第7話:沈黙する刃
深夜。
王女宮は静寂に包まれていた。
昼間は多くの人間が行き交うこの場所も、夜になれば声は消える。
廊下に灯された魔導灯だけが淡い光を落とし、長い影を床へ伸ばしていた。
だが、それは平穏を意味しない。
王女が眠る夜こそ警戒は最も厳重になる。
王女宮の各所には護衛が配置され、見えない場所にも監視の目があった。
王女エリシアの寝室。
その隣にはミレイユの部屋があり、さらに隣にはリディアの部屋がある。
万が一に備えた配置だった。
ミレイユはふいに目を開く。
眠っていなかったわけではない。
ただ、王都へ来てからというもの、完全に気を抜いて眠ることが少なくなっていた。
森の小屋とは違う。
人が多く、気配も多い。
だからこそ無意識のうちに探知網を広げてしまう。
クロウレイと暮らしていた頃も同じだった。
家の周囲へ探知魔術を張り、誰かが近づけば分かるようにしていた。
今も変わらない。
王女宮へ張り巡らせた探知網は、眠っている間も静かに機能している。
そのときだった。
探知網の端に、わずかな揺らぎが走る。
ミレイユは即座に身を起こした。
複数の反応。
しかも迷いがない。
警戒も躊躇もなく、まるで最初から道を知っているかのように王女宮の奥へ向かっている。
その異様さに眉をひそめながら、ミレイユは部屋を飛び出した。
隣室の扉を叩く。
「リディア様、起きていますか」
「どうした」
返答は即座だった。
扉が開く。
リディアはすでに黒装束へ着替え終えていた。
短剣を手にしており、眠っていた気配すら感じさせない。
「侵入者です」
リディアの目が細くなる。
「どこから」
「東から……おそらく五人です」
短い沈黙。
だが判断は早かった。
「私は殿下を護衛する」
迷いのない声だった。
「お前が迎え撃て」
ミレイユはわずかに戸惑う。
「私、防御系は得意ですが、攻撃はあまり……」
「構わん」
リディアは即答した。
「騎士を使え……あの騎士なら前に出られる」
アルベルトのことだ。
「私は絶対に殿下の側を離れない」
その言葉には揺らぎがなかった。
ミレイユも小さく頷く。
「……承知しました。シルヴァン様を呼んでおいてください」
「わかった」
リディアは短く答えると、最後に付け加えた。
「さっさと行け」
ぶっきらぼうな声だったが、そこに試すような響きが混じっていることにミレイユは気づいていた。
手並みを見せろ。
そう言われている気がした。
ミレイユは指先へ魔力を流す。
細い糸のような魔力が夜の王女宮を走り、遠くで小さな反応を返した。
アルベルトへ持たせていた簡易魔導具が起動したのだ。
数秒後、隣の部屋の扉が勢いよく開いた。
「敵襲か」
アルベルトはすでに剣を腰に下げていた。
「はい」
「人数は」
「五名です」
アルベルトの眉が寄る。
少なくはない。
だが逃げ出すような数でもなかった。
「迎撃します」
ミレイユはそう告げて続ける。
「私はアルベルト卿をお守りしますので、敵を叩いてください」
アルベルトは数秒、言葉を失った。
「……は?」
低い声が漏れる。
「魔術師のくせに攻撃できないのかよ」
「私、攻撃はからきしで……眠らせるくらいはできますが」
アルベルトは額を押さえた。
「俺はお前の護衛であって、お前に護られる筋合いはねぇんだよ」
「多勢相手ですから。そこは我慢して協力してください」
アルベルトの眉がぴくりと動く。
その瞬間、不意にエリシアの言葉を思い出した。
『仲よくしろとは言わないけれど、協力してくれたら嬉しいわ』
舌打ちが漏れる。
「……お前のためじゃない」
剣の柄を握り込む。
「王女殿下のためだ」
「はい」
二人は夜の回廊へ駆け出した。
回廊は静まり返っていた。
昼間は侍女や騎士が行き交う場所も、今は灯りだけが床を照らしている。
