第9話:重責
王宮の会議室には、重たい空気が漂っていた。
先進派貴族たちによる定例会議。
王女派を支える有力貴族たちが一堂に会し、今後の政策や対立派閥への対応について議論している。
その席の上座近くにはエリシア王女の姿もあった。
王位継承者として。
そして先進派の象徴として。
彼女は静かに議論へ耳を傾けている。
発言者は、白髪の老貴族だった。
長年にわたって先進派を支え続けてきた重鎮。
穏やかな人格者として知られ、多くの貴族から信頼を集めている人物だ。
「――以上が、我が領における今年度の収支報告となります」
落ち着いた声。
無駄のない説明。
会議室の誰もが聞き慣れた口調だった。
だが、その途中で、老人の言葉が不自然に止まった。
「……?」
書類を持つ手が震える。
小さく、だが確かに。
周囲の貴族たちが顔を見合わせた。
老人の額に汗が滲む。
呼吸が浅くなる。
視線が落ち着かない。
何かを探すように、会議室の中を見回している。
「どうされましたかな」
近くの貴族が声を掛ける。
老人は答えない。
ただ、目だけが大きく見開かれていく。
「……いや」
掠れた声。
「違う」
誰へ向けた言葉でもない。
独り言のようだった。
「まさか」
震える。
声も。
身体も。
「閣下?」
老人は突然立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて倒れる。
会議室が静まり返る。
誰も理解できない。
何が起きているのか。
老人は怯えた目で周囲を見回した。
一人、また一人。
視線を向けるたびに、その顔から血の気が失われていく。
「……違う」
後ずさる。
「来るな」
誰も近づいていない。
なのに。
「来るな!」
叫んだ。
会議室が凍り付く。
エリシアが立ち上がる。
「落ち着いてください」
静かな声。
だが老人は聞いていない。
「私も殺される」
その言葉に空気が変わった。
「誰も信じられるものか」
震える声。
「皆そうだ」
呼吸が荒い。
「皆、私を騙している」
視線が彷徨う。
恐怖に支配された人間の目だった。
「裏切る」
震える指が周囲を指す。
「お前たちも」
さらに。
「殿下も」
その言葉が落ちた瞬間。
護衛騎士たちが動いた。
だが。
「待て」
レオニードの声が響く。
全員が止まる。
老人は今にも崩れそうだった。
レオニードは静かに立ち上がる。
老人へ近づく。
恐怖に歪んだ瞳が向けられる。
「来るな!」
叫ぶ。
魔力が集まる。
レオニードの指先が淡く光った。
「眠れ」
静かな声。
鎮静魔法だ。
老人の身体から力が抜ける。
崩れ落ちるところを近くの騎士が支えた。
静寂が会議室を支配する。
誰も口を開けない。
重苦しい沈黙だけが残る。
レオニードは周囲を見渡した。
表情は変わらない。
だが、その目は鋭かった。
「……他の者たちも」
低く告げる。
「少しでも違和感を感じたなら、すぐに報告しろ」
誰も反論しない。
できなかった。
今の光景を見てしまったからだ。
恐怖は会議室全体へ広がっていた。
老人は運び出される。
その様子を見ながら、ミレイユは静かに目を伏せた。
嫌な予感がしていた。
昨夜の刺客たちと同じ。
そんな気配を感じていた。
*
別室。
窓の閉められた静かな部屋だった。
老人は椅子へ座らされている。
鎮静魔法の効果はある。
だが完全ではない。
身体は落ち着いている。
それでも精神は荒れ続けていた。
「……誰も」
掠れた声。
「誰も信用できない」
震えている。
視線は定まらない。
「皆、私を裏切る」
何かに怯えるように。
「殺しに来る」
ミレイユは静かに老人を見つめた。
隣にはアルベルト。
少し離れた場所にはレオニードとシルヴァンがいる。
老人の様子を見たアルベルトは眉をひそめる。
どこか見覚えがあった。
そして気づく。
昨夜だ。
精神干渉を受けたときの自分。
あの感覚に近い。
恐怖だけが膨れ上がる。
理性では否定できるのに、身体が従わない。
心が押し潰される。
「……あの感覚か」
思わず漏れた呟きに、ミレイユが振り返る。
アルベルトは腕を組んだ。
「昨夜の俺に似ている」
その言葉に、ミレイユは頷いた。
そして老人へ視線を戻す。
「……魔力の流れから察するに」
静かに言う。
「攻撃を受けています」
室内が静まり返る。
レオニードが問う。
「確実か」
「はい」
迷いなく答える。
「精神干渉です」
老人が震える。
「怖い」
誰にも向けていない言葉。
「怖い」
同じ言葉を繰り返す。
まるで助けを求める子供のように。
ミレイユはゆっくり近づいた。
老人の前へ膝をつく。
目線を合わせる。
「大丈夫です」
優しい声だった。
老人の視線が揺れる。
ミレイユは続ける。
「誰も、あなたに危害を加えません」
そして立ち上がると、そっと両肩へ手を添えた。
老人の身体が震える。
それでも拒絶はしない。
ミレイユは静かに呼吸を整えた。
「大丈夫です」
もう一度、優しく告げる。
そして、ゆっくりと、慎重に、老人の精神へ触れた。
その瞬間、膨大な感情の奔流が流れ込んでくる。
ミレイユは思わず息を呑んだ。
深い。
