第9話:地下へ続く記録
シュタルク公爵家の朝は、妙に賑やかだった。
長い食卓には、朝から随分な量の料理が並んでいる。
パンに卵料理、煮込み、スープ、彩り豊かなサラダ。
シルヴァンが感心したように呟いた。
「公爵家の食事、朝から豪勢ですね~」
「だろ?」
ライナーが得意げに言う。
「マルガレーテが本気出すともっとすごいぞ」
「怖」
クロウレイはスープを口にしながら、しみじみと言った。
「ミレイユ、ずっといいもの食べてたんだねぇ」
ミレイユが少し困ったように笑う。
「とても良くしてくださっています」
「当然だ」
アロイスが即答した。
少しむすっとした顔で。
クロウレイが面白そうに目を細める。
「でも、ミレイユの料理も美味しいんだよ」
「僕とレオニードしか知らないけど」
完全にマウントだった。
アロイスの眉がぴくりと動く。
ライナーが食いついた。
「いいな、料理上手な嫁」
「俺も嫁さんほしい」
エドガーが静かに紅茶を置く。
「元気になられたら、ぜひ一度いただいてみたいです」
「俺も俺もー」
シルヴァンが即座に乗る。
ミレイユが少し慌てた。
「え、あの、そんな大したものでは……」
「謙遜しなくていいよぉ」
クロウレイはにこにこしている。
「ミレイユ、昔から料理上手だったし」
アロイスが静かに言った。
「……今度作れ」
ミレイユが目を瞬く。
ライナーが即座に吹き出した。
「うわ、自然に予約した」
「黙れ」
マルガレーテが嬉しそうに笑う。
「にぎやかだこと」
ルドルフは静かにお茶を注ぎながら、遠い目をしていた。
「公爵家はどこへ向かっているのでしょうな……」
誰も答えなかった。
いや、答えられなかった。
*
朝食後。
穏やかだった空気は、急速に変わった。
ルドルフが食堂へ戻ってくると、一礼して告げる。
「閣下、皇宮から招集が」
空気が少し張る。
アロイスが静かに問う。
「どっちからだ」
第一皇子か、第二皇子か。
ルドルフは一瞬だけ間を置いた。
「……第二皇子殿下でございます」
室内の空気が変わった。
ヴァルターが昨夜、第二皇子へ報告に向かったことは聞いている。
だが、その翌朝には招集。
あまりにも早い。
アロイスは小さく眉を寄せた。
「内容は」
「地下旧層調査に関する件、と」
クロウレイの笑みが僅かに薄れる。
シルヴァンも軽口を止めた。
ミレイユだけが、静かに俯く。
地下。
その言葉を聞いただけで、胸の奥がざわついた。
『――――』
遠い声。
また、微かに聞こえた気がする。
アロイスが即座に気づいた。
「ミレイユ」
低い声に、ミレイユは小さく首を横へ振る。
「……大丈夫です」
だが、大丈夫ではないことくらい、全員分かっていた。
クロウレイが静かに立ち上がる。
「僕も行こうか」
「当然のようについてくるんですね」
シルヴァンが呆れた声を出す。
「愛弟子絡みだからねぇ」
「師匠さん、完全に保護者じゃん」
ライナーまで普通に混ざっている。
「今さら?」
クロウレイが平然と返した。
アロイスは小さく息を吐く。
「準備しろ」
短い言葉。
それだけで、空気が切り替わった。
*
数時間後。
皇宮西棟。
普段ほとんど使われない古い会議室に、ミレイユたちは集められていた。
分厚い石壁に古い燭台。
机上には大量の古文書と地図が広げられている。
そしてその奥には、第二皇子がいつもの穏やかな表情で座っていた。
「急に呼び立ててしまって悪かったね」
口調は柔らかい。
だが、その目は静かに冴えている。
ヴァルターが一礼した。
「例の件ですか」
「そうだ」
第二皇子は机上の古い本へ手を伸ばした。
革表紙は擦り切れ、端も変色している。
何度も読み返された痕跡があった。
「以前、母方の家から譲り受けて、皇宮の私蔵庫に置いてあった資料だよ」
ミレイユが小さく目を見開く。
アロイスは黙ったまま、その本を見ていた。
「正史には残っていない……いや」
第二皇子が小さく笑う。
「残さなかった、の方が正しいのかな」
室内が静まり返る。
第二皇子が本を開くと、中には手書きの記録が綴られていた。
地下構造図。
古い調査報告。
そして、帝都地下の断面図。
エドガーが静かに呟く。
「……地下旧層」
ヴァルターも目を細める。
第二皇子が頷いた。
「帝都地下には、現皇宮よりさらに古い層が存在する。古代帝国期の構造物と思われる地下区画だ」
アンネリーゼが静かに問う。
「これを、側妃家系が調査していたのですか」
「数代前にね」
第二皇子は淡々と答えた。
「古い童話を本気にした変わり者がいたらしい。おかげで、こうして資料が残ったわけだけど」
シルヴァンが身を乗り出す。
「本当にあったんですね、その話」
「興味深いことにね」
第二皇子は穏やかに笑った。
「だが、そう簡単にはいかないだろうね」
その声に、ヴァルターが僅かに目を細める。
第二皇子は資料を一枚抜き取った。
古い報告書。
そこには、地下旧層探索に関する記録が残されている。
「地下構造そのものは確認されている。ただし――」
指先で、ある一文を叩く。
「奥へ進んだ調査隊は、全員撤退している」
シルヴァンが顔をしかめた。
「撤退?」
「原因不明の恐慌」
「極度の閉塞感」
「幻聴」
「錯乱」
