第1話:春を待つ庭
神聖国から帰還して、五日。
シュタルク公爵邸には、ようやく穏やかな時間が戻り始めていた。
北方遠征に始まり、神聖国での騒動まで続いた慌ただしい日々もひとまず落ち着き、屋敷の使用人たちは久しぶりに普段の仕事へ戻っている。
庭師は冬枯れの庭木を整え、メイドたちは窓を開け放って陽の光を取り込んでいた。
まだ風は冷たい。
それでも、長い冬の終わりを待つような静かな空気が屋敷を包んでいる。
けれど、その穏やかさから一人だけ取り残されたように、ミレイユの体調だけは戻らなかった。
昼下がり。
談話室の窓際へ置かれたソファに腰掛け、ぼんやりと庭を眺める。
柔らかな陽射しが降り注いでいる。
本来なら心が安らぐ景色のはずだった。
けれど視界は、ときおりゆらりと揺れる。
庭で剪定をしている庭師。
廊下を急ぎ足で歩く使用人。
遠くで笑い合うメイドたち。
その声が耳へ届くたび、自分のものではない感情が微かに流れ込んできた。
――今日は仕事が終わったら、娘へ土産を買って帰ろう。
――夕食の支度が間に合うだろうか。
――ああ、ようやく平穏が戻った。
そんな断片が、何の前触れもなく胸へ触れてくる。
ミレイユは小さく目を閉じた。
疲れる。
神聖国で装置へ接続しかけて以来、自分と他人を隔てる境目が、以前よりずっと曖昧になってしまっていた。
人混みへ出れば、さらに酷くなる。
誰かの喜びも、不安も、焦りも、自分の感情と混ざり合い、どこまでが自分なのか分からなくなる瞬間さえあった。
静かな部屋で過ごしていても、完全には治まらない。
反対側のソファへ座って書類を読んでいたアロイスが、顔を上げた。
黒い瞳が静かに細められる。
「……またか」
低い声だった。
ミレイユは小さく頷く。
隠すことはできなかった。
顔色を見れば分かる。
アロイスはしばらく黙っていたが、静かに立ち上がると、水差しからコップへ水を注いだ。
「飲め」
短く言って差し出す。
ミレイユは素直に受け取った。
その手が、わずかに震えている。
アロイスの眉間へ深い皺が刻まれた。
「……限界だな」
ぽつりと漏れた声は、自分へ言い聞かせるようでもあった。
ミレイユは困ったように笑う。
「少し休めば、大丈夫です」
「大丈夫に見えない」
間髪入れず返ってくる。
あまりに早い返答に、ミレイユは思わず瞬きをした。
アロイスは視線を逸らさない。
「神聖国から戻って、一度もまともに眠れていないだろう」
図星だった。
ミレイユは静かに目を伏せる。
眠れば夢を見る。
地下神殿。
無数の祈り。
そして、どこか遠くから呼び続ける"声"。
目を覚ましても、その感覚だけが身体へ残っていた。
アロイスは小さく舌打ちする。
苛立っていた。
ミレイユへではない。
何もできない自分へ。
彼女を守れたはずなのに、傷だけは消してやれない。
その事実が、どうしようもなく歯痒かった。
コンコン、と扉が叩かれる。
「入れ」
低い声が返る。
扉が開き、マルガレーテが入室した。
その後ろには数人のメイドたち。
そして最後に、金髪の令嬢が静かに一礼する。
「失礼いたします」
アンネリーゼだった。
ミレイユは慌てて立ち上がろうとする。
しかし、それより早くアンネリーゼが穏やかに微笑んだ。
「ミレイユ様、そのままで結構です」
柔らかな声。
けれど、不思議と逆らえない。
ミレイユは小さく頭を下げ直した。
アンネリーゼは彼女の前まで歩み寄ると、顔色、呼吸、視線の動きまで静かに観察する。
ほんの数秒。
それだけで十分だった。
隣ではマルガレーテが盛大にため息を吐く。
「全然治っておりません」
きっぱりと言い切る。
そして横へ視線を向けた。
「坊ちゃんもです」
アロイスが眉を寄せる。
「俺は問題ない」
「その台詞は、もう聞き飽きました」
即答だった。
客間へ微妙な沈黙が落ちる。
アンネリーゼは何事もなかったように一枚の書類を取り出した。
「本日は、その件で参りました」
静かな声だった。
「皇宮より正式な許可が下りました」
全員の視線が自然と集まる。
「ミレイユ様には、一時的に王国へ帰還していただきます」
客間の空気が静かに変わった。
「……王国へ?」
ミレイユは思わず聞き返す。
アンネリーゼは穏やかに頷いた。
「はい」
その声はいつも通り落ち着いていた。
「現状、古代装置は一国だけの問題ではありません」
机へ書類を置きながら続ける。
「今回の帰還は、報告と情報共有を兼ねた正式な使節でもあります」
ほんの少しだけ表情を和らげた。
「そして何より、休養措置です」
その言葉に、ミレイユは小さく目を伏せる。
アンネリーゼは静かに言った。
「第一皇子殿下からも、『故郷で少し羽を休めてくるといい』との言伝を預かっております」
責務ではなく、労いとしての命令。
それが分かるからこそ、ミレイユの胸が少しだけ温かくなった。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
ライナーが腕を組んだまま頷く。
「確かにな。故郷なら少しは気も休まるだろ」
「環境を変えることは有効でしょう」
エドガーも静かに同意した。
神聖国で装置へ接続しかけた影響は、肉体より精神へ色濃く残っている。
今必要なのは無理に魔術で治すことではなく、落ち着いて自分自身を取り戻す時間だった。
ミレイユは窓の外を見る。
王国。
故郷。
懐かしい景色が脳裏をよぎる。
都外れの森にある小さな家。
