第8話:夜明け
「ありゃ」
聞き慣れた声が響く。
「終わっちゃった?」
シルヴァンだった。
回廊の奥からのんびり歩いてくる。
まるで夜食でも食べに来たような気楽さだ。
倒れた侵入者たち。
血痕。
剣を握るアルベルト。
息を整えるミレイユ。
状況を一瞥したシルヴァンは感心したように肩をすくめた。
「やるじゃん」
そのまま刺客の一人の前へしゃがみ込む。
顔を覗き込む。
しばらく観察してから首を傾げた。
「うーん……なんか変だね」
「変、ですか」
「命知らずって感じ」
死ぬことを恐れていない。
それどころか、生き残ろうという意思すら薄い。
普通の刺客ではない。
ミレイユは小さく頷いた。
「統率が取れていたとしても、限度があります」
そして続ける。
「……おそらく精神を操作されていたかと」
シルヴァンの眉が上がる。
「洗脳ってこと?」
ミレイユは頷いた。
「さらに、アルベルト卿の感覚を歪ませる干渉もありました」
「うわぁ……」
シルヴァンは心底嫌そうな顔をした。
「ずいぶん面倒なのが来たな」
倒れた男を見下ろす。
「精神干渉同士か、最悪じゃない」
アルベルトは黙ったままだった。
ただミレイユを見ている。
戦闘中の出来事を思い返していた。
頭の中をかき回される感覚。
恐怖が膨れ上がる感覚。
そして、それが消えた瞬間。
「……お前」
低い声だった。
ミレイユが顔を上げる。
「俺に何をした」
問いは短い。
だが真剣だった。
ミレイユは少しだけ迷う。
どう説明するべきか。
結局、事実だけを口にした。
「……歪みを、正しただけです」
嘘ではない。
だが、それがどれほど危うい行為だったのかは語らない。
アルベルトはしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……そうかよ」
それ以上は聞かなかった。
聞いても理解できる気がしなかった。
「一人は眠らせました」
ミレイユは眠っている刺客へ視線を向ける。
「あとで指示役を自白させましょう」
シルヴァンが吹き出した。
「お姫様、顔に似合わないこと言うね」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
即答だった。
アルベルトは黙ったまま視線を落とす。
もしミレイユがいなければ。
もしあの精神干渉を解除できなければ。
自分は死んでいたかもしれない。
その事実だけは否定できなかった。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「……助かった」
ミレイユは目を瞬かせた。
予想していなかった言葉だった。
それから少しだけ微笑む。
「……無事で、何よりでした」
その笑顔を見て、アルベルトはなぜか視線を逸らした。
夜の王女宮には再び静寂が戻り始めていた。
だが、誰も気付いていない。
これは終わりではなく始まりだということに。
王宮の奥で蠢く何者かが、静かに次の一手を準備していることに。
*
リディアは王女宮の最奥部にいた。
エリシアの私室、その扉の前。
背筋を伸ばし、壁際に静かに立っている。
室内では王女が目覚めている。
だが、一瞬たりとも気を抜くことはできない。
王女の護衛。
それが彼女のすべてだった。
廊下は静かだ。
先ほどまで探知していた不穏な気配も、今は消えている。
侵入者は排除されたのだろう。
リディアは目を閉じ、耳を澄ませる。
異常はない。
王女の呼吸も安定している。
ようやく小さく息を吐いた。
(……終わったか)
それだけで十分だった。
戦闘の詳細は知らない。
知る必要もない。
自分の役目は王女を守ることだ。
それ以外は優先順位が下がる。
だが、不意に脳裏へ浮かんだのは、あの少女の姿だった。
戦場に立つ人間には見えない。
剣も振れない。
攻撃魔術も得意ではない。
それなのに。
リディアは静かに考える。
(攻撃はしない)
正確には、できないのかもしれない。
敵を眠らせることはできる。
精神に干渉することもできる。
だが、本質はそこではない。
あの少女の力は。
(守るための力だ)
アルベルトを守った。
王女宮を守った。