穏やかな声だからこそ、不気味だった。
エドガーが静かに問う。
「それほど以前から、精神干渉が発生していたということですか」
「現在のような共鳴反応が確認されるより、遥か以前から」
第二皇子は笑った。
「そういうことになるね。完全に沈黙していたわけではなかったらしい」
ヴァルターが資料へ視線を落とす。
「つまり、“真なるもの”と呼ばれている何かが帝都地下に存在する可能性は高い」
第二皇子は何も言わない。
ヴァルターはさらに続けた。
「少なくとも、休眠中の遺構で確認されたものと似た精神干渉が、以前からここで起きていた」
「そして現在」
アンネリーゼが静かに引き取る。
「各装置の共鳴に呼応して、その反応が強まっている可能性がある、と」
空気が重くなる。
ミレイユの指先が僅かに震えた。
その時、クロウレイがさりげなく、机の下でミレイユの手首を軽く叩いた。
はっとして顔を上げる。
クロウレイは穏やかな顔をしていた。
「考え込みすぎ」
「……すみません」
ミレイユは小さく息を吐く。
アロイスはそのやり取りを黙って見ていた。
少しだけ複雑そうな顔で。
第二皇子が次の資料を取り出した。
「さらに興味深いのは、ここだ」
そこには、乱れた筆跡が残されていた。
まるで極限状態で書き殴ったような文字。
ヴァルターが読み上げる。
「“地下で、誰かが呼んでいる”」
静かな沈黙。
「“扉の向こうで歌っている”」
ミレイユの呼吸が浅くなった。
ぞわり、と背筋を冷たいものが這う。
アロイスが即座に気づく。
「ミレイユ」
低い声。
だが、ミレイユはすぐには答えられなかった。
遠く、深く。
帝都の下。
何かがいる。
『――――』
声が聞こえる。
以前より近く、以前より鮮明に。
クロウレイが静かに問いかけた。
「……聞こえる?」
ミレイユは迷った末、小さく頷く。
「少し、だけ」
室内が静まり返った。
「前より近いんです」
ミレイユはゆっくり続ける。
「ずっと下から……呼ばれているみたいで」
シルヴァンが顔を引きつらせた。
「嫌すぎるんだけど」
ヴァルターが低く呟く。
「装置側が、既にミレイユ様を認識している。王国での推測は正しかったわけですね」
第二皇子は穏やかに笑った。
だが、その目は冷静だった。
「つまり向こうも、“鍵”を探している可能性がある」
視線がミレイユへ向く。
ミレイユは無意識に肩を強張らせた。
アロイスが僅かに前へ出る。
庇うように。
それを見た第二皇子が、ふっと笑う。
「安心しろ。今すぐ彼女を地下へ連れていくつもりはないよ」
シルヴァンがぼそっと言った。
「“今すぐ”って言った」
「聞こえているよ」
第二皇子は普通に返した。
怖い。
ライナーが小さく呟く。
「この人、笑顔で圧かけてくるタイプだよな……」
エドガーが静かに頷いた。
「非常に権力者向きですね」
「褒め言葉として受け取っておこうかな」
第二皇子は楽しそうだった。
だが、空気は軽くならない。
むしろ逆だ。
資料を読み進めるほど、地下にある“何か”の異常性だけが増していく。
ヴァルターが次の頁をめくった。
「地下旧層最深部には、巨大封鎖扉が存在する」
さらに資料へ目を走らせる。
「開閉機構不明。材質不明。内部未確認」
「未確認、ねぇ」
シルヴァンが嫌そうな顔をした。
「もう嫌な予感しかしない」
その時だった。
ミレイユが小さく顔を上げる。
「……待って」
全員の視線が向いた。
何かを探ろうとしたわけではない。
意識を地下へ伸ばしたわけでもない。
ただ突然、頭の奥へ像が流れ込んできた。
暗闇。
遥か地下へ続く、巨大な構造。
そして、その最深部にある――扉。
ミレイユの肩が震える。
「ミレイユ」
今度はクロウレイの声が鋭かった。
「追わなくていい、そのまま戻って」
ミレイユは息を吸う。
目の前の会議室へ意識を戻そうとした。
机。
燭台。
クロウレイの声。
アロイスの気配。
それでも、像が消えない。
巨大な扉が見える。
ミレイユは青ざめたまま呟いた。
「……見えます」
室内の空気が張り詰める。
「大きな扉が」
クロウレイがミレイユから目を離さない。
「それ以上、見ようとしなくていい」
「見てるんじゃ、ないんです」
ミレイユの声が震えた。
「勝手に……入ってくるんです」
その言葉に、クロウレイの表情から笑みが消えた。
アロイスも僅かに息を呑む。
ミレイユは目を閉じることすらできなかった。
目を開けていても、見える。
会議室の向こうに重なるように。
暗い地下。
巨大な扉。
「まだ、閉じています……でも」
小さく息を呑む。
扉の向こう。
何かがいる。
そして。
――ドン。
音ではない。
それでも、確かに感じた。
もう一度。
――ドン。
ミレイユの指先が震える。
「……向こう側から」
誰も声を出さない。
ミレイユは青ざめたまま、ゆっくりと言った。
「叩いています」
静寂が落ちた。
ミレイユが扉を探し当てたのではない。
扉の向こうにいる“何か”が、ミレイユへ自分の存在を知らせている。
そんな可能性を、誰も口にはしなかった。
けれど。
帝都そのものの遥か地下で。
何かが、こちら側へ出ようとしている。
そのことだけは、もう疑いようがなかった。




