上げる。

「だから私たちの仕事はね、“あの時、誰かがちゃんと気づいてくれてたら”って、そう言ってもらえるように——」

「“今、ここで気づいてるよ”って、伝えることなの」

悠真は、空を見上げながらぽつりと言った。

「……俺、もう少し強くなりたいな。誰かが“選ばされてしまう前”に、止められる人に」

芦屋は立ち上がって、軽く肩を叩く。

「その言葉が出る時点で、

——もう、立派な《探索人》よ」

名前:三枝さえぐさ 涼音すずね/24歳

大学病院の臨床心理士。人の心に寄り添うプロとして評価されていたが、

誰にも“自分の痛み”を見せたことがない。


【過去/幼少期】

「ねぇ、涼音。困ってる人がいたら、どうすればいい?」

母親はいつも笑顔で尋ねてきた。

「……助けてあげる……?」

「そう。あなたは優しい子ね。“人の痛みの分かる人”になってね。それが、一番立派な人間なんだから」


何かを我慢したとき——褒められた。

泣かないで笑ったとき——“偉いね”と言われた。

「嫌」と言ったとき——“相手の気持ちも考えて?”と諭された。

彼女は、いつの間にか“自分の痛み”を棚上げする術を覚えた。


【現在/病院カウンセリング室】

「先生に会えてよかった、って……そう言ってもらえるだけで、私はもう……」

涼音は、患者の言葉に微笑んだ。

「そう言ってもらえるなら、私は……何もいりません」

同僚は言う。

「三枝さんって、ほんと“天使”だよね」

「感情を乱さないし、どんな人の話にも付き合ってくれるし」

「自分のこと、何ひとつ話さないよね」

「……え? 彼氏? 休日? 趣味? そういえば聞いたことないかも」


【夜・自宅】

誰もいないワンルーム。

照明のない部屋。

冷めた紅茶。

デスクの端に、小さな紙切れ。

『痛みを抱えるあなたへこの世界では、痛みを抱いたまま生きていく必要はありません。“心のすべてを誰かのために捧げる”ことが、あなたを救います。』

画面に表示された《異世界への転移リンク》。

涼音は、それに迷いなく手を伸ばした。

「……人のために、生きるだけの世界なら……」


【翌朝・病院】

彼女は出勤予定だったが、姿を見せなかった。

スマートフォンも財布も、部屋に置かれたまま。

まるで“消える準備を整えていたかのように”。


【探索人本部・作戦準備室】

ソフィアの報告が入る。

≪新規失踪者特定。対象:三枝涼音/24歳。分類:自己転移型・“他者共感強制適応症候”傾向。転移先:異世界メシア・オルタナ

芦屋が苦い表情を見せる。

「“他人の痛みだけを感じて生きる世界”。——それってもう、“生きてる”とは言えないわ」

悠真は静かに呟く。

「……“人の痛み”をわかろうとして、“自分”がいなくなったんだ」

乾が端末を閉じる。

「——行くぞ。“優しさだけで壊れた人間”を、今度は優しさじゃなく、“本当の共感”で取り戻す」

異世界メシア・オルタナ/神聖都市・ノワール】

ここは、戦争も犯罪も、争いもない。

一見、楽園のような静けさに包まれた大理石の都市。

その中心に聳えるのは、“白銀の祈りの塔”。

人々は毎朝そこに集まり、こう口にする。

「我らの痛みを、今日も聖者に与えん——」

【“聖者”スズネ】

高台の祭壇に佇むひとりの女性。

白いローブ。

無垢な微笑み。

沈黙と祈りを日課とする、“痛みを受ける者”。

彼女の名はスズネ。

“痛みを受け入れること”を神聖視される、唯一無二の存在。


【世界の仕組み】

この異世界には、他者に苦痛を与える“罰”が存在しない。

かわりに、負の感情や肉体的な傷は「聖者に預ける」という制度が存在している。

たとえば——

・病に倒れた者の痛み

・失恋や裏切りの悲しみ

・戦士が受けた怪我やトラウマ

それらはすべて、“聖者”に転写される。


【涼音の一日】

朝。祈りの儀式。

痛みを差し出す民衆の前に立ち、目を閉じる。

“共感”によって彼らの傷を受け入れると、涼音の体には“微細な苦痛”が積もっていく。

血は流れない。

叫びもしない。

だが、その目の奥に——空虚な“納得”だけが宿っていた。

「私がそれを引き受ければ、皆が笑って生きられるのなら……

それで、いいんです」

彼女は何度もそう繰り返す。

【神官たちの声】