先生。
王宮。
共に王女を守った仲間たち。
帰れば、きっと皆が迎えてくれる。
それでも胸の奥には、説明できない不安が残っていた。
神聖国で見たものを知ってしまった今、自分は以前と同じように故郷へ帰れるのだろうか。
その時だった。
部屋の空気がわずかに変わる。
「……誰が同行する」
アロイスだった。
低い声。
短い問い。
だが、その声音には普段よりわずかに鋭さが混じっている。
アンネリーゼは落ち着いたまま答えた。
「ヴァルター様が外交使節として同行されます」
「私も随伴いたします」
さらに書類をめくる。
「護衛につきましても、王国側とすでに調整済みです」
そこまで聞いた瞬間だった。
「俺も行く」
即答だった。
室内が静まり返る。
ライナーがゆっくり目を丸くする。
エドガーは静かに紅茶へ口を運んだ。
また始まった、とでも言いたげに。
アンネリーゼは少しも慌てない。
静かにアロイスを見る。
「閣下」
「帝都待機命令が出ています」
「遺構調査の継続、ならびに第二皇子殿下周辺の警戒任務を含めて」
淡々と事実だけを並べる。
アロイスは眉を寄せた。
「別を回せ」
「無理です」
間髪入れない。
「現在、精神干渉事案へ即応できる戦力は限られております」
アンネリーゼは一人ずつ視線を向けた。
「エドガー様は遺構解析に不可欠です」
「ライナー様は現場対応能力が突出しています」
そして最後に、アロイスを見る。
「閣下は帝国側の抑止力として必要です」
客間へ沈黙が落ちた。
正論だった。
だからこそ、反論が難しい。
ライナーが小さく肩をすくめる。
「うわぁ……」
「完全に詰んだな」
エドガーは静かに頷いた。
「理論上、反論の余地はありませんね」
「他人事だと思って」
ライナーがぼやく。
その横で、ミレイユはアロイスを見ていた。
珍しく困っている。
本当に。
この人は本気で、一緒について来るつもりだったのだ。
そう思うと、不思議と胸が温かくなる。
けれど、アンネリーゼの説明はまだ終わっていなかった。
「もう一つ理由があります」
全員の視線が向く。
アンネリーゼはミレイユを見つめ、静かに言葉を選んだ。
「現在のミレイユ様は、精神境界が極めて不安定な状態です」
客間が静まり返る。
「その状態で、特定の相手だけを精神的な拠り所にしてしまうと、依存的固定が進む可能性があります」
美しい声が続く。
「それは治療として望ましくありません」
ミレイユの頬が少し熱くなる。
アンネリーゼは続けた。
「距離を置く時間もまた、回復には必要です」
穏やかな口調だった。
責める色はない。
ただ、最善を述べているだけだった。
ライナーが吹き出しかける。
「依ぞ――」
その瞬間、エドガーが素早く口を塞いだ。
「黙ってください」
「んぐっ!?」
客間に妙な静けさが流れる。
アロイスは数秒間、何も言わなかった。
表情は変わらない。
だが、その沈黙が何より雄弁だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
低い声。
納得したわけではない。
それでも受け入れるしかないと理解した声だった。
ライナーが目を瞬かせる。
「折れた……」
「珍しいですね」
エドガーまで感心している。
その時だった。
コンコン、と軽やかな音が響く。
「失礼しますよ」
扉が開き、ヴァルターが姿を見せた。
相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
だが部屋へ入った瞬間、空気を察したらしい。
「おや」
面白そうに目を細める。
「何やら深刻なお話の最中でしたか」
「違う」
アロイスが即答した。
怖い。
ヴァルターは肩をすくめる。
「まあまあ、ミレイユ様のことでしたら、ご安心ください」
優雅に一礼する。
「責任を持って王国までお送りいたします」
その瞬間、アロイスの視線が突き刺さる。
かなり鋭い。
ヴァルターは苦笑した。
「いやぁ……本当に信用がありませんねぇ」
「当然だ」
またしても即答だった。
アンネリーゼが静かに息を吐く。
「ですが、ヴァルター様が最適任です」
「王国側との外交経験も豊富ですし、今回の交渉には欠かせません」
ヴァルターはにこやかに頷く。
「お任せください」
その笑顔の奥では、おそらく石板の欠片も、第二皇子も、まだ眠る古代装置も、すべて一つの盤面として組み立て始めているのだろう。
ミレイユは、その空気を微かに感じ取ってしまった。
背筋へ冷たいものが走る。
その瞬間、ぽん、と肩へ温かな重みが乗った。
アロイスだった。
何も言わない。
ただ軽く肩へ手を置く。
現実へ引き戻すように。
ミレイユは小さく息を吐いた。
それだけで、胸のざわめきが少しだけ遠のく。
アロイスはしばらく黙っていた。
そして静かに口を開く。
「……しっかり休め」
短い言葉。
ミレイユは頷く。
「はい」
「そのあと」
ほんの少しだけ間を置いて、
「早く戻ってこい」
ライナーが耐え切れず吹き出した。
「結局それかよ!」
「送り出したいのか、帰ってきてほしいのか、どっちなんだ!」
「黙れ」
低い声が返る。
けれど今度ばかりは、誰も怖がらなかった。
ミレイユは思わず笑う。
本当に久しぶりに。
肩の力が抜けるような、自然な笑みだった。
窓の外では、冬枯れの庭に柔らかな陽射しが降り注いでいる。
春はまだ遠い。
それでも、その庭は確かに、次の季節を待ち始めていた。