必要な場所に防御を置き、必要な瞬間に支えた。
ただ、それだけ。
だが、それで十分だった。
リディアはほんの僅かに目を細める。
(……悪くない)
それは彼女なりの評価だった。
信頼と呼ぶには早い。
だが、少なくとも警戒対象ではなくなっている。
その変化に、本人は気付いていなかった。
扉の前のリディアは、改めて周囲へ意識を巡らせる。
異常はない。
気配も感じられない。
侵入者は排除された。
それを確認して、ようやく扉を軽く叩く。
「殿下」
中から返事があった。
「入って」
静かな声だった。
リディアは室内へ入る。
エリシアは寝台から身を起こしていた。
夜着姿のまま。
だが、その背筋は崩れていない。
長い金髪が肩へ流れ、燭台の明かりを受けて淡く輝いている。
「終わったのね」
「はい」
短く答える。
「怪我人は?」
「ありません」
エリシアは小さく息を吐いた。
安堵している。
だが、それを表には出さない。
王族らしい振る舞いだった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、エリシアが口を開いた。
「ミレイユは?」
リディアは一瞬だけ目を細めた。
予想していた質問だった。
「問題ありません」
事実だけを答える。
だが、それでは足りないと思った。
珍しいことだった。
自分から誰かを評価しようと思うのは。
「攻撃は不得手なようです」
エリシアは静かに聞いている。
「ですが、防御能力は高いかと」
少し考え、言葉を選ぶ。
「……王女宮を守るには、十分な力でした」
エリシアは僅かに目を見開いた。
リディアがここまで言うことは珍しい。
それを知っているからだ。
「そう」
小さく微笑む。
「あなたにそう言わせるなんて」
リディアは返事をしない。
ただ黙っている。
エリシアは窓の外へ視線を向けた。
「不思議な子よね」
ぽつりと漏れる。
「初めて会ったときから、そんな気がしていたわ」
リディアはその横顔を見た。
王女としてではない、一人の少女としての表情だった。
「……殿下」
「なに?」
「警戒は続けるべきです」
即答だった。
エリシアは少しだけ笑う。
「ええ、分かっているわ」
そして柔らかく続けた。
「でもね」
窓の外の月を見る。
「少しだけ安心したの」
その言葉に、リディアは何も返さなかった。
ただ静かに頭を下げ、再び扉の外へ戻った。
王女を守るために。
*
その夜。
アルベルトは眠れなかった。
部屋の天井を見上げる。
何度目か分からない寝返りを打つ。
だが、眠気は来ない。
理由は分かっていた。
戦闘だ。
正確には、あの瞬間。
頭の中をかき回された感覚。
背筋を這い上がる嫌悪感。
恐怖。
絶望。
自分のものではないはずの感情が膨れ上がり、理性を押し潰そうとしてきた。
思い出すだけで気分が悪い。
剣を握ることは慣れている。
怪我も慣れている。
死と隣り合わせなのも、今さらだ。
だが、あれは違った。
身体ではなく、心そのものへ触れられる感覚。
「……気味が悪い」
思わず呟く。
精神干渉。
ミレイユの能力。
王宮へ来てから何度か聞かされていた。
だが、実際に体験するのとは全く違った。
あの少女は、あんなものを自在に扱うのか。
理解できない。
理解したくもない。
そう思う。
なのに、脳裏へ浮かぶのは別の場面だった。
『……無事で、何よりでした』
戦闘後。
あのときの声。
穏やかで安心したような声。
アルベルトは眉をしかめた。
「……なんなんだ、あいつは」
魔術師だ。
それも得体の知れない力を持った。
本来なら警戒するべき相手だ。
そう思っている。
思っている、はずなのに。
あの言葉だけが妙に残っている。
助けられた。
その事実が腹立たしい。
だが、感謝している自分もいる。
アルベルトは大きく息を吐いた。
考えるだけ無駄だ。
そう結論づける。
明日になれば、また護衛任務だ。
余計なことを考える必要はない。
目を閉じる。
だが、眠りへ落ちる直前に最後に浮かんだのは。
王女でも、剣でも、戦場でもなく。
戦闘の最中、自分へ向かって必死に手を伸ばしていた少女の姿だった。
アルベルトは小さく舌打ちした。
