ダニー
男は、その時いつも目を閉じ、それに静かに手を置く。
目の前には、生きている馬や牛、羊などの姿が映し出され、彼らの息づかいや匂い、草を食む音までが鮮明に浮かんでくる。
今日は――?
今日は、やさしい瞳をした仔牛だ。まだまだやんちゃで、母親を困らせてばかりいたんだな……。
男は目を開けると、そっと手を放した。
目の前にある動物の皮を、革にする作業に取り掛かる前、男はいつもこの儀式を行う。この儀式は、男の懺悔でもあり感謝でもあり、問いでもあり偽善でもあった。
男の名はダニー。リューナ国屈指の革職人だ。
彼の毎日は規則正しい。早朝には小屋の前で木刀を振り、鍛錬する。職人たる者、体力が基本だというのが彼の信念だ。そして軽く朝食を済ませた後、習慣になっている”儀式”をして作業に取り掛かる。
今日もそのはずだった。
だが、今、目の前にいる少女によって彼の規則正しい日常には少々狂いが生じている。
少女はルナ・アーネスというらしい。姿かたちは普通の子供だが、妙に落ち着いた顔つきをしている。そして身の丈に合わない立派な馬まで連れている。
しかもその少女は、とんでもない物を2つも持ってきた。
通行証と王直筆の手紙だ。
「俺は物心ついたときからこの仕事をしているが、あんたらみたいな客が来たのは初めてだ……」
少女は伏し目がちに「よろしくお願いします」とだけ言った。
王はルナに通行証と共に、一通の手紙を渡したのだった。
「そなたの今の身なりでは、旅はおろか、森に入ることもできぬぞ」
ルナは白っぽいワンピースに編み上げのベスト、細身で厚手のタイツに靴という、普段と変わらない格好で家を出てきた。そもそも、持っている服も少ない上に、旅にはどんな物が必要なのかも分からなかったのだ。
唯一、ガレスに乗せる鞍だけは、ノアに使っていた物が残っていた。
「まさかオレがあいつのお下がりを着けることになるとはな……」
その時はルナにはガレスの言っていることがよく分からなかったが、ガレスは文句を言いながらも少し嬉しそうだった。
「馬に乗るにはブーツも必要だ。さらにここから先は北へ行く程冷える上に、森の中では木々で傷だらけに、砂漠へ行こうものなら砂で目をやられるぞ」
ルナは王の言葉に、自分がいかに甘かったかを思い知った。
「ここから少し北へ行くとな、ダニーという革職人がおる。この国の兵や王室の革製品はほぼ全てその男が作っておる、最高の職人だ。その男に、そなたに適切な装備をさせるよう私から命じておこう。なぁに、ちょっとばかし変わった男だが、いい奴だ。そなたの大事な馬が革にされんようにだけ気をつけるようにな」
最後のは王なりの冗談だったようだが、ルナはちっとも笑えなかった。
ダニーは職人気質丸出しの男だった。
歳の割に引き締まった体をしていて、ややクセの強い髪は無理矢理後ろでひとつに束ねられている。その瞳は真っ直ぐに相手を捉えることはなく、ルナともあまり視線を合わせようとしなかったが、ルナはこの男が嫌いではなかった。
小屋の中は獣と生き物の脂が混ざったような、お世辞にも良いとは言えない臭いが充満している。
ダニーはずらりと並んで掛けられた革のマントを前にして、目を閉じた。そしてひとつひとつを確かめるように手で触れていく。
何してるんだろう……?
ルナは思わず聞きたくなったが、話しかけてはいけない気がして、出かかった言葉を飲み込んだ。
しばらくして、ダニーは1枚のクリーム色のマントを選び、ルナに差し出し、こう言った。
「こいつは羊だ。防寒性があってしなやかだ。こいつは神経質な奴だが、あんたとは相性がいいだろう。ブーツはあの中から足に合う物を選べ」
「は、はいっ!」
相性がいいってどういうことだろう?
ルナは牛革のブーツに足を入れながら首を傾げる。
「あんたの馬にもマントが必要だな。馬は外だな」
ダニーはルナを置いて外へ出ると、退屈そうに木陰で草を食んでいるガレスの元へ行き、彼の背に手を置いた。
「!?」
ガレスはビクリと一瞬体を強ばらせた後、首を起こしてダニーを見る。
「……」
「あんたは中々苦労してきてるな……、あの嬢ちゃんはいい薬になるだろ?」
「……」
「久しぶりにあんたみたいな馬に会った。あの嬢ちゃんを守ってやってくれ」
ガレスはダニーを見つめまま、フンと鼻を鳴らした。




