二度目の夜
落ちた。いや、ひきずり落とされたのだ。
何に……?
ルナはおそるおそる振り返る。
「……ひっ」
自由の利かないルナの腕ごしに見えたのは、赤く光る鋭い双眸と黒光りする大きなカギ爪。「グルルル…」という低いうなり声はどこかルナをあざ笑っているようにも聞こえる。
バケモノはルナの真後ろにいたのだ。虚の急勾配な穴の側面に、そのカギ爪で大きな体を支えながら顔の上部だけを覗かせている。
また全身の力が抜けていくのを感じながらルナは声を絞り出す。
「あ、なたは、さっき……の」
しかし帰ってきたのはグルル……という唸り声だけだった。この個体は先程地下にいた個体とは違い、しかもどうやら人間の言葉を話さないようだ。
あの兵士はどうなってしまうのだろう。
私のせいだ……、私が助けを求めたから。
いつもガレスに鈍い鈍いと言われているルナにも、自分が今置かれている立場が理解できた。考えたくない、認めたくもないが……
私は、囮だ。
人間を地下に落とすための。
「ルナ、無事か? 助かったのか!?」
「ガレス……」
「どうした!? さっきの兵士はどこへ行った?」
「私のせいよ、私のせいで助けてくれようとした人が……!」
ルナの目からぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「ルナ……」
「ガレス、私、囮にされてるみたい……。すぐ後ろにバケモノもいるの。鎖も固定されてて外せそうにもないし、もう助けも呼べない。いつ後ろから襲われて殺されるのかも分からない」
「ルナ、落ち着け」
「ガレス、ガレスはこのままあなたの帰るべき所へ戻って。こうなったのは全部自分のせいなんだから。ノアやお父さんに会いたいけど、もう協力できなくてごめんなさい。ごめんなさい……」
拭く袖を失くした涙は、ルナの頬を伝ってポタポタと黒い地面にさらに黒いシミを作ってゆく。
「ルナ、いい加減にしろ」
どこかで聞いたことのあるセリフ。ガレスは怒っているのだろうか。
「バカなことを言うな。いいか、落ち着け。お前はまだ生きているんだ」
「だって、もう……」
「いいからオレの話を聞け。もうぐずるな。バケモノが落ちたお前をわざわざ囮にしたのには何か理由があるはずだ。後ろのヤツはまだいるか」
「う、うん、まだいるわ」
「……そうか。ルナ、辛いと思うが少し辛抱しろ。ヤツがずっとそこに居続けるとは思えん。何かしらの隙ができるはずだ。」
「……」
「ルナ、短剣はあるか?」
そうだ、私にも剣があったんだ。
腰にならまだ手が届く。
しかし、腰のベルトに収まっているはずの短剣は、鞘ごと消えていた。
「ガレス、短剣がない!」
落ちた時に落としたのか、はたまたバケモノに抜き取られたのか。
ルナの目の前にやっと現れた一筋の光は、瞬く間に消えてしまった。
「どうしよう……」
短剣があれば、バケモノの目を盗んで鎖を少しずつ切ることができたかもしれないのに。私は大切な物を失ってばかりだ。
「ルナ、あいにくオレは馬だ。人間のように器用に指や手を使うことはできん。だが力はある。とにかくヤツに隙が生まれたらすぐに教えろ。いいか、絶対に一人でどうにかしようとだけはするな」
「う、うん」
「今日はもう日が暮れる。このままヤツの様子を窺っておけ。何かあったらオレを呼べ、分かったな」
白い月明かりも、虚の中までは届かない。
不安と恐怖に震える夜を過ごすのは、ルナにとって二度目だ。一度目は父親が消えた日だった。
固い地面はごつごつとしていて、這いつくばったままの体のあちこちが痛い。ぬるぬるとした謎の液体や土、雨水でマントも服もこれでもかと言うほど汚れてしまった。
ルナはそろりと眼だけを動かして後ろを窺ってみる。
バケモノは変わらずギロリと赤い目を見開いていた。
「……」
動く気も、眠る気もないみたいね……。地下にいたバケモノはかなり知性があるみたいだったけど、このバケモノは人間の言葉を理解していない様子だわ。それにしても……、
ルナはぎりりと唇の端を噛んだ。
あの、スール橋の兵士……!
人の好さそうな兵士の顔が頭に浮かぶ。
あの男はたぶん知ってて虚の話をしたんだわ。私やガレスをバケモノのいる地下に落とすために。バケモノと繋がっている人間がいたなんて。
今はまだ、その理由も目的も分からない。ただ、ルナは悲しく、悔しかった。今まで温かくて優しい人々の中で生きてきたせいなのだろうか。話も聞かずに疑う人間、冷たい瞳で刃を突きつける人間、笑いながら平気で騙す人間……。
大きくて冷たい手に、心臓をぐにゃりと鷲掴みにされた気がして、ルナは身震いをした。
恐ろしいのはバケモノだけでなく、人間も同じなのかもしれない。