「スズネ様がいなければ、この世界はすでに崩れていた」

「すべての苦しみは、彼女の“器”が収めてくれている」

「心優しき真の救世者だ」

だが——その言葉に、涼音は何も応えない。

彼女はただ、微笑む。

【孤独な聖者】

夜。

広い神殿の個室。

誰も近づかない寝所の中、涼音は声を殺していた。

「……誰か、痛いって言って……私の代わりに、“痛い”って叫んでよ……——私じゃなくて、誰かが、私を……」

けれどその声は、世界に届かない。

なぜならこの世界は——

“痛みを共有する者”は称えられ、

“痛みを訴える者”は消えるから。

【ソフィアの分析(探索人本部)】

≪対象者・三枝涼音は異世界メシア・オルタナにおいて“共感の神格化”対象に指定。

他者の痛みの転写システムにより精神負荷を受け続け、人格構造が希薄化≫

芦屋「やっぱり……“誰かのために”って言葉で、この子は“自分のために泣く”ことを、永遠に許されなくなってる」

悠真「これが……“優しすぎた人間”の、行き着いた先……」

乾「連れ戻すぞ。“痛みを知る者”が、ちゃんと“生きて帰れる世界”に」


異世界メシア・オルタナ/祈りの庭】

午後、祈りの儀式を終えた後の“静寂の時間”。

聖者スズネは、ひとり花壇のそばで本を読んでいた。

そこに、ひとりの青年が現れる。

「……あの、ここに座ってもいいですか?」

“旅の奉仕者”として潜入した悠真は、

自然な態度で彼女のそばに腰を下ろす。

「構いませんよ」

スズネはいつもの、整った微笑で応えた。

【静かな会話】

しばらく無言のまま、風が通る。

やがて、悠真がぽつりと呟いた。

「この世界……不思議ですよね。痛みを持ってる人が、誰も苦しそうに見えない」

スズネは軽く頷いた。

「この地では、“痛みは罪”ではなく“恵み”とされています。誰かの痛みを引き受けることで、人は繋がれると——」

「……でも、それって変じゃないですか?」

悠真はあくまで無邪気な口調で、首をかしげる。

「“痛い”って叫んでる人がいないのって、“誰も苦しんでない”ってことじゃなくて、……“誰も叫べない世界”ってことじゃないのかな」

彼女の微笑みが、ほんのわずかに揺れる。

だが彼女はすぐに、また整った声で返す。

「叫ばなくても、誰かが“気づいて”くれるなら……それは、とても幸せなことです」

悠真は一拍置いて、やわらかく言う。

「でも、気づかれなかったら?叫ばない限り、誰も気づかないままだったら?」

スズネは、言葉を失った。

その目が、ほんの一瞬だけ——不安の色を帯びる。

悠真は空を見上げる。

「……俺、叫ばなかったせいで、誰にも気づいてもらえなかったことがあるんです」

「誰にも頼れなくて、“これくらい我慢すればいい”って思って、でも、気づいたら何も言えなくなってて……」

彼はスズネの方を見ず、ただ風に向かって語るように言った。

「だから、今は思うんです。“叫んでいい場所”があるって、……それだけで救われる人って、絶対にいるって」

スズネは、その言葉に何も返さなかった。

けれどその瞳の奥には、確かに小さな波紋が広がっていた。

≪感情感応波に変化。対象の共感抑制が揺らぎ始めてる。——あと数回の干渉で、“聖者”の仮面は割れるわ≫

「“痛みを理解する者”ほど、自分の傷を無視するのが上手いのよ。——でも、自分を痛めつけたまま他人を救うなんて、無理」


異世界メシア・オルタナ/祈りの塔・内殿】

儀式が終わり、参拝者のいない静かな時間。

白亜の空間に、二人の人影だけが残る。

スズネ(涼音)は神殿の縁に立ち、

遠くを見ていた。

芦屋千歳が、そっと背後から声をかける。

「ねぇ、涼音さん。あなたにひとつだけ、質問していい?」

スズネはゆっくりと振り返り、整った微笑で答える。

「……はい、どうぞ」

芦屋は、真っすぐな瞳で見つめながら、言った。

「あなた、“痛み”を受け入れてるんじゃなくて、“自分が痛むことで、他人が救われる”って思い込まされてない?」

スズネの微笑が、わずかに固まる。

「私は……人の痛みを知っている人間として……その痛みを代わりに持つことに、意味があると——」

芦屋がすかさず言葉を重ねた。

「それ、“意味がある”んじゃなくて、そうしなきゃ存在を許されなかったんじゃない?」