そしてようやく、浅い眠りへ落ちていった。
*
翌朝。
レオニードの執務室。
朝日が窓から差し込み、机の上の書類を照らしている。
室内にはレオニード、シルヴァン、ミレイユ、アルベルトの姿があった。
リディアは王女の側を離れられないため不在だ。
レオニードは報告書へ目を通しながら口を開いた。
「昨夜はご苦労だった」
声はいつも通り淡々としている。
褒めるわけでもない。
叱るわけでもない。
ただ事実を述べるだけだ。
「人的被害はなし、殿下がお過ごしになる区域への侵入も未遂に終わった」
それだけで十分な成果だった。
ミレイユは胸を撫で下ろす。
少なくとも誰も死ななかった。
それは素直に良かったと思う。
シルヴァンが椅子にもたれながら笑う。
「うまく連携取れてたみたいだね」
視線が二人へ向く。
「お似合いじゃない?」
「うるさい」
アルベルトが即座に返した。
シルヴァンは楽しそうに肩を揺らす。
レオニードは無視した。
慣れている。
「……遺憾ながら」
書類を閉じる。
「捕縛した者は自白させる前に死亡していた」
室内の空気が少しだけ重くなった。
ミレイユは目を伏せる。
やはり、と思った。
あの精神状態は異常だった。
普通の人間ではない。
口封じを想定していても不思議ではない。
シルヴァンが頬杖をつく。
「雇用主が始末した可能性もあるかもね」
「可能性は高い」
レオニードは短く頷く。
「いずれにせよ、敵は動き始めている」
その言葉で空気が引き締まった。
遊びではない。
王女を狙う何者かが存在している。
そして昨夜は、その一端に過ぎない。
レオニードの視線が全員へ向けられる。
「引き続き警戒を怠るな」
「はい」
返事が重なる。
短い報告会はそれで終わった。
*
執務室を出る。
廊下には朝の光が差し込んでいた。
窓の外では王宮が動き始めている。
侍女が行き交い、騎士が巡回し、新しい一日が始まる。
ミレイユは隣を歩くアルベルトへ視線を向けた。
昨夜の戦闘を思い出す。
攻撃のできない自分の代わりに前へ出て戦ってくれた。
何度も。
危険な場所へ。
だから、伝えておきたかった。
「……昨夜は、ありがとうございました」
アルベルトの足が僅かに止まりかける。
ミレイユは続けた。
「あなたに頼りっぱなしでした」
穏やかな声だった。
飾り気のない本音。
アルベルトは黙る。
何を言えばいいのか分からなかった。
助けられたのは自分も同じだからだ。
むしろ命を救われた。
感謝される立場ではない。
しばらく沈黙したあと、アルベルトは視線を逸らしたまま言う。
「……アルベルトでいい」
ぶっきらぼうだった。
ミレイユは目を瞬かせる。
意味を理解するまで少し時間がかかった。
そして、小さく微笑む。
「……ありがとうございます、アルベルト」
その呼び方は自然だった。
まるで最初からそう呼んでいたように。
「私のことも、そのままミレイユと呼んでくださいますか」
アルベルトの肩が僅かに揺れる。
困ったような顔になる。
だが、ミレイユは気付いていない。
「……考えておく」
そっぽを向いたまま答える。
ミレイユは思わず笑った。
「ふふ」
小さな笑い声だった。
「何がおかしい」
「いえ」
ミレイユは首を振る。
「嬉しかったので」
その言葉に、アルベルトは返事ができなかった。
ただ前を向いて歩く。
耳が少し赤くなっていることに、本人は気付いていなかった。
少し離れた廊下の角。
偶然通りかかったシルヴァンが、その様子を目撃していた。
「へぇ……」
面白そうに目を細める。
「これは予想外」
思わず笑みが漏れる。
アルベルトが誰かに心を開くなど、騎士団ではなかなか見られない光景だった。
もっとも、当の本人は認めないだろうが。
「面白くなってきたなぁ」
小さく呟く。
もちろん誰にも聞こえていない。
王女宮の窓から朝日が差し込む。
静かな光が廊下を照らしていた。
昨夜の襲撃は終わった。
だが、王宮に潜む闇はまだその姿を見せていない。
そしてミレイユも知らない。
自分の力が、これから王宮の均衡を大きく揺るがしていくことを。
静かな朝の中、王宮の歯車は、誰にも気付かれぬまま回り続けていた。




