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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第1話:春を待つ庭

神聖国から帰還して、五日。

シュタルク公爵邸には、ようやく穏やかな時間が戻り始めていた。

北方遠征に始まり、神聖国での騒動まで続いた慌ただしい日々もひとまず落ち着き、屋敷の使用人たちは久しぶりに普段の仕事へ戻っている。

庭師は冬枯れの庭木を整え、メイドたちは窓を開け放って陽の光を取り込んでいた。

まだ風は冷たい。

それでも、長い冬の終わりを待つような静かな空気が屋敷を包んでいる。

けれど、その穏やかさから一人だけ取り残されたように、ミレイユの体調だけは戻らなかった。

昼下がり。

談話室の窓際へ置かれたソファに腰掛け、ぼんやりと庭を眺める。

柔らかな陽射しが降り注いでいる。

本来なら心が安らぐ景色のはずだった。

けれど視界は、ときおりゆらりと揺れる。

庭で剪定をしている庭師。

廊下を急ぎ足で歩く使用人。

遠くで笑い合うメイドたち。

その声が耳へ届くたび、自分のものではない感情が微かに流れ込んできた。

――今日は仕事が終わったら、娘へ土産を買って帰ろう。

――夕食の支度が間に合うだろうか。

――ああ、ようやく平穏が戻った。

そんな断片が、何の前触れもなく胸へ触れてくる。

ミレイユは小さく目を閉じた。

疲れる。

神聖国で装置へ接続しかけて以来、自分と他人を隔てる境目が、以前よりずっと曖昧になってしまっていた。

人混みへ出れば、さらに酷くなる。

誰かの喜びも、不安も、焦りも、自分の感情と混ざり合い、どこまでが自分なのか分からなくなる瞬間さえあった。

静かな部屋で過ごしていても、完全には治まらない。

反対側のソファへ座って書類を読んでいたアロイスが、顔を上げた。

黒い瞳が静かに細められる。

「……またか」

低い声だった。

ミレイユは小さく頷く。

隠すことはできなかった。

顔色を見れば分かる。

アロイスはしばらく黙っていたが、静かに立ち上がると、水差しからコップへ水を注いだ。

「飲め」

短く言って差し出す。

ミレイユは素直に受け取った。

その手が、わずかに震えている。

アロイスの眉間へ深い皺が刻まれた。

「……限界だな」

ぽつりと漏れた声は、自分へ言い聞かせるようでもあった。

ミレイユは困ったように笑う。

「少し休めば、大丈夫です」

「大丈夫に見えない」

間髪入れず返ってくる。

あまりに早い返答に、ミレイユは思わず瞬きをした。

アロイスは視線を逸らさない。

「神聖国から戻って、一度もまともに眠れていないだろう」

図星だった。

ミレイユは静かに目を伏せる。

眠れば夢を見る。

地下神殿。

無数の祈り。

そして、どこか遠くから呼び続ける"声"。

目を覚ましても、その感覚だけが身体へ残っていた。

アロイスは小さく舌打ちする。

苛立っていた。

ミレイユへではない。

何もできない自分へ。

彼女を守れたはずなのに、傷だけは消してやれない。

その事実が、どうしようもなく歯痒かった。

コンコン、と扉が叩かれる。

「入れ」

低い声が返る。

扉が開き、マルガレーテが入室した。

その後ろには数人のメイドたち。

そして最後に、金髪の令嬢が静かに一礼する。

「失礼いたします」

アンネリーゼだった。

ミレイユは慌てて立ち上がろうとする。

しかし、それより早くアンネリーゼが穏やかに微笑んだ。

「ミレイユ様、そのままで結構です」

柔らかな声。

けれど、不思議と逆らえない。

ミレイユは小さく頭を下げ直した。

アンネリーゼは彼女の前まで歩み寄ると、顔色、呼吸、視線の動きまで静かに観察する。

ほんの数秒。

それだけで十分だった。

隣ではマルガレーテが盛大にため息を吐く。

「全然治っておりません」

きっぱりと言い切る。

そして横へ視線を向けた。

「坊ちゃんもです」

アロイスが眉を寄せる。

「俺は問題ない」

「その台詞は、もう聞き飽きました」

即答だった。

客間へ微妙な沈黙が落ちる。

アンネリーゼは何事もなかったように一枚の書類を取り出した。

「本日は、その件で参りました」

静かな声だった。

「皇宮より正式な許可が下りました」

全員の視線が自然と集まる。

「ミレイユ様には、一時的に王国へ帰還していただきます」

客間の空気が静かに変わった。

「……王国へ?」

ミレイユは思わず聞き返す。

アンネリーゼは穏やかに頷いた。

「はい」

その声はいつも通り落ち着いていた。

「現状、古代装置は一国だけの問題ではありません」

机へ書類を置きながら続ける。

「今回の帰還は、報告と情報共有を兼ねた正式な使節でもあります」

ほんの少しだけ表情を和らげた。

「そして何より、休養措置です」

その言葉に、ミレイユは小さく目を伏せる。

アンネリーゼは静かに言った。

「第一皇子殿下からも、『故郷で少し羽を休めてくるといい』との言伝を預かっております」

責務ではなく、労いとしての命令。

それが分かるからこそ、ミレイユの胸が少しだけ温かくなった。

「……ありがとうございます」

小さく頭を下げる。

ライナーが腕を組んだまま頷く。

「確かにな。故郷なら少しは気も休まるだろ」

「環境を変えることは有効でしょう」

エドガーも静かに同意した。

神聖国で装置へ接続しかけた影響は、肉体より精神へ色濃く残っている。

今必要なのは無理に魔術で治すことではなく、落ち着いて自分自身を取り戻す時間だった。

ミレイユは窓の外を見る。

王国。

故郷。

懐かしい景色が脳裏をよぎる。

