第4話:つながる残響
翌朝。
ミレイユは、自分でも驚くほど身体が軽いことに気づいた。
窓から差し込む柔らかな朝日と、王城の静かな空気。
そして何より、昨夜は一度も“声”に引きずられなかった。
ミレイユはゆっくり身体を起こす。
頭が軽い。
こんな感覚は久しぶりだった。
コンコン、と扉が叩かれる。
「入っていい?」
シルヴァンの軽い声がした。
返事をすると扉が開き、部屋へ入ってきたシルヴァンが目を丸くする。
「あれ、めちゃくちゃ顔色よくなってない?」
ミレイユが少し困ったように笑う。
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
シルヴァンは本気で驚いていた。
昨日まではかなり危うく、気を抜けばそのまま倒れそうだったのに、今は明らかに違う。
その時、後ろからクロウレイがひょこっと顔を出した。
「当然です」
妙に得意げだった。
シルヴァンが吹き出す。
「師匠効果すごいな、論文できそう」
「それほどでも」
クロウレイは得意げに胸を張り、
「もっと言っていいよ」
と付け加える。
シルヴァンが笑った。
「レオニード様が側についてくれたら、逆に具合悪化しそう」
その瞬間、廊下側から低い声が聞こえた。
「そのうるさい口を封印してやろうか」
レオニードだった。
シルヴァンが即座に距離を取る。
「パワハラです」
「黙れ」
いつも通りだった。
その空気に、ミレイユは少しだけ肩の力を抜く。
帝国へ発つ前と同じ、この騒がしさ。
クロウレイはそんなミレイユを見て、小さく目を細めた。
「ちゃんと眠れた?」
「……はい」
ミレイユは頷く。
「久しぶりに」
それを聞いて、クロウレイの目からほんの少しだけ緊張が消えた。
レオニードは、観察するように静かにミレイユを見ている。
「少し戻ったようだな」
それだけで十分だった。
ミレイユは小さく頭を下げた。
*
その後、一行は王国の謁見室へ向かった。
高い天井に白い柱が並ぶ、静かな空間。
王国の象徴たるその場所の奥、玉座に座していたのはエリシアだった。
柔らかな金髪に、穏やかな微笑み。
だが、ミレイユを見た瞬間、その表情が少し揺れた。
「ミレイユ……」
静かな声だった。
本当に心配していたのだと分かる。
ミレイユは膝をつき、頭を垂れる。
「ただいま戻りました、殿下」
エリシアは小さく息を吐いた。
「……よく無事で」
その声には安堵が滲んでいたが、すぐに少しだけ苦笑する。
「無事とは、言いがたいでしょうけれど……」
視線が、ミレイユの細くなった肩へ向く。
精神摩耗。
それはエリシアにも分かった。
「それでも、一時的にとはいえ、戻ってきてくれて嬉しいわ」
柔らかな声には、太陽のような温かさがあった。
ミレイユの胸の奥へ、じんわりと沁みていく。
エリシアは少しだけ視線を伏せた。
「あなたにばかり負担をかけて……許して頂戴」
本心からの言葉だった。
ミレイユは慌てて顔を上げる。
「勿体ないお言葉でございます……私は、自ら望んで――」
「それでもよ」
エリシアは優しく遮った。
その声音には、王族としてではなく、一人の人間としての想いがあった。
ミレイユは、その優しさに少しだけ目を伏せる。
神聖国の“救済”とは違う。
押し付けではなく、ただ相手を思う温かい感情。
それが不思議と心を落ち着かせた。
エリシアは続いて視線を移す。
「帝国からの使者よ、貴方がたもご苦労でした」
ヴァルターが優雅に一礼した。
「お心遣い、感謝いたします」
穏やかな笑みに隙はない。
アンネリーゼも続く。
「しばしの王国滞在、どうぞお許しください」
完璧な礼に、王国貴族達の空気が少しざわつく。
さすがアダルベルト侯爵令嬢。
一分の隙もなかった。
エリシアは柔らかく微笑む。
「もちろんです。どうか、ゆっくりなさってください」
その後、謁見室の空気が少し静まった。
エリシアの表情も変わり、完璧な王女の顔になる。
「疲れているところ悪いけれど……報告を」
ミレイユは静かに頷いた。
そして、これまで発見された装置について順を追って話し始める。
王国と帝国の国境付近を皮切りに、帝国砂漠地帯、西北部山間地帯、北方国、そして神聖国の聖都直下――各地で見つかった遺跡について。
室内が静まり返った。
特に、神聖国での話。
民衆が“救済”として受け入れていたこと。
異様なほどの平穏。
そして、自分自身が装置へ接続しかけたこと。
そこまで話した時、アルベルトが僅かに拳を握った。
シルヴァンも笑みを消し、リディアは静かに目を伏せている。
ヴァルターが補足するように口を開いた。
「確認されているだけでも、装置は既に五基。しかも、それぞれが独立しているようには見えません」
レオニードの目が細くなる。
クロウレイからも笑みが消えた。
「一つが起動すると、別の装置が呼応している形跡があります。実際、北方国遺跡起動後、神聖国側でも異常活性化が確認されました」
ヴァルターは静かに続ける。
「偶然とは考えにくいでしょう」
エリシアの表情が僅かに曇った。
「石板の状況も、統一されておりません」
帝国保管、王国保管、破壊、未発掘、回収不能。
状況はばらばらだった。
「……管理されていたとは思えない」
アンネリーゼが小さく呟く。
ヴァルターが頷いた。
「まるで、何かが崩壊した後の残骸です」
その言葉に、室内の空気が静かに冷えた。
ミレイユは小さく息を呑み、そして静かに言う。
「……神聖国で、装置へ接続しかけた時」
皆の視線が向く。
「遠くから、“別の声”を感じました」