ミレイユは走りながら探知網へ意識を向けた。
敵との距離は近い。
迷いなく進み続けている。
「妙ですね」
「何がだ」
「侵入経路が……警備を避けているというより、警備の場所を知っているように見えます」
アルベルトの表情が険しくなる。
内通者。
その可能性が頭をよぎる。
だが今は考えている暇はない。
回廊を曲がった先に、人影が現れた。
五人。
黒装束。
顔は隠されている。
だが、その足取りには一切の迷いがなかった。
王女宮への侵入など、本来なら命懸けだ。
恐怖や緊張があって当然なのに、彼らからはそうした感情がまるで感じられない。
まるで感情そのものが削ぎ落とされているようだった。
「……おかしい」
ミレイユが呟く。
同じ違和感をアルベルトも覚えていた。
剣を抜く。
金属音が静寂を裂いた。
それを合図にしたように、刺客たちが一斉に加速する。
速い。
技術もある。
だが単調だった。
殺意はあるのに、人間らしさが薄い。
先頭の男が剣を振り下ろす。
アルベルトが受ける。
火花が散った。
重い一撃だったが、それ以上に気になったのは相手の様子だった。
焦りも恐怖もない。
仲間が傷つこうが倒れようが気にする気配もない。
まるで死ぬことを前提に動いているようだった。
左右から同時に攻撃が迫る。
アルベルトは身体を捻って躱し、反撃で一人を斬り伏せた。
だが次の瞬間だった。
頭の奥に、ぞわりと嫌な感覚が走る。
「っ……!?」
視界が歪んだ。
耳鳴り。
呼吸の乱れ。
身体ではない。
頭の中を直接かき回されるような不快感だった。
剣を握る手が震える。
恐ろしい。
強い。
勝てない。
死ぬ。
そんな感覚だけが異常に膨れ上がり、理性を押し潰そうとしてくる。
刺客が踏み込む。
剣が振り下ろされる。
防御が間に合わない。
――その瞬間、薄い光が走った。
甲高い音とともに剣が弾かれる。
アルベルトの目の前には、半透明の膜が張られていた。
ミレイユの防護魔術だった。
「……くそっ」
護られた。
よりによって魔術師に。
だが今はそんなことを気にしている余裕がない。
頭がおかしい。
思考がまとまらない。
「アルベルト卿!」
ミレイユの声が飛ぶ。
「どうしましたか!」
「頭の中をかき回されてるみたいだ!」
ミレイユの表情が変わった。
「……精神干渉攻撃です!」
探知網の感覚と照らし合わせる。
間違いない。
「魔力の流れがおかしいです!」
「分かってるなら何とかしろ!」
アルベルトは怒鳴った。
「お前の仕事だろうが!」
ミレイユは息を呑み、アルベルトへ意識を伸ばした――。
ミレイユは両手を胸の前に掲げ、意識を集中させた。
精神干渉は危険な力だ。
他人へ触れるということは、自分もまた相手に触れられるということでもある。
だから本来なら、そう簡単に踏み込むべきではない。
だが今は迷っている場合ではなかった。
アルベルトへ意識を伸ばす。
慎重に、深く入りすぎないように。
その瞬間だった。
ぞわり、と、全身を何かが撫でるような感覚が走る。
思わず息が詰まった。
強い。
あまりにも強い。
アルベルトの精神は、驚くほど真っ直ぐだった。
折れない。
曲がらない。
不器用なほど一直線で、だからこそ眩しい。
剣だけを信じて生きてきた人間の意志が、そのまま形になったような強さだった。
ミレイユは一瞬だけ目を見開く。
(……深く入ると、危ない)
飲み込まれそうになる。
慌てて意識を引き戻した。
見るべきではない。
触れすぎてもいけない。
必要なのはただ一つ。
アルベルトへ絡みついている異物を見つけることだけだ。
集中する。
やがて見つけた。
濁った流れ。
不自然な歪み。
他者によって無理やりねじ曲げられた感情の奔流。
恐怖だけを増幅し、理性を鈍らせる悪意の塊。
