第7話:王国出立
王国へ戻ってから、十日。
短い休養期間は、終わろうとしていた。
王城の客室では帰還の準備が進み、まとめられた荷物がいくつも置かれている。
ミレイユは窓辺に立ち、春の兆しを感じさせる陽射しに照らされた白い城壁を眺めていた。
帝国へ戻れば、また危険の中へ身を置くことになる。
それが分かっているからこそ、この穏やかな時間が少しだけ名残惜しかった。
机上には、アロイスから届いた直筆の書簡。
『遺構の件はこちらでも調査を続けている』
『状況に変化があれば、すぐに知らせる』
『マルガレーテが毎日落ち着かない。顔を見せれば安心するだろう』
いつもどおり、簡潔で無駄のない硬い文体。
ミレイユは最後の一文をもう一度読み、わずかに頬を緩めた。
ミレイユはそっと指先で紙を撫でた。
その時、扉が開く。
「お、まだ準備終わってない?」
軽い調子で入ってきたのはシルヴァンだった。その後ろにはアルベルトもいる。
ミレイユは少し表情を和らげた。
「シルヴァン様」
「様いらないって」
シルヴァンは部屋の荷物を見回す。
「あー、やっぱ帝国戻るんだって感じするねぇ」
少しだけ空気が静かになった。
アルベルトは壁際に立ったまま、黙ってミレイユを見ている。
以前より顔色は良くなった。
それでもまだ痩せているし、無理をしているのも分かる。
だからこそ、余計に苛立つ。
自分は行けない。
護衛騎士である以上、王国を離れて帝国まで随伴することはできない。
そんなことは分かっている。
分かっているから、余計に苦しい。
シルヴァンが軽い調子で笑った。
「いやぁ、護衛騎士様じゃなくてごめんね」
冗談めかしているが、空気を軽くしようとしているのは明らかだった。
アルベルトが低く言う。
「……黙ってついていけ」
シルヴァンが目を瞬く。
アルベルトは視線を逸らしたまま続けた。
「俺の分まで」
ミレイユが小さく目を見開いた。
以前なら、アルベルトが隣にいた。
危険な場所へ向かう時も、王城にいる時も、護衛騎士として当然のようについてきた。
けれど今は、それができない。
そのことを一番歯痒く思っているのが誰なのか、ミレイユにも分かった。
「……アルベルト」
呼びかけても、アルベルトは視線を合わせなかった。
シルヴァンも一瞬だけ笑みを消したが、やがていつもの軽い笑みを浮かべる。
「了解、騎士様。ちゃんと連れて帰るよ」
アルベルトは返事をしなかった。
ただ、握った拳に僅かに力がこもった。
同じ頃。
王城の中庭では、クロウレイがレオニードと向かい合っていた。
「本当に行くのか」
「行くよ」
クロウレイはあっさり答える。
「愛弟子を一人で魔境へ送り出すほど、僕はできた師匠じゃないので」
レオニードが眉を寄せた。
「危険だぞ」
「知ってる」
クロウレイは笑った。
だが、珍しくその目は真剣だった。
「だから行く」
レオニードはしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。
「……本来なら、私も同行したい。だが、王女殿下の側を空けるわけにはいかん」
小さな本音だった。
クロウレイが肩をすくめる。
「王国の重鎮は大変だねぇ」
「お前ほど気楽ではない」
「失礼な」
いつもの軽口を交わしながらも、互いに分かっていた。
これから向かう先が、どれほど危険なのか。
レオニードが低く言う。
「頼んだぞ」
クロウレイの表情が、僅かに柔らかくなった。
「任された」
その頃、王城別棟ではヴァルターとアンネリーゼも帰還準備を進めていた。
机上には各国向けの報告書をはじめ、神聖国関連の封鎖命令や遺構情報の管理文書など、大量の書類が積まれている。
アンネリーゼは淡々とそれらへ目を通していた。
ヴァルターが肩をすくめる。
「現場へ行かれなくて、残念ですか?」
アンネリーゼは羽ペンを止めない。
「いいえ。私は盤面を整える役目です」
さらりと金髪を揺らし、書類を一枚めくる。
「現場は、あの方々の領分でしょう」
「頼もしいことで」
ヴァルターが少し笑う。
アンネリーゼはそこでふと手を止めた。
「ですが……ミレイユ様に、あまり無茶はさせないでください」
珍しく、その声には感情が滲んでいた。
ヴァルターは小さく目を細める。
「ええ。閣下にも、くれぐれもと念を押されていますので」
夕刻。
王城の訓練場を見下ろす回廊に、リディアが一人で立っていた。
近づいてきたミレイユに気づき、振り返る。
しばらく二人の間を、春の風だけが通り抜けた。
「……無事を祈る」
リディアが短く言った。
それだけだった。
だが、戦場を知る人間の言葉だった。
ミレイユは頷く。
「はい」
リディアは少しだけ目を細めた。
「お前は、すぐ無茶をする」
ミレイユが困ったような顔をする。
否定できない。
「だから――」
リディアは短く息を吐いた。
「今度も、ちゃんと戻ってこい」
ミレイユは小さく笑った。
「はい」
その夜。
出立前、最後の晩。
エリシアがミレイユの部屋を訪れた。
今は王女ではなく、姉のような顔をしていた。
しばらく何も言わずにミレイユを見つめていたエリシアは、やがてそっとその両手を握る。
「……命令ではなく、お願いよ」
優しい声が、僅かに震えていた。
「必ず無事に帰ってきて」
ミレイユは一瞬、言葉を失った。
守られている。
心配されている。
帰ってきてほしいと願われている。
それが分かるからこそ、胸が痛かった。
「……はい」
小さく頷くと、エリシアはようやく微笑んだ。
それでも、その瞳から不安が消えることはなかった。
深夜。
眠れずにいたミレイユは、窓辺に立っていた。
眼下の城下町には、夜の灯りがぽつぽつと煌めいている。
その時、ぞわりと背筋が震えた。
『――――』
声。
まただ。
ミレイユの呼吸が浅くなる。
遠く、そして深く。
静かで、巨大で、底知れない“何か”。
以前より近い。
“真なるもの”。
それが少しずつ、目を覚まし始めている。
『――――』
呼ばれている。
ミレイユは胸元を押さえた。
嫌な予感がする。
急がなければならない。
そう思った時、背後から声がかかった。
「また聞こえた?」
クロウレイだった。
振り返ると、少し困ったように笑っている。
「ミレイユは顔に出やすいからねぇ」
ミレイユも力なく笑った。
クロウレイはその隣へ立ち、窓の外へ目を向ける。
「……大丈夫」
いつもの軽い調子ではなかった。
「今度は一人じゃない」
その言葉に、張りつめていたものが僅かに緩む。
ミレイユはゆっくり息を吐いた。




