第29話:神なき夜
石板が砕け散った瞬間だった。
地下神殿を満たしていた音が、不意に消える。
あれほど絶え間なく響いていた聖歌も。
人々の祈りも。
巨大な装置の脈動も。
すべてが、まるで息を止めたように途絶えた。
静寂だった。
耳が痛くなるほどの。
誰もすぐには動けない。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
法王は震える手の中を見つめる。
砕けた石板の欠片が、指の隙間から音もなく零れ落ち、白い床へ散らばっていく。
「……なぜ」
掠れた声だった。
信じられないものを見るように、砕けた欠片を見つめ続ける。
「救われていた……はずなのに」
その言葉に偽りはなかった。
法王は最後まで、本気で人々を救っていると信じていた。
苦しみを消し。
争いを終わらせ。
誰も孤独にならない世界を作ろうとしていた。
だからこそ、その土台が崩れた今、立っていることすらできなかった。
膝から力が抜ける。
法王はその場へ静かに崩れ落ちた。
震える手で石板の欠片を拾い集めようとする。
「違う……」
声が震える。
「これは……救いだった……」
拾い上げようとした破片は、指先を滑り落ち、乾いた音を立てて床へ転がった。
法王はゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、アロイスの腕に抱かれたミレイユがいた。
敵を見る目ではない。
怒りも憎しみもない。
あるのは、深い困惑だけだった。
「なぜ……拒むのです」
静かな問いだった。
「苦しみは消えたのですよ」
掠れた声が神殿へ響く。
「争いも……恐怖も……」
その言葉は、誰へ言い聞かせるでもなく、自分自身へ向けられているようだった。
「何が、間違っていたのです」
アロイスの腕の中で、ミレイユの睫毛がかすかに震える。
意識はまだ朦朧としている。
それでも、その問いだけは聞こえていた。
ゆっくりと唇が動く。
「……苦しみまで」
細い声だった。
今にも途切れそうなほど弱々しい。
それでも、一つ一つの言葉だけははっきりとしていた。
「奪っては……いけません」
法王が息を呑む。
ミレイユは苦しそうに呼吸を整えながら、静かに続けた。
「痛みも……迷いも」
言葉を探すように、小さく息を吸う。
「人が、生きるためのものです」
静かな拒絶だった。
誰かを責める言葉ではない。
ただ、自分が信じる答えを伝える声。
法王は何も返せなかった。
理解できない。
そんな表情のまま、ただ少女を見つめている。
沈黙が広がる。
その時だった。
周囲へ倒れていた神官たちが、小さく身じろぎした。
「……あ」
誰かが呟く。
虚ろだった瞳へ、少しずつ感情が戻っていく。
戸惑い。
恐怖。
困惑。
年老いた神官が、自分の両手を見つめる。
「私は……」
声が震える。
「何を……していた……?」
別の若い神官は周囲を見回し、青ざめた顔で後ずさる。
「"御声"が……」
唇が震える。
「聞こえない……」
その声には恐怖が混じっていた。
救われていた時間を失った喪失感。
一人きりになってしまったような、不安。
さらに別の神官が頭を抱え、その場へうずくまる。
「嫌だ……」
震える声が漏れる。
「また……一人になるのか……」
その言葉に、ライナーは思わず口を閉ざした。
反射的に返そうとした軽口は、もう出てこない。
誰かが泣き始める。
別の誰かは呆然と立ち尽くし、ある者は自分の頬を叩いて現実を確かめていた。
さっきまでの静けさは消えていた。
泣き声。
怒鳴り声。
戸惑う声。
様々な感情が入り混じり、地下神殿は一気に騒がしくなる。
ライナーが小さく舌打ちした。
「……気持ち悪ぃ街だったな」
珍しく冗談はない。
その隣で、エドガーは静かに崩れ始めた刻印を見つめていた。
「ですが」
ぽつりと呟く。
「あれを救済だと感じた人も、確かにいたのでしょう」
ライナーは何も答えなかった。
答えられない。
苦しみが消えたのは事実だ。
救われたと思った者も、きっといた。
だから、この結末を手放しで喜ぶことはできなかった。
その時だった。
地下神殿の中央で、巨大な装置が最後に一度だけ脈打つ。
どくん。
全員の視線が集まる。
しかし、それ以上の変化は起こらない。
蒼い光はゆっくりと弱まり、巨大な環は静かに動きを止めていく。
まるで長い眠りへ落ちるように。
エドガーが小さく息を吐いた。
「……休眠しましたか」
崩れていく紋様を見つめながら、慎重に様子を確かめる。
「自己修復も停止していますね」
安堵してもよさそうな報告だった。
それでも、その表情は晴れない。
ヴァルターが静かに問いかける。
「何か気になりますか」
エドガーは視線を装置から外さないまま答えた。
「停止しています」
しかし、小さく首を傾げる。
「ですが……違和感があります」
その声音に、全員が耳を傾けた。
「北方遺構と、構造が似すぎているのです」
地下神殿へ、再び重い沈黙が落ちた。
エドガーの言葉が消えるのを待っていたかのように、地下神殿が大きく軋んだ。
ごごご……。
低い地鳴りが足元を震わせる。
天井から細かな砂が降り、白い柱の一角へ亀裂が走った。
「崩れます!」
エドガーが即座に叫ぶ。
「長居は危険です!」
その声と同時に、神殿の奥で轟音が響いた。
石柱が傾き、床へ激突する。
