第3話:王国帰還
王国領へ入ったのは、夕刻前だった。
長い街道を進み、そびえ立つ山脈を越えた先に、見慣れた白い城壁が遠く見え始める。
ミレイユは馬車の窓から、その景色を静かに見つめていた。
幼い頃から見てきた、懐かしい景色。
けれど、胸の奥に浮かぶ感情は少し複雑だった。
ヴァルターがそんな様子を横目で見て、小さく笑う。
「緊張しています?」
ミレイユは少し迷ってから頷いた。
「……少し」
「当然です」
アンネリーゼが穏やかな声で言う。
「短期間で、色々ありすぎましたから」
ミレイユは苦笑した。
否定できない。
北方での出来事に、神聖国、精神干渉装置。そして、自分自身の変化。
あまりにも多くのことが起こりすぎた。
やがて馬車が城門へ近づき、王国騎士達が確認のために動き始める。
敬礼とともに門が開かれた、その瞬間。
ぞわり、と妙な感覚が走った。
ミレイユの肩が僅かに強張る。
流れ込んできたのは、王国内にいる人々の感情だった。
帝国とは少し違う空気。
懐かしいはずなのに、どこか遠い。
アンネリーゼがすぐに気づいた。
「ミレイユ様?」
「……大丈夫です」
小さな声だった。
ヴァルターは少しだけ表情を引き締める。
やはり、まだ不安定だ。
王都程度の人混みですら、今のミレイユには負荷になる。
馬車はそのまま王城へ向かって進み、やがて大きな門が見えてきた。
夕陽を受けて輝く、白亜の王城。
その正門前には、数人の姿があった。
一番先に手を振ったのは、シルヴァンだった。
「お帰り~」
いつもの軽い声で、ひらひらと片手を振る。
だが、その笑顔には少しだけ安堵が混ざっていた。
ミレイユの表情が、ぱっと和らぐ。
馬車が止まり、帝国の護衛騎士が扉を開いた。
ミレイユがゆっくり降りると、その瞬間、アルベルトが眉を寄せる。
「……顔色悪ぃな」
ぶっきらぼうな声だが、本気で心配していたのが分かる。
ミレイユは少し苦笑した。
「すみません」
「謝んな」
即答だった。
アルベルトは小さく舌打ちする。
「無茶して帰ってくるの、ほんと変わってねぇ」
口調は荒いが、どこか安心したようにも見えた。
ただ、その視線が一瞬だけヴァルターへ向き、再びミレイユへ戻る。
微妙に空気が違う。
以前とは、何かが変わっている。
アルベルトはそれを察していた。
帝国で、アロイスとの間にきっと色々あったのだろう。
そのことに少しだけ胸がざわついたが、今は何も言わなかった。
続いて、リディアが静かに前へ出る。
「……よく戻った」
短い言葉だが、そこには重みがあった。
エリシアを守るという同じ立場で戦ってきた者同士だからこそ、どれだけ危険な場所へ行っていたのかが分かる。
ミレイユは小さく頭を下げた。
「……ただいま戻りました」
その時、奥から軽い足音が聞こえた。
「お帰り、ミレイユ」
聞き慣れた声に、ミレイユがはっと顔を上げる。
クロウレイだった。
いつもの飄々とした笑みを浮かべている。
けれど、その目だけは真っ直ぐにミレイユを見ていた。
「先生……!」
ミレイユの表情が一気に崩れ、心から嬉しそうな声が漏れる。
クロウレイはそんな愛弟子を見て、小さく目を細めた。
「いやぁ、随分削られたねぇ」
口調こそ軽いが、その目はかなり真剣にミレイユを観察している。
精神状態も、他者との境界も、魔力の流れも。
全てを確認するように。
一瞬だけ、クロウレイの表情が険しくなった。
ほんの僅かな変化だったが、レオニードは見逃さなかった。
少し後ろの壁際に立っていた彼が、静かに口を開く。
「……精神摩耗が進んでいる」
空気が少し変わり、ミレイユの肩が小さく揺れた。
レオニードは淡々と続ける。
「境界認識も不安定だ。このまま放置するのは危険だ」
ヴァルターが目を細める。
「やはり分かりますか」
「当然だ」
短く答え、レオニードは鋭い視線をミレイユへ向ける。
だが、そこに嫌悪はない。
ただ、どれほど深刻なのかを測っているだけだった。
「神聖国で、かなり深く接続しかけたな」
ミレイユが小さく頷く。
クロウレイが肩をすくめた。
「君達、毎回ギリギリまで行くんだもん」
「それはほんとそう」
シルヴァンが苦笑し、アルベルトも低く呟く。
「無茶しすぎなんだよ」
ミレイユは少し困ったように笑った。
その瞬間、不意に周囲の感情が流れ込んできた。
安堵や心配、嬉しさに懐かしさ。
それらが一気に押し寄せ、ミレイユの呼吸が僅かに乱れる。
クロウレイの目が細くなった。
反応が早い。
「ミレイユ」
声が落ちる。
一瞬で、“先生”の声になった。
「吸う」
短い指示に、ミレイユが反射的に呼吸を整える。
「吐いて」
ゆっくりと息を吐く。
「大丈夫」
その声だけで、曖昧になりかけた境界が少しずつ戻ってくる。
ミレイユが小さく息を吐くと、クロウレイはそこでようやく笑った。
「うん、よし」
いつもの軽い口調に戻る。
だが、その目の奥だけは笑っていなかった。
かなり危なかった。
クロウレイもそう理解しているのだろう。
レオニードも静かに眉を寄せ、ヴァルターが小さく息を吐いた。
「……想像以上ですねぇ」
「帝国側の判断は正しかったようです」
アンネリーゼも静かに頷く。