小さな声だった。
「一つじゃない、もっと遠くで……別の“何か”が、反応しているみたいでした」
クロウレイの表情が変わる。
レオニードも黙った。
ヴァルターが静かに結論づける。
「――つながっています。おそらく、全部」
室内が静まり返った。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
まだ眠っている“何か”がある。
そんな予感だけが、静かに広がっていく。
*
謁見が終わった頃には、ミレイユの顔色は再び少し悪くなっていた。
長時間の報告に加え、精神干渉装置について説明するため記憶を辿るだけでも負荷が大きい。
エリシアもそれに気づいたのだろう。
「今日はここまでにしましょう」
静かな声だった。
「ミレイユ、休みなさい」
「……はい」
ミレイユは小さく頭を下げ、立ち上がる。
だが、その瞬間、僅かによろめいた。
アルベルトが反射的に一歩出る。
「……っ」
声をかけかけて、止まった。
何と言えばいいのか、分からなかった。
“無理するな”なんて、きっともう何度も言われている。
“頑張ったな”も、何か違う気がした。
今のミレイユは、以前よりずっと遠い場所にいる。
目の前にいる。
すぐ近くにいる。
それなのに、どこか手の届かない場所へ行ってしまったように感じる。
アルベルトは小さく舌打ちした。
結局、何も言えない。
シルヴァンはそんなアルベルトを横目で見て、小さく苦笑した。
だが、茶化さなかった。
ミレイユはアンネリーゼに支えられながら、静かに謁見室を後にする。
ヴァルターもその後へ続いた。
扉が閉まり、静寂が場を支配する。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてクロウレイが、ふっと笑みを消す。
空気が変わった。
「……レオニード」
低い声に、レオニードが視線を向ける。
クロウレイは珍しく真面目だった。
「どう見た?」
短い問いに、レオニードは即答した。
「危険域だ」
部屋の空気が重くなる。
エリシアが僅かに目を伏せた。
「精神摩耗だけじゃない。装置側が、ミレイユを認識し始めている」
その瞬間、シルヴァンの表情から笑みが消え、リディアも静かに顔を上げる。
クロウレイだけが苦く笑った。
「……やっぱりそう見える?」
レオニードが頷く。
「あれだけ適合率が高ければ当然だ。次に深く接続した場合……戻れなくなる可能性がある」
静かな声だったが、ほとんど断言に近かった。
エリシアの指先が僅かに強張る。
クロウレイは深いため息をついた。
「困ったねぇ」
軽い口調だが、まったく軽くない。
「うちのお姫様は優しすぎるから、絶対、自分から行っちゃうんだよねぇ」
否定できなかった。
室内が静まる。
その時、エリシアが静かに口を開いた。
「……私は」
全員の視線が向く。
エリシアは少しだけ視線を伏せる。
「ミレイユを、これ以上利用したくないわ」
本心からの言葉だった。
「王国を守るため、世界を守るため――そう言えば、きっとあの子は自分から動いてしまう」
それがミレイユだと知っているからこそ。
「でも、それでは駄目なの」
リディアが静かに頷く。
「殿下……」
エリシアは小さく息を吐いた。
「私は、あの子に生きていてほしい」
王女ではなく、一人の人間としての願いだった。
だからこそ、余計に残酷だった。
なぜなら現状、精神干渉装置へ安全に接触できるのは、ほぼミレイユだけなのだから。
クロウレイが天井を見上げる。
「ほんと、嫌になるねぇ」
珍しく、少し疲れた声だった。
*
その頃。
夕暮れの王城回廊を、アンネリーゼとヴァルターが並んで歩いていた。
長い廊下へ赤い光が差し込み、二人はしばらく無言で歩く。
先に口を開いたのはアンネリーゼだった。
「偶然にしては、出来すぎています」
静かな声に、ヴァルターが小さく笑う。
「同感です」
北方、神聖国、そして各地の遺構反応。
アンネリーゼは静かに続ける。
「まるで、連鎖しているようです」
ヴァルターの笑みが少しだけ薄くなった。
「ええ、しかも反応速度が早い」
つまり。
「何かが目覚め始めている、と考えた方が自然でしょうねぇ」
アンネリーゼが僅かに目を細める。
「……嫌な予感がします」
珍しい言葉だった。
ヴァルターが横目で見る。
アンネリーゼは普段、“予感”で語る人間ではない。
それだけ異常だということだ。
ヴァルターは静かに言った。
「第二皇子殿下も、似たようなことを仰っていましたよ。おとぎ話が現実になってきた、と」
廊下へ沈黙が落ちる。
遠くで、夕鐘の音が響いた。
*
その夜。
ミレイユは夢を見た。
暗い場所。
深い水の底のような空間で、遠くから“声”がする。
一つじゃない。
幾重にも重なっている。
呼ぶ声。
囁く声。
祈る声。
そのさらに奥には、まだ眠っている“何か”の気配があった。
ぞわり、と背筋が冷える。
『――――』
聞き取れない。
けれど、確かにこちらを見ている。
ミレイユが息を呑んだ瞬間。
ぱちり、と目が開いた。
暗い部屋。
夜の静寂の中で、荒い呼吸だけが響いている。
胸が苦しい。
一瞬、ここがどこなのか分からなくなった。
だが、すぐ近くに人の気配がある。
ソファで本を読んでいたクロウレイが顔を上げた。
「……お、起きた?」
軽い声が向けられる。
その瞬間、ミレイユの肩から力が抜けた。
クロウレイは本を閉じ、いつもの調子で笑う。
「大丈夫、今のは夢」
その声だけで、崩れかけていた境界が少しだけ戻った。