都外れの森にある小さな家。

先生。

王宮。

共に王女を守った仲間たち。

帰れば、きっと皆が迎えてくれる。

それでも胸の奥には、説明できない不安が残っていた。

神聖国で見たものを知ってしまった今、自分は以前と同じように故郷へ帰れるのだろうか。

その時だった。

部屋の空気がわずかに変わる。

「……誰が同行する」

アロイスだった。

低い声。

短い問い。

だが、その声音には普段よりわずかに鋭さが混じっている。

アンネリーゼは落ち着いたまま答えた。

「ヴァルター様が外交使節として同行されます」

「私も随伴いたします」

さらに書類をめくる。

「護衛につきましても、王国側とすでに調整済みです」

そこまで聞いた瞬間だった。

「俺も行く」

即答だった。

室内が静まり返る。

ライナーがゆっくり目を丸くする。

エドガーは静かに紅茶へ口を運んだ。

また始まった、とでも言いたげに。

アンネリーゼは少しも慌てない。

静かにアロイスを見る。

「閣下」

「帝都待機命令が出ています」

「遺構調査の継続、ならびに第二皇子殿下周辺の警戒任務を含めて」

淡々と事実だけを並べる。

アロイスは眉を寄せた。

「別を回せ」

「無理です」

間髪入れない。

「現在、精神干渉事案へ即応できる戦力は限られております」

アンネリーゼは一人ずつ視線を向けた。

「エドガー様は遺構解析に不可欠です」

「ライナー様は現場対応能力が突出しています」

そして最後に、アロイスを見る。

「閣下は帝国側の抑止力として必要です」

客間へ沈黙が落ちた。

正論だった。

だからこそ、反論が難しい。

ライナーが小さく肩をすくめる。

「うわぁ……」

「完全に詰んだな」

エドガーは静かに頷いた。

「理論上、反論の余地はありませんね」

「他人事だと思って」

ライナーがぼやく。

その横で、ミレイユはアロイスを見ていた。

珍しく困っている。

本当に。

この人は本気で、一緒について来るつもりだったのだ。

そう思うと、不思議と胸が温かくなる。

けれど、アンネリーゼの説明はまだ終わっていなかった。

「もう一つ理由があります」

全員の視線が向く。

アンネリーゼはミレイユを見つめ、静かに言葉を選んだ。

「現在のミレイユ様は、精神境界が極めて不安定な状態です」

客間が静まり返る。

「その状態で、特定の相手だけを精神的な拠り所にしてしまうと、依存的固定が進む可能性があります」

美しい声が続く。

「それは治療として望ましくありません」

ミレイユの頬が少し熱くなる。

アンネリーゼは続けた。

「距離を置く時間もまた、回復には必要です」

穏やかな口調だった。

責める色はない。

ただ、最善を述べているだけだった。

ライナーが吹き出しかける。

「依ぞ――」

その瞬間、エドガーが素早く口を塞いだ。

「黙ってください」

「んぐっ!?」

客間に妙な静けさが流れる。

アロイスは数秒間、何も言わなかった。

表情は変わらない。

だが、その沈黙が何より雄弁だった。

やがて、小さく息を吐く。

「……分かった」

低い声。

納得したわけではない。

それでも受け入れるしかないと理解した声だった。

ライナーが目を瞬かせる。

「折れた……」

「珍しいですね」

エドガーまで感心している。

その時だった。

コンコン、と軽やかな音が響く。

「失礼しますよ」

扉が開き、ヴァルターが姿を見せた。

相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。

だが部屋へ入った瞬間、空気を察したらしい。

「おや」

面白そうに目を細める。

「何やら深刻なお話の最中でしたか」

「違う」

アロイスが即答した。

怖い。

ヴァルターは肩をすくめる。

「まあまあ、ミレイユ様のことでしたら、ご安心ください」

優雅に一礼する。

「責任を持って王国までお送りいたします」

その瞬間、アロイスの視線が突き刺さる。

かなり鋭い。

ヴァルターは苦笑した。

「いやぁ……本当に信用がありませんねぇ」

「当然だ」

またしても即答だった。

アンネリーゼが静かに息を吐く。

「ですが、ヴァルター様が最適任です」

「王国側との外交経験も豊富ですし、今回の交渉には欠かせません」

ヴァルターはにこやかに頷く。

「お任せください」

その笑顔の奥では、おそらく石板の欠片も、第二皇子も、まだ眠る古代装置も、すべて一つの盤面として組み立て始めているのだろう。

挿絵(By みてみん)

ミレイユは、その空気を微かに感じ取ってしまった。

背筋へ冷たいものが走る。

その瞬間、ぽん、と肩へ温かな重みが乗った。

アロイスだった。

何も言わない。

ただ軽く肩へ手を置く。

現実へ引き戻すように。

ミレイユは小さく息を吐いた。

それだけで、胸のざわめきが少しだけ遠のく。

アロイスはしばらく黙っていた。

そして静かに口を開く。

「……しっかり休め」

短い言葉。

ミレイユは頷く。

「はい」

「そのあと」

ほんの少しだけ間を置いて、

「早く戻ってこい」

ライナーが耐え切れず吹き出した。

「結局それかよ!」

「送り出したいのか、帰ってきてほしいのか、どっちなんだ!」

「黙れ」

低い声が返る。

けれど今度ばかりは、誰も怖がらなかった。

ミレイユは思わず笑う。

本当に久しぶりに。

肩の力が抜けるような、自然な笑みだった。

窓の外では、冬枯れの庭に柔らかな陽射しが降り注いでいる。

春はまだ遠い。

それでも、その庭は確かに、次の季節を待ち始めていた。

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