母
「アーネス君、今日は一体どうしたんだい?」
無精髭だらけの、よく陽に焼けた顔が目の前にヌッと現れて、ルナは一瞬跳び上がりそうになった。
「アーネス君? なんだい、悩み事でもあるのかい? おじさんに話して解決しないかもしれないけど、おじさん、アーネス君の話なら何でも聞くぞ、うん」
はっ! いけない。
またボーっとしてしまった。
手元に目をやると、付けかけの値札がそのままになっている。そして隣には自分のことを「おじさん」と連呼する店主が、心配そうな目をこちらに向けていた。
「あっ、いえ、大丈夫です。すみません……」
昨夕の出来事が何度も頭の中を往復する。
馬がしゃべるのは百歩譲ったとしても、なぜ私の夢の中の白馬がお父さんと関係するのだろう?
そういえば、うちで飼ってた馬も白かったなあ。でも、夢の白馬は瞳も金色で、もっとずっと綺麗だったし……。
「う~ん……」
そもそも、目的が一致したってどういうことかしら? あの馬は私の夢の中の白馬を探してるってこと? 全くわからない。
「はぁ~……」
あの時はびっくりして緊張していたせいで、ついつい敬語になっちゃったけど、よく考えたらなんで私が馬に敬語を使わなきゃいけないのかしら。馬は家畜なのに。
そうよ、今度あの、えっーと、そうそう、ガレスとかいう無愛想な馬に会ったら絶対ガツンと言ってやるんだから――。
「アーネス君……、ごめんね。おじさん気づいてあげられなくって。そうかそうか、そうだったのか。お腹が痛いんだね。アーネス君も女の子だもんね、うんうん。おじさん男だけど、君の辛さ、ちゃんと分かるよ、うん」
彼は何かカン違いをしたようだが、ルナはこんなお調子者の店主や、今の仕事が好きだった。
父がいなくなってからの母と2人の生活は苦しかった。
もちろん、一家の大黒柱を失った苦しさもあったが、それよりも心が苦しいのだ。
母もルナも、父についての会話を無意識に避けた。父は死んだと自分に言い聞かせて諦めながらも、2人とも心のどこかで認めるのが怖かったのだ。
そんな心の穴を埋めるために、母は必死で働いた。そしてルナも15の誕生日を迎えてすぐに、この文具屋で働き始めた。
働いて、体も頭も疲れさせて、やっと2人は眠ることができるのだった。
旅に出るなら、この仕事も辞めなきゃ……。
お母さんは私が旅に出ることを許してくれるだろうか……。
翌日、仕事が休みの母親は昼食の準備のため、キッチンにいた。
カン違いしたままの店主から、無理矢理休暇を押し付けられたルナだったが、どう母親に切り出していいか分からず考えている内に、時計の針は正午を回ってしまっていた。
「お母さん……」
ルナは忙しそうな母の背に声をかけた。
「なぁに? ルナ、もうすぐできるから待っててちょうだい」
「お母さん、お父さんは生きてるかもしれない」
「……えっ?」
母はゆっくり振り向いた。
スープの煮えるぐつぐつという音だけが一瞬キッチンを支配する。
ルナは、もう、ありのままを話そうと思った。
夢の中の白馬のこと、言葉を話す黒馬に告げられたこと、そしてその馬と旅に出ること。
ルナは昨夕の出来事を思い出しながら母に話した。夕日が眩しかったことや、ひどく疲れたことも、緊張しているせいか、自然と口から出てきた。
その間、彼女は何も言わずにルナの話に耳を傾けた。馬が言葉を話したことについても、決して笑ったりはしなかった。
ルナの話を聞き終わると、彼女は静かに口を開いた。
「ルナ、わかったわ」
「……お母さん?」
そう、そうだった。
ルナは思い出した。
幼い頃はとても厳しい母だったが、ルナが働き始めてからは、決して彼女を否定したり反対することはしなかった。母はいつも選択権を自分にくれるのだ。母はそんな人間だ。
「ルナ、よく聞いてちょうだい」
ルナの両肩に手を置いて、彼女は続けた。
「お母さんはね、いつかルナがお父さんを探しに行くと言い出すんじゃないかって思っていたわ。お父さんが生きていたとしたら、それはとっても嬉しいことよ。でもね、ルナが無事でいてくれないと意味がないの。ルナ、お母さんはあなたを信じてる。必ず生きて戻ってきてちょうだい」
「お母さん……」
母の前では絶対に泣かないと決めていたのに、目の前の母の顔は輪郭も分からない程にボヤけていた。