ミレイユはそこへ意識を向ける。
切る。
弾く。
押し返す。
静かに。
だが確実に。
次の瞬間、アルベルトの視界から霧が晴れた。
恐怖が消える。
耳鳴りが止む。
呼吸が整う。
自分が戻ってくる。
「……っ!?」
思わず目を見開く。
何をされたのか分からない。
だが分かる。
頭がおかしくなりそうだった感覚が、嘘のように消えていた。
剣を握り直す。
身体が軽い。
思考が鮮明だ。
「どけぇっ!」
怒号とともに踏み込む。
鋭い斬撃が刺客の身体を切り裂いた。
戦況が一気に動く。
先ほどまでの押され気味だった流れが逆転した。
左右から同時に攻撃が迫る。
死角に近い角度。
だが、その瞬間には半透明の障壁が生まれている。
剣が弾かれる。
生まれた隙へアルベルトが飛び込む。
一人、さらに一人と、次々と倒れていく。
(なんなんだ、この魔術は)
戦いながら思う。
攻撃ではない。
敵を吹き飛ばすわけでもない。
派手さもない。
だが厄介だった。
いや、頼もしい。
そう認めざるを得ない。
どれだけ死角から攻撃されても、防護が間に合う。
まるで誰かが背後から戦いを支えているようだった。
実際に支えているのだが。
そのことが妙に腹立たしい。
最後の一人が飛び退く。
周囲を見回すと、仲間は全員倒れていた。
普通なら動揺する場面だ。
だが、その男も無表情だった。
恐怖も焦りもない。
ただ目的だけが残っている。
その異様さにアルベルトは舌打ちした。
「気味の悪い奴らだな」
男が再び剣を構える。
一直線に突っ込んでくる。
迷いのない動き。
だからこそ読みやすい。
アルベルトが迎え撃とうとした、そのときだった。
「待ってください」
ミレイユの声が響く。
「この方は生かします」
「は?」
「聞きたいことがあります」
アルベルトは眉をひそめたが、ミレイユはすでに前へ出ていた。
刺客が気付く。
剣を振り上げる。
だがミレイユは動かない。
静かに目を閉じる。
意識を向ける。
相手へ。
精神へ。
その瞬間だった。
ミレイユは思わず息を呑む。
(……なに、これ)
人の精神ではない。
正確には、人の精神の上に何かが巻き付いている。
何重にも。
何十にも。
鎖のように。
糸のように。
無理やり固定されている。
見たことがない状態だった。
ぞっとする。
こんな状態で正気を保っている方がおかしい。
まるで人間そのものを道具へ作り替えているかのような、不自然さがあった。
ミレイユは思わず息を呑む。
(……誰が、こんなことを)
精神干渉。
それは本来、人の心に触れる力だ。
だが、目の前のこれは違う。
触れているのではない。
縛っている。
押さえつけている。
人間を、人間ではない何かに変えてしまうような――そんな異質さがあった。
背筋を冷たいものが走る。
自分の知らない精神干渉。
自分の理解の外にある技術。
あるいは、もっと別の何か。
その精神に食い込んだ異物が、不気味な存在感を放っていた。
ミレイユは慎重に意識を伸ばす。
引きずられないように。
触れすぎないように。
ただ一つだけ。
命令を落とす。
「眠って」
小さな声だった。
刺客の身体が止まる。
剣が手から滑り落ちる。
そのまま力が抜けるように崩れ落ちた。
石床へ倒れ込み、動かなくなる。
眠っている。
ただ、それだけだった。
アルベルトは思わず目を見開いた。
「……終わったのか」
「はい」
ミレイユは小さく頷く。
だが、その表情は晴れない。
先ほど見たものが気になっていた。
あれは異常だ。
精神干渉を扱う者として、本能的な嫌悪感があった。
胸の奥に、小さな不安が生まれていた。
王宮に来てから初めて感じる、はっきりとした脅威だった。
――これは、ただの襲撃ではない。
そんな予感だけが、静かに残っていた。