白い破片が舞い上がり、視界を覆った。
ライナーは反射的に駆け出す。
崩れた柱の陰で動けなくなっていた神官の腕を掴み、力任せに引き起こした。
「立て!」
神官は怯えた目でライナーを見上げる。
何が起きているのか理解できていない。
「でも……私は……」
「あとで考えろ!」
半ば怒鳴るように言い、そのまま肩へ担ぎ上げる。
乱暴だった。
だが、その手は最後まで離さない。
「ったく……」
苦々しく呟く。
「敵か味方か分かんねぇな」
その背後で、ヴァルターが小さく笑った。
「それでも助けるのですね」
「うるせぇ!」
即座に返す。
「見殺しにしたら寝覚めが悪ぃだけだ!」
エドガーは障壁を広げながら周囲を見渡した。
青白い結界が落石を受け止め、砕け散る。
「急ぎましょう」
冷静な声だった。
「この規模では連鎖崩壊を起こします」
アロイスは何も言わない。
腕の中のミレイユを抱え直し、そのまま出口へ向かって歩き出した。
一度も降ろさない。
まるで、もう二度と離すつもりがないかのように。
ライナーが横目で見る。
「代わるか?」
「必要ない」
即答だった。
一切迷いがない。
ライナーは肩をすくめる。
「……はいはい」
苦笑しながらも、その表情には安堵が浮かんでいた。
一行が出口へ向かう中、ヴァルターは最後に一度だけ振り返った。
崩れ始めた地下神殿。
光を失っていく巨大な装置。
その手前で、法王は今も砕けた石板の前に膝をついている。
その時だった。
白い床を転がる瓦礫の隙間で、何かが微かに光った。
ヴァルターの視線が止まる。
爪ほどしかない、小さな石片。
砕けた石板の欠片だった。
ほとんど力は失っている。
それでも――。
ほんの一瞬。
脈打つように、淡い光が灯った。
ヴァルターの目が細くなる。
「……なるほど」
崩落の轟音に紛れ、誰にも届かないほど小さな声だった。
ヴァルターはしゃがみ込み、その欠片を拾い上げる。
そして何も言わず、懐へしまった。
誰にも見せずに。
「ヴァルター!」
先を行くライナーの声が飛んでくる。
「今行きますよ」
いつもの穏やかな声で答え、ヴァルターは踵を返した。
その背後で、白い柱が轟音とともに崩れ落ちた。
地下通路を駆け抜ける。
崩落は次第に激しさを増し、石壁へ刻まれた古代帝国式の紋様も次々と光を失っていく。
誰かが泣いていた。
誰かが助けを呼んでいる。
誰かが怒鳴り返す。
さっきまで完璧に揃っていた祈りはもうどこにもない。
恐怖も。
怒りも。
涙も。
すべてがばらばらだった。
それでも。
その雑多な声こそが、人の営みだった。
長い階段を上り切った頃、ミレイユの指先がかすかに動いた。
アロイスの足が止まる。
「……ミレイユ」
呼びかける声は、今までになく静かだった。
ミレイユは薄く眉を寄せる。
ゆっくりと唇が開いた。
「……アロイス、様」
本当に小さな声だった。
それでも確かに、自分の意思で紡がれた言葉だった。
アロイスは何も答えない。
答えられなかった。
ただ、腕へ込める力がわずかに強くなる。
もう失わないと誓うように。
やがて一行は地上へ出る。
夜風が頬を撫でた。
冷たい。
それなのに、不思議と心地よかった。
鐘は鳴っていない。
聖歌も聞こえない。
あれほど街を覆っていた圧迫感は、跡形もなく消えていた。
広場では人々が戸惑いながら周囲を見回している。
「……あれ?」
「私は、どうしてここに……」
「母さん!」
子どもが泣きながら駆け出し、母親へ飛びつく。
夫婦が言い争う。
老人が地面へ座り込み、静かに涙を流す。
神官が呆然と空を見上げていた。
誰かが笑い。
誰かが怒り。
誰かが泣く。
揃っていない。
だからこそ、その光景はどこまでも人間らしかった。
ヴァルターは白い聖都を静かに見渡す。
法王の権威は揺らぐだろう。
神官団も混乱する。
国は大きく変わる。
だが、それは帝国が介入すべき問題ではない。
ここから先は、この国の人々自身が選ぶ未来だ。
「……面倒ですねぇ」
小さく息を吐く。
*
その頃――王宮。
別室に、大きな破砕音が響き渡る。
パキンッ!
巨大な水晶球へ無数の亀裂が走り、内部の光が弾けるように消えていった。
部屋を静寂が包む。
シルヴァンが肩を落とした。
「あらら……」
壊れた水晶球を眺め、苦笑する。
レオニードは額へ手を当て、大きく息を吐いた。
その横で、クロウレイは壊れた水晶球へ静かに触れている。
力の抜けたような笑みを浮かべながら。
その指先だけが、かすかに震えていた。
シルヴァンはその震えに気づく。
「……クロウレイさん?」
しばらく返事はなかった。
砕けた水晶球を見つめたまま、長い沈黙が続く。
やがて、クロウレイは小さく笑った。
「……いやぁ」
肩から力が抜ける。
珍しく、本当に珍しく。
冗談を交えない声で呟いた。
「焦った」
部屋が静まり返る。
「あの子……消えかけてたから」
誰も言葉を返せなかった。
レオニードも。
シルヴァンも。
アルベルトも。
ただ黙って、その言葉を聞いていた。
クロウレイはもう一度、壊れた水晶球へ視線を向ける。
「……でも」
ぽつりと漏らす。
「まだ終わってない気がするんだよねぇ」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
ただ静かに。
夜の始まりを告げるように、部屋へ溶けていった。




