第30話:聖なる夜の果て
神聖国を発ったのは、それから二日後のことだった。
聖都は、なお混乱の中にあった。
法王は表舞台から退き、神官団も統制を失っている。
街には、まだ戸惑いと不安が色濃く残っていた。
だが、帝国使節団がそれ以上介入することはない。
ここから先は、神聖国自身が向き合うべき問題だからだ。
ヴァルターはそう判断し、帝国としても静かに国境を後にした。
その頃、宿の一室では、ミレイユが窓際の椅子へ腰掛けていた。
毛布にくるまり、静かに外を眺めている。
頬にはまだ血の気が戻りきっておらず、顔色も万全とは言えない。
神聖国で倒れて以来、まともに起き上がれるようになったのは、ようやく昨日のことだった。
窓の外では、白い街並みがゆっくりと遠ざかっていく。
もう二度と来ることはないのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に小さな咳が漏れた。
「……っ」
その瞬間だった。
部屋の反対側にいたアロイスが、ほとんど反射のように立ち上がる。
机の上に置かれていた水差しへ手を伸ばし、コップへ水を注ぐと、そのままミレイユの前へ差し出した。
「水を」
短い一言。
あまりにも自然で、あまりにも早い。
ミレイユは思わず目を瞬かせた。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言うと、アロイスは軽く頷くだけだった。
代わりに返ってきたのは、いつもの低い声。
「まだ動くな」
それだけ。
叱るわけでも、慰めるわけでもない。
ただ当たり前のようにそう告げる。
ミレイユは困ったように微笑んだ。
「もう大丈夫です」
「そう言って倒れた」
即答だった。
反論の余地もない。
ミレイユは苦笑しながら視線を落とす。
「……はい」
その返事に、アロイスはようやく腰を下ろした。
とはいえ、書類を読んでいるように見えて、その視線は時折こちらへ向いてくる。
本人は隠しているつもりなのだろう。
だが、隠しきれていなかった。
その様子を見ていたヴァルターが、湯気の立つ紅茶を口へ運びながら小さく笑う。
「相変わらずですねぇ」
アロイスは顔を上げる。
「何がだ」
「いえ」
ヴァルターは肩をすくめた。
「何でもありません」
その笑みが妙に意味深で、アロイスは眉を寄せる。
だが、それ以上追及することはなかった。
*
その夜。
ミレイユは夢を見た。
白い地下神殿。
どこまでも続く石の回廊。
響き続ける祈り。
『救済を』
『導きを』
『苦しみを消して』
無数の声が重なり、白い霧の向こうから幾本もの手が伸びてくる。
逃げようとしても足が動かない。
呼吸が浅くなる。
身体がゆっくり沈んでいく。
『来て』
優しい声だった。
拒まなくていい。
全部委ねれば楽になれる。
そう囁くように。
伸ばされた白い手が、もう指先へ届こうとした、その瞬間。
「ミレイユ」
低い声が響いた。
夢が揺らぐ。
「……っ!」
ミレイユは大きく息を吸い込み、勢いよく目を開けた。
暗い部屋だった。
窓の外には夜が広がり、静かな月明かりが差し込んでいる。
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
現実と夢の境界が、まだ曖昧だった。
その時だった。
ベッド脇にはアロイスがいた。
椅子へ腰掛けたまま、浅く眠っていたらしい。
ミレイユが息を乱した気配に気づき、すぐに目を開ける。
「……ミレイユ」
低く落ち着いた声だった。
夢の続きを断ち切るように、静かに言う。
「ここだ」
目を合わせて、続ける。
「戻ってる」
たった二言。
それだけだった。
それなのに、張り詰めていた心が少しずつ現実へ引き戻されていく。
ミレイユの肩から力が抜けた。
アロイスは何も言わず、水差しへ手を伸ばす。
コップへ水を注ぎ、そっと差し出した。
「飲め」
ミレイユは震える指で受け取る。
まだ少し冷たい手だった。
アロイスはその冷たさへ気づき、小さく眉を寄せる。
けれど、何も言わない。
無理に励ますことも、慰めることもせず、ただ静かに隣へ座っていた。
コップの水を飲み終え、呼吸が落ち着くまで。
一言も交わさないまま、その場を離れようとはしなかった。
ミレイユはようやく息を整え、小さく呟く。
「……ありがとうございました」
アロイスは短く頷く。
「眠れ」
それだけ言うと、再び静かに椅子へ腰を下ろした。
その姿を見ているうちに、不思議と胸の鼓動が穏やかになっていく。
さっきまで耳の奥で響いていた"御声"は、もう聞こえない。
代わりに聞こえるのは、窓の外を吹き抜ける夜風の音だけだった。
ミレイユはゆっくりと目を閉じる。
今度は、夢を見ることはなかった。
*
翌朝。
宿の食堂は、ひどく静かだった。
昨夜まで忙しく出入りしていた神官や巡礼者の姿はない。
窓の外では、人々が戸惑ったように行き交い、ときおり遠くから鐘ではなく、人々のざわめきだけが聞こえてくる。
厨房から運ばれてきたのは、温め直した黒パンと、湯気の立つ野菜のスープ。
宿の主人は無言で皿を並べる。
「……街中、大騒ぎだ」
ぼそりと、それだけ呟いた。
