ノアの後悔
あれは……! 見覚えがある……。
カチャリカチャリと揺れる短剣を静かに目で追う一頭の白馬。
いや、白馬と言うには今は語弊がある。その体はまるで澱んだ空の色をしているのだから。
短剣の持ち主であるジーグの二番手――シャロンは、今日も手下や人間に淡々と指示を出している。
”今日”と言っても、今が一体いつなのかよく分からないが。
ノアは仕事中のベンと森から地下へ落ち、ここへ来てからずっと、テレパシーを送り続けていた。
ジーグらに捕まったのは完全に不覚だった。
森と砂漠の地下の不穏な気配には気づいていたはずなのに。
ベンに協力を仰ぎ、王政に地下の調査を要請しようとする、まさにそんな時だった。
幾筋もの希望の糸がぷつりぷつりと切れる中、たった一本の細い糸だけが頼りなげに繋がった。それがベンの娘、ルナだったのだ。
ノアは落胆した。当時六才の幼い少女に助けを求めたところで、何かが変わるとは思えなかったからだ。しかし、何もせずにこんな所でベンと力尽きることだけは避けたかった。
大きな力を使う時、彼の瞳は金色に輝く。
地下深くに居るせいだろうか、地上へテレパシーを送るのは容易ではなかった。ノアの強い力を使っても、ルナの意識が薄れている時にだけ、その細い糸を手繰り寄せることができた。
ここ最近、急にルナの気配が近づいてきている。ルナだけではない、この気配はガレスだろう。もうひとつ、よくわからない気配も感じるが、獣かなにかだろうか?
ノアは自ら呼びかけたことを、今になって後悔していた。ルナが呼びかけに応える、それはつまり、彼女の命を危険にさらすということなのだ。
今、シャロンの腰に下がる短剣を目の前に、ノアの後悔は、彼の胸の中で大きな不安へと塗り替えられていく。
「ルナ、行くぞ。乗れ、一気に突っ込むぞ」
ナイトを背に乗せたガレスがルナを促す。
自分が乗るよりもずっと絵になるその出で立ち。迂闊にも一瞬見とれてしまったことを悟られないように、ルナは「少し待って」と言い、ドルモンに近づく。
「ドルモン、ありがとう。……ごめんね」
何も考えずにするりと出てきた言葉。
ドルモンに触れた右手から伝わってくる温かさに、ルナの胸はチクリと痛んだ。
彼は小さな目を不思議そうに一度しばたたかせただけだった。
小刀で顔を何度も切りつけられるような風を感じ、ぎゅっと目を瞑る。薄目を開けたところでどのみち、線状となって通り過ぎてゆく景色しか見えないのだから。
ルナは後ろからナイトの脇腹にしがみつくので精一杯だ。
とにかくガレスは速かった。
馬に乗り慣れているだろうナイトでさえも「ルナ、大丈夫か?」と声だけで心配してくる。彼の左手は葡萄色に染められた革の手綱に、そして右手は長くしなやかな刃を支える剣の柄を握りしめている。リューナの技術ではここまでの品物を造ることはできないだろう。
銀色に光る刃は、体当たりしてくる風を鋭く切り裂き微動だにしない。ナイトの脇腹に回した腕から布ごしに伝わる硬い腹筋はルナにとって未知の感触で、意識を他に向けようとすればする程、それは主張してくる。
光の矢のように走り抜けるガレスの背で、今までの旅のことや待ち構えるジーグたちのこと、父親とノアのこと、そしてなぜかナイトの腹筋のことで頭の中がごちゃごちゃになっていると、ガレスの息遣いのリズムが少し変わるのを感じた。
ガレスが速度を落としたのだ。
そう、ガルの手下がいる場所であり、ルナが落ちた部屋でもあるその入口が、ぱっくりと大口を開け、今にも全員を飲み込もうとしていた。
「ガレス! 落とさなくていい! そのまま突っ込めっ!」
ナイトが身を深く屈めて叫ぶ。
「分かった。ナイト、オレが言ったことを忘れるな!」
「チッ、分かったよ! めんどくせぇがしょうがねぇな! 行くぞ!」
吸い込まれるように、引き寄せられるように、一行はその洞穴へと飛び込んだ。




