店主
「ルナ、知ってると思うけど、森や砂漠へ行くには王都の通行証が必要よ?」
「うん、知ってる」
小さな木製のテーブルを挟んで向かい合いながら、食後の紅茶に口をつける。いつもはコーヒーなのだが、今日は2人とも紅茶に砂糖をたっぷり入れた。
「通行証さえあれば、ルナでも関所を通れるわ」
「でもお母さん、王様は私なんかに通行証を出してくださるかなあ?」
ルナはガレスから旅に出ると告げられてから、このことがずっと気がかりだった。
リューナ国では20年前のバケモノ騒ぎ以降、特別な仕事に就いている者以外の森と砂漠への侵入が禁止されていた。10年前にスール橋ができてからは、橋入口での検問も強化され、鉱山への立入制限もあった。
鉱山の北側に位置する港付近は、密入国者に対する警備のため常に物々しい雰囲気が漂っていて、好き好んでこの方面へ行こうとする一般人はおらず、人々の生活圏は都市アルブとその東の草原のみだった。
3国の中でも、最も保守的国家であるリューナ国では、王の許可なくしての移動は不可能だ。
あのガレスとかいう馬、言葉を話せるくらいなら空も飛べないのかしら。だったら簡単に関所を超えることができるのに。
それはちょっと都合がよすぎるかな、とルナは口元を緩めた。
「ルナ」
ふいに、真剣なまなざしの母が口を開いた。
「ん?」
「ルナ、王都へ行ったら、お父さんの名前を伝えてみて」
「えっ?」
「あのね、もしかしたら、王様はお父さんのことを知ってるかもしれないわ……」
「どういうこと?」
そんなの、初耳だ。
「お父さんがいなくなってからしばらくして、王室からお父さん宛の手紙が届いたの。勝手に開けるのも気が引けたけど、すごく気になって私読んだわ。そこにはね、『国王への謁見を許可する』って書かれてあったの」
「どうして……なんでお父さんが王様に会うの?」
「分からないわ。お父さんは王様に何か伝えたいことがあったのかもしれない。謁見の許可は普通余程のことがないと下りないわ。ということは、王様もお父さんに会いたいってことでしょ? でもその前にお父さんはいなくなってしまったから、私にはどうしようもなくて……」
「……」
ルナの胸の中がザワザワした。
「とにかく、お父さんの名前を出せば王様に会えるかもしれないわ……。駄目だったら絶対に無理はしないでちょうだい。お母さんはあなたを犯罪者にはさせたくないの」
「分かったよ、お母さん。私だってお母さんを悲しませたくないもの」
胸の中のザワつきは収まらなかった。
父が謁見の申し出までして、王に伝えたかったこととは何だったのだろうか。当時6歳だったルナには、いつも笑顔だった優しい父の記憶しか残っていない。
文具屋の店主は意外にも冷静だった。
夕方、ルナが訪ねると、店主はルナがここで働かせてほしいと初めて店に来た時に見せた表情と、同じ顔を彼女に向けた。そして、しばらく家を出ることになったので辞めさせてほしい、とひたすら頭を下げるルナにこう言ったのだった。
「おじさんはアーネス君が戻るまで、今よりもうちょっと真面目に仕事をするよ。じゃないとその間売上が落ちてたら、君に怒られちゃうだろ? ははっ!」
「店長……」
「僕は、ルナを娘のように想ってる。必ずここへ戻っておいで」
「……はいっ!」
ルナの鼻の奥がツンとした。
「はははっ! こんなこと言ったら君の親父さんに怒られちまいそうだなあ! あっ! おじさんは怒られてばっかりだなあ、ははははっ!」
帰り道、店主の笑い声はいつまでもルナの耳に残っていた。
彼の一人娘は幼くして病で亡くなったと人伝に聞いていた。
ルナは急に自分が恥ずかしくなった。父親を亡くした自分は、ずっと悲劇の主人公だと思っていたのだ。誰もが自分に同情し、優しく接してくれるのが当たり前だと心の奥にあった。夢の中の白馬が辛い現実から自分を連れ出してくれると思い込んでいるように、他人に期待し依存していたのだ。
でもそれは間違っていた。
皆、何かを抱えて生きている、悲しみや苦しみを笑って飲み込んで、他人の幸せまで願っている。
母も自分と同じだと思っていた。でも、先ほどの母の表情を見て、甘えていたのは自分だけだったことに気づいたのだ。
街が見渡せる小高い丘の上に立って、ルナは奥歯をぎゅっと噛み締めた。
昨日と同じ色の夕焼けの中、ルナの薄茶色の瞳は空の色を反射して、鮮やかな橙に輝いていた。