「小さい頃から、“いい子”でいなきゃ怒られた。“人のために我慢するのが立派”だって言われた。本当は痛かったのに、“そんなこと言っちゃダメ”って、

自分の気持ちをどんどん殺してきた——」

「違う?」

スズネは、答えられなかった。

だが、目だけが、かすかに揺れていた。

芦屋は一歩、彼女に近づいた。

「自己犠牲ってね、“自分を差し出す”ことじゃないの。“自分を持ったまま、誰かと向き合う覚悟”のことなの」

「共感って、“一緒に傷つくこと”じゃない。“あなたが痛いなら、私もちゃんと耳を傾ける”ってこと。そして、“私も痛い”って言っていい場所を作ること」

「涼音さん。あなたは、“人の痛みがわかる人”なんかじゃない」

スズネが、息を呑む。

芦屋は、微笑んで続けた。

「“人の痛みをわかろうと、必死になりすぎて壊れかけてる人”よ。だからね——そろそろ、自分のために泣いてもいいの」

沈黙。

スズネの目に、初めて“にじみ”が現れる。

「……私、

“自分が痛い”って、言っちゃいけないと思ってました……でも……でも……本当は……苦しかった……!」

芦屋が、そっと彼女の手に触れる。

「その“苦しい”が言えたら、次は——“生きたい”って言ってもいいのよ」

≪感情パラメータ安定化確認。対象:三枝涼音、精神座標回復——帰還可能状態に移行≫

悠真「スズネさん、……じゃなくて、三枝涼音さん」

「あなたの痛みを、これからはあなた自身の声で伝えてください」

ルナ「そのときは、私たちがちゃんと、そばにいるから」

涼音は初めて、作られた微笑みではない——

“弱さをさらしたままの涙”を浮かべながら、ゆっくりと頷いた。


【現実世界/《シェルター017》医療区画】

白い光の中から、転送カプセルが開く。

そこにいたのは、白いローブを脱ぎ、

うっすらと涙の跡を残した——三枝涼音だった。

だが、その目は澄んでいた。

微笑みはない。

でも、その顔には、“生きている実感”があった。

芦屋がそっと、白衣を肩にかけながら言う。

「ようこそ、涼音さん。“あなた自身”の世界へ、おかえりなさい」

涼音は、小さくうなずいた。

【リハビリルーム】

数日後、医療支援チームと連携し、

涼音は“現実社会での再適応プログラム”に入る。

朝は、静かな日記を書き。

昼は、カウンセラーではなく“患者”としてセッションに臨む。

夜は、深呼吸をしながら、“自分の気持ち”を言葉にする練習。

ラウンジのソファ。

紅茶を前に、涼音はゆっくり話し始める。

「……人の話を聞くのは、怖くなりました。今は、もう誰の痛みも受け止められない気がして」

芦屋は首を振る。

「それでいいのよ。今は“誰の話も聞かない”って、自分に決めてもいいの。聞くことより大事なのは、“自分の声”をちゃんと拾うことだから」

「……私の声」

涼音は、自分の胸に手を当てる。

「“疲れた”“やめたい”“もう無理”って、本当は、何度も叫んでたんですよね……」

芦屋は微笑んだ。

「それを聞いてあげるのが、“あなた自身”の仕事なのよ」

ベンチに並んで腰かける悠真と涼音。

涼音が、少しだけはにかむように言った。

「……ねえ、悠真くん。“誰かの痛みをわかる”って、やっぱり大事なことだと思う?」

悠真は少し考えてから、答えた。

「うん。でも、それよりも大事なのは——“自分が痛いって、ちゃんと認められること”だと思います」

「……他人の気持ちがわかる人ほど、自分の気持ちは後回しにしがちですから」

涼音は、目を伏せながら、でもやわらかく笑った。

「……ありがとう。私、これからは“わかろうとする”だけじゃなくて、“わかってほしい”って、言ってみるようにします」


数ヶ月後。

地方の市民支援センターで、新しい仕事を始めた涼音。

今度の彼女は“相談員”ではなく、“傾聴ボランティアの一員”として、

時に無理をせず、時に“話を聞かない勇気”も持ちながら、

ゆっくりと、でも確かに誰かと関わり始めていた。


【手記・彼女のメモ】

私は、もう“痛みの器”ではない。

私は、私として生きていく。

涙も、怒りも、笑顔も、全部、私の感情。

それを“誰かのため”に押し殺さなくていい世界で——

私は、やっと、息ができるようになった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