あまりにも深い。
そこにあったのは、単純な恐怖ではなかった。
長い年月をかけて積み重ねられた責任だった。
若い頃から領地を治め、多くの民を抱え、数え切れない判断を下してきた人生。
豊作の年もあった。
飢饉の年もあった。
税を下げるべきか。
蓄えを守るべきか。
誰を救い、誰を切り捨てるべきか。
その決断一つで、人が生きることも死ぬこともある。
領主とはそういう立場だった。
老人は、ずっと問い続けていた。
自分は正しいのか。
本当にこれで良かったのか。
もっと良い方法があったのではないか。
救えた命があったのではないか。
その迷いを抱えながら、それでも前へ進み続けてきた。
だが今、その不安だけが異常なほど膨れ上がっている。
側近は本当に信頼できるのか。
家族はどうだ。
長年仕えてきた部下は。
王女派の仲間たちは。
誰も信じられない。
誰もかもが敵に見える。
恐怖が恐怖を呼び、疑念が疑念を生み続けている。
ミレイユは静かに目を閉じた。
攻撃されている。
間違いない。
昨夜のアルベルトと同じだ。
本来そこに存在する不安を利用し、何倍にも増幅している。
恐怖そのものを消すことはできない。
人の心から感情を奪うことは、正しいことではない。
クロウレイから教わった。
精神干渉は、人を都合よく変えるための力ではない。
だからミレイユにできるのは一つだけだった。
歪められたものを元へ戻す……それだけだ。
老人の精神へ絡みつく異物を探す。
焦らず。
無理をせず。
一本ずつ、絡まった糸をほどくように。
恐怖へ触れる。
弾く。
疑念へ触れる。
弾く。
絶望へ触れる。
弾く。
老人の精神へ巻き付いていた不自然な力が、少しずつ剥がれていく。
そのたびに、どこか遠くで軋むような感覚があった。
術者へ反動が返っている。
精神干渉は一方通行ではない。
押し付ければ、その力は必ずどこかへ返る。
ミレイユは構わず作業を続けた。
やがて、最後の歪みへ手を伸ばす。
強く張り付いていた恐怖。
まるで心臓へ食い込んでいるような感覚。
それをゆっくりと引き剥がす。
ぱちり、と、何かが弾けるような感覚があった。
老人の身体が震え、呼吸が大きく乱れた。
そして、静かになる。
部屋の中に沈黙が落ちた。
ミレイユはゆっくりと手を離す。
額にはうっすら汗が浮かんでいた。
精神干渉の解除は、決して楽な作業ではない。
相手の感情に触れるということは、自分もまた影響を受けるということだからだ。
老人はしばらく俯いていた。
肩が小さく上下している。
誰も声を掛けない。
やがて、老人がゆっくり顔を上げた。
その目には先ほどまでの狂気はない。
混乱は残っている。
だが、正気だった。
「……なにが」
掠れた声。
「なにが、あったんだ……」
老人は周囲を見回した。
別室。
レオニード。
シルヴァン。
アルベルト。
そして目の前にいるミレイユ。
ようやく、自分が会議室ではない場所にいることを理解する。
「私は……」
記憶を辿る。
途中で顔が青ざめた。
何を口走ったのか思い出したのだろう。
震える手で額を押さえる。
「申し訳、ない……」
掠れた声だった。
レオニードが静かに首を振る。
「謝罪は不要だ」
短く告げる。
「君は被害者だ」
老人は目を閉じた。
安堵。
後悔。
羞恥。
様々な感情が入り混じる。
その様子を見つめながら、ミレイユは小さく微笑んだ。
「あなた様は」
老人が顔を上げる。
ミレイユは真っ直ぐ老人を見ていた。
「本当に、領民を思っているのですね」
老人の目がわずかに見開かれる。
「その気持ちは、必ず伝わっています」
静かな声だった。
飾り気のない言葉。
慰めでもない、同情でもない。
ただ、感じ取った事実を伝えているだけだった。
老人は言葉を失う。
長い人生だった。
賞賛されたことはある。
感謝されたこともある。
だが、誰にも言われたことがなかった。
自分が抱えてきた不安や迷いを、そのまま見抜かれたことなど。
老人の視界が滲む。
気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。
慌てて拭おうとする。
だが止まらない。
「……情けないな」
小さく笑う。
けれど、その表情は穏やかだった。
先ほどまでの恐怖はない。
疑念もない。
ただ疲れ切った老人の顔がそこにあった。
ミレイユは何も言わない。
ただ静かに頭を下げる。
レオニードはそんな二人を見つめながら考えていた。
精神干渉。
想像以上に危険な敵だ。
そして、想像以上に有用な力でもある。
部屋の隅では、シルヴァンが珍しく黙っていた。
いつもの軽口もない。
ただ興味深そうにミレイユを見ている。
アルベルトもまた同じだった。
昨夜、自分を救った力。
今、老人を救った力。
それは決して派手ではない。
剣のように敵を斬り伏せることもできない。
だが、確かに人を救っている。
その事実だけは否定できなかった。
そして誰もまだ知らない。
これが始まりに過ぎないことを。
王宮の中では、すでに複数の人間が同じ攻撃を受け始めていた。
静かに、誰にも気付かれないまま。
まるで毒が広がるように。