「でも、生きてりゃ腹は減る」
「食っとけ」
それでも「食べられるだけありがたい」という空気が、食堂には流れている。
ライナーは椅子へ腰を下ろし、黒パンを一つ手に取った。
「……後味悪ぃな」
誰へ向けた言葉でもない。
独り言のような声だった。
「そうですね」
向かいに座るエドガーは、静かに同意する。
「敵を倒して終わり、という話ではありませんでしたから」
ライナーは苦い顔のままパンを置いた。
「あいつら、本気で救われたって思ってたんだよな」
思い出すのは、地下神殿で涙を流していた神官たちだった。
"御声"が消えたことを悲しみ、一人になることを恐れていた姿。
あれは演技ではない。
本物だった。
だから、単純に悪を倒したという爽快感は残らなかった。
エドガーも静かに頷く。
「苦しみが消えたこと自体は事実だったのでしょう」
「だからこそ難しい」
「ええ」
二人の会話を聞いていたヴァルターが、紅茶のカップを静かに置く。
「宗教とは、そういうものですよ」
穏やかな口調だった。
「善意ほど厄介なものはありません」
ライナーが露骨に嫌そうな顔をする。
「朝から怖ぇこと言うなよ」
「事実ですので」
「だから性格悪ぃって言われんだよ」
ヴァルターは少しだけ肩をすくめた。
「褒め言葉として受け取っておきます」
その返答に、ライナーは呆れたように笑う。
「ほらそういうとこだ」
ようやく、食堂へ小さな笑い声が戻った。
重苦しかった空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
その頃、ミレイユはゆっくりと部屋を出てきた。
まだ顔色は万全ではない。
それでも昨夜よりはずっと穏やかな表情をしていた。
アロイスはその姿を見るなり立ち上がる。
「眠れたか」
短い問いだった。
ミレイユは小さく微笑む。
「はい」
その一言を聞いて、アロイスは目に見えて肩の力を抜いた。
その様子を見逃さなかったライナーが、隣で肘をエドガーへぶつける。
「見たか」
小声だった。
エドガーは苦笑する。
「ええ」
「今、完全に安心したぞ」
「しましたね」
二人は顔を見合わせる。
「本人だけ気付いてねぇ」
「いつものことです」
その囁きは、幸いアロイスの耳には届かなかった。
*
それから数日後。
帝都の城壁が見えてきた。
街道を吹き抜ける風には、神聖国とは違う乾いた匂いが混じっている。
市場の喧騒。
人々の話し声。
城門へ並ぶ荷馬車。
どれも見慣れた帝都の日常だった。
「帰ってきたな」
ライナーが大きく伸びをする。
誰も返事はしない。
それでも、全員が同じことを思っていた。
ようやく帰ってきた、と。
馬車はそのままシュタルク公爵邸へ入る。
正門前には、いつものようにルドルフが立っていた。
姿勢は完璧。
礼も完璧。
しかし。
目の下の隈だけは隠しようがなかった。
ライナーは吹き出す。
「うわ、本当に死にそう」
「……失礼ですね」
ルドルフは淡々と頭を下げる。
「皆様、お帰りなさいませ」
その声音はいつも通りだった。
だが、深く息を吐いてから続ける。
「今回は……何日で済みますか」
切実だった。
ライナーは腹を抱えて笑う。
「そんな第一声あるか!」
「あります」
即答だった。
「北方遠征後の書類整理が終わったのは、皆様が神聖国へ向かわれた翌日です」
エドガーが静かに目を逸らす。
「……ご愁傷様です」
「他人事ではありません」
「ええ、承知しております」
そんなやり取りをしている間にも、屋敷の奥から足音が響いてくる。
「ミレイユ様!」
マルガレーテだった。
その後ろには、すでにメイドたちが整列している。
毛布。
薬湯。
温かなスープ。
栄養食。
まるで作戦でも始まるかのような完璧な布陣だった。
マルガレーテはミレイユの顔を見る。
その瞬間、表情が少しだけ険しくなる。
「……部屋へ行きなさい」
有無を言わせない口調だった。
「今すぐです」
「ですが――」
「今すぐです」
二度目は、反論を許さない声音だった。
ミレイユは苦笑しながら頷くしかない。
「……はい」
メイドたちが一斉に動き始める。
「お着替えをご用意しております」
「薬湯は温めてあります」
「食事もすぐお持ちします」
見事な連携だった。
ライナーはその勢いに思わず一歩下がる。
「怖ぇ……」
エドガーが真面目な顔で頷く。
「シュタルク家メイド部隊ですから」
「騎士団より統率取れてね?」
「否定できませんね」
そんな二人の横で、アロイスは当然のようにミレイユの後を追おうとした。
しかし。
「坊ちゃん」
マルガレーテの一言で足が止まる。
静かな声なのに、妙な迫力があった。
「あなたも休みなさい」
アロイスは一瞬だけ黙る。
「……問題ない」
「その顔で"問題ない"は無理があります」
即答だった。
アロイスは反論しかける。
だが、自分の顔へ向けられた周囲の視線に気づき、口を閉じた。
ライナーが肩を震わせる。
「怒られてる怒られてる」
「……うるさい」
低く返す。
けれど、そのやり取りに、公爵邸には久しぶりの笑い声が広がった。
重苦しい空気はもうない。
皆が少しずつ、自分たちの日常へ戻り始めていた。