その時、シルヴァンが空気を変えるように両手を叩いた。
「はいはい、湿っぽいの終わり!」
にっこりと笑う。
「せっかく帰ってきたんだから、歓迎会しなきゃ!」
「お前、切り替え早ぇな」
アルベルトが顔をしかめる。
「大事でしょ、こういうの」
シルヴァンは笑った。
「お姫様、今かなり限界なんだから」
ミレイユが少し目を瞬く。
シルヴァンはいつも通り軽い。
けれど、ちゃんと周りを見ている。
クロウレイがにこりと笑った。
「じゃあミレイユ、今日はちゃんと休もうか。話はそのあと」
「……はい」
ミレイユは素直に頷いた。
歓迎会――と言っても、今はミレイユを休ませることが最優先だった。
「今日は解散!」
シルヴァンが明るく宣言する。
「歓迎会は後日! 体調最優先!」
アルベルトも珍しく反対しなかった。
むしろ、かなり真顔で言う。
「さっさと休ませろ」
リディアも静かに頷いた。
「今は眠った方がいい」
レオニードに至っては、
「限界寸前だ」
容赦がない。
ミレイユは少し苦笑した。
だが、正直助かった。
身体が重く、精神も酷く疲れている。
クロウレイが軽く手を振る。
「じゃ、ミレイユは僕が回収していくね」
「お前、“回収”って言うな」
アルベルトが顔をしかめる。
クロウレイは楽しそうに笑った。
「いやぁ、久々だからさ。ちゃんと休ませるよ」
そのままミレイユを連れて、王城の廊下を歩き出す。
夕暮れの城内は静かで、窓から赤い光が差し込んでいた。
ミレイユは少しだけ目を細める。
王城の空気も、響く足音も、漂う匂いも懐かしい。
クロウレイが横目で見る。
「疲れた?」
「……少し」
「少しじゃないでしょ」
即答だった。
ミレイユが少し困ったように笑うと、クロウレイは肩をすくめる。
「君、昔から限界判定おかしいんだよねぇ。無理してる自覚ないタイプ」
否定できない。
やがて二人は、一つの部屋の前で足を止めた。
クロウレイが扉を開く。
「ほら」
中を見たミレイユが、小さく目を見開いた。
そこは、昔使っていた部屋だった。
王城で与えられていた私室が、今も綺麗に整えられている。
埃一つなく、窓際の小机も、本棚も、白いカーテンも、全部昔のままだ。
ミレイユが静かに呟く。
「……残っていたんですね」
「勝手に片付けたら、アルベルトあたりが怒るよ」
少し想像できた。
ミレイユが小さく笑う。
その表情を見て、クロウレイも少しだけ安堵した。
神聖国から帰ってきてから、ミレイユはずっと張り詰めていた。
気を抜けば崩れてしまいそうなほどに。
それが今、ようやく少しずつ解け始めている。
クロウレイはベッドへ視線を向けた。
「とりあえず横になりなさい」
「でも――」
「でも、じゃない」
珍しく、有無を言わせない声だった。
ミレイユは観念してベッドへ腰掛ける。
その瞬間、どっと疲労感が押し寄せ、身体が重くなった。
クロウレイが苦笑する。
「ほらね」
そのままミレイユをゆっくり寝かせ、毛布を掛ける。
その動作は、妙に慣れていた。
昔から、熱を出した時も、眠れない夜も、クロウレイはこうしてくれていた。
ベッド脇へ腰掛け、そっとミレイユの頭を撫でる。
優しい手に、ミレイユの肩から少しずつ力が抜けていく。
「相変わらず、自分の中でため込む子だねぇ」
軽い声だが、どこか心配そうだった。
「もっと、周りを頼っていいんだよ」
ミレイユは少し目を伏せる。
「……はい」
小さく返事をして、少し迷ってから続けた。
「でも、先生と会えて、すごくほっとしました」
その瞬間、クロウレイが少しだけ目を丸くする。
そして、ふっと笑った。
「師匠冥利に尽きるね」
冗談めかした声だが、かなり嬉しそうだった。
ミレイユは目を閉じる。
安心する。
ここは、昔二人で暮らしていた小さな家ではない。
広くて立派で、普段なら人の気配も多い王城だ。
それでも、クロウレイがいる。
それだけで全然違った。
クロウレイはそんなミレイユを見ながら、静かに頭を撫で続ける。
だが、その目は少し真剣だった。
「……ミレイユ」
「はい……」
半分眠そうな返事。
クロウレイは少し言葉を選んでから告げる。
「装置との精神接続、かなり危なかった」
静かな声から、さっきまでの軽さが消えていた。
「今回はたまたま戻れたけど、次も同じとは限らない」
ミレイユの睫毛が僅かに震える。
「精神ってね、一度境界が壊れると、元通りには戻りにくいんだ。特に君は、“適合しすぎる”」
それが怖い。
神聖国でも、北方でも、だからこそあそこまで危険だった。
ミレイユは小さく息を吐く。
「……はい」
自分でも理解している。
少しずつ、自分が削れていることを。
クロウレイはそこで、空気を和らげるように笑った。
「ま、とりあえず今は休みなさい。難しい話は後」
そして、優しく言う。
「寝付くまで、そばにいるから」
その瞬間、ミレイユの表情から完全に力が抜けた。
「……はい。先生、ありがとう……」
最後の方は、ほとんど寝言だった。
クロウレイが苦笑する。
「ほんと、限界まで頑張るよねぇ」
返事はない。
もう眠っていた。
クロウレイはしばらくその寝顔を静かに見つめ、ようやく少しだけ安心したように目を細めた。




