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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第28話:戻っておいで

地下神殿は、生きているように脈打っていた。

どくん。

どくん。

巨大な鼓動が石造りの空間を震わせるたび、床一面に刻まれた古代帝国式の紋様が淡い蒼光を放つ。

その光は幾重にも重なり合い、やがて神殿全体を一つの巨大な術式へと変えていた。

頭上からは、絶え間なく聖歌が降り注ぐ。

聖都中で祈る人々の歌声。

救いを願う声。

赦しを求める声。

そのすべてが地下へ集められ、装置へと流れ込んでいた。

ミレイユの視界が揺れる。

境界が曖昧になっていく。

自分と他人の区別が、ゆっくりと溶けていくようだった。

『救済を』

『導きを』

『苦しみを消して』

無数の祈りが頭の奥へ流れ込み、思考を優しく包み込む。

不思議と苦しくはなかった。

むしろ、その逆だった。

孤独が薄れていく。

恐れが消えていく。

誰かと繋がっている。

たったそれだけのことが、どうしようもなく心地よかった。

法王が静かに一歩踏み出す。

両手に抱えた石板は柔らかな光を放ち、その輝きは地下神殿全体へ広がっていく。

「大丈夫です」

慈しむような声だった。

幼い子へ語りかけるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「もう苦しまなくてよいのです」

石板が脈打つ。

それに応えるように巨大な装置が共鳴した。

どくん。

どくん。

鼓動は次第にミレイユの心臓と重なり始める。

「皆と一つになれます」

法王の瞳に悪意はなかった。

支配しようという欲望もない。

ただ、目の前の少女を本気で救おうとしている。

だからこそ恐ろしい。

「誰も独りではありません」

穏やかな微笑み。

「苦しみも、悲しみも、恐れも……すべて神がお受けになります」

その言葉が胸へ染み込んでくる。

張り詰めていた心がほどけていく。

何も考えなくていい。

委ねればいい。

それだけで楽になれる。

気づけば、ミレイユの足が前へ出ていた。

無意識だった。

一歩。

また一歩。

装置へ。

石板へ。

吸い寄せられるように歩き出す。

その腕を、力強く誰かが掴んだ。

「戻れ!」

低く響く声。

アロイスだった。

強く引き寄せられ、身体がわずかによろめく。

それでも足は止まらない。

視線だけが石板へ向いている。

「ミレイユ」

呼びかける声が聞こえる。

近くで。

必死に。

けれど、その声はどこか遠かった。

ミレイユの瞳から、少しずつ焦点が失われていく。

「……楽に、なれる」

小さな呟きだった。

その一言に、アロイスの表情が変わる。

「違う」

返事はない。

「ミレイユ」

もう一度呼ぶ。

それでも届かない。

法王は静かにその光景を見つめていた。

「彼女は、"御声"へ至れる」

歓喜を滲ませた声だった。

石板の輝きが一段と強くなる。

どくん。

巨大な装置が応える。

地下神殿全体が震えた。

『来て』

優しい声が響く。

『もう苦しまなくていい』

『拒まなくていい』

『誰も恐れない』

『誰も君を傷つけない』

『全部、委ねればいい』

ミレイユの意識が静かに沈んでいく。

温かな水へ身体を預けるように。

もう抗わなくてもいい。

そう思った、その瞬間だった。

――王宮。

別室。

クロウレイが、不意に顔を上げた。

いつもの飄々とした笑みはない。

空気が変わる。

「……ミレイユが危ない」

静かな声だった。

シルヴァンが書類から顔を上げる。

「また師匠の勘ですか」

軽口のつもりだった。

だが、クロウレイは答えない。

じっと虚空を見つめたまま動かなかった。

長い沈黙が部屋を満たす。

やがて、小さく息を吐く。

「今回は……さすがに僕も、本気でやらないと駄目そうだ」

その声音に、冗談は一欠片もなかった。

レオニードが静かに口を開く。

「普段からそうしていろ」

いつものやり取り。

そのはずだった。

しかしクロウレイは笑わない。

そのことに、室内の全員が気づいた。

レオニードの目が細くなる。

こんな表情をするクロウレイを見たのは、いつ以来だっただろうか。

「遠隔映像装置を」

低い声が響く。

「今すぐ」

シルヴァンが苦い顔をした。

「また準国宝が犠牲になるんですか」

「そんなものより」

クロウレイは迷いなく言い切る。

「あの子の方が大事だ」

即答だった。

一切の躊躇がない。

「急いで」

その一言で、部屋の空気が一変する。

誰一人、軽口を返さなかった。

ほどなくして、巨大な水晶球が運び込まれる。

王国が誇る遠隔観測装置。

淡く輝くその前で、クロウレイは懐から一本の銀色の指輪を取り出した。

ミレイユへ託したものと対になる指輪。

掌へ静かに乗せる。

「ミレイユの精神へ――直接繋ぐ」

その言葉に、レオニードの表情が険しく変わった。

「精神へ直接接続するだと……?」

レオニードが一歩前へ出る。

さすがにその表情からも余裕は消えていた。

クロウレイは静かに頷く。

「供給だけじゃ間に合わない」

視線は水晶球から離さない。

「今、あの子は自分という境界を失いかけてる」

短い説明だった。

それだけで十分だった。

レオニードはすぐに理解する。

「精神境界の融解か」

低く呟き、すぐさま水晶球へ手をかざした。

「ならば魔力供給では足りん」

レオニードは水晶球を見据えたまま続ける。

「固定する」

「私が境界を支える」

クロウレイがわずかに笑う。

「助かる」

シルヴァンが二人を見比べ、乾いた笑みを浮かべた。

「王国最高峰の術師が二人揃って本気とか……」

肩をすくめる。

「相手が可哀想になってきたよ」

誰も笑わなかった。

部屋の隅では、アルベルトが水晶球を見つめている。

そこへ映し出されているのは、地下神殿。

そして、法王へ歩み寄ろうとするミレイユの姿だった。

拳を握る。

どうしようもなく。

何もできない自分が腹立たしかった。

助けに行きたい。

今すぐ。

剣を抜いて、あの地下神殿ごと叩き壊したい。

それでも届かない。

遠すぎる。

「……くそっ」

誰にも聞こえないほど小さく吐き捨てる。

クロウレイが静かに息を整えた。

「繋ぐよ」

銀の指輪が淡く輝き始める。

同時に、地下神殿ではミレイユの指にはめられた指輪が熱を帯びた。

「……っ」

小さく肩が震える。

意識の底へ、温かな魔力が流れ込んできた。

懐かしい。

優しく包み込むような魔力。

幼い頃から何度も感じてきた、大好きな気配だった。

『ミレイユ』

声が響く。

クロウレイの声だった。

穏やかで。

優しくて。

どこか困ったように笑っている声。

沈みかけていた意識がわずかに揺れる。

『聞こえるね』

返事はできない。

それでもクロウレイは続けた。

『よかった』

その一言だけで、胸が熱くなる。

『戻っておいで』

静かな声だった。

『君は誰だ』

問いかける。

責めるでもなく、試すでもなく。

思い出させるように。

『何のために、ここまで来た』

地下神殿が大きく脈打つ。

法王の石板が強く輝いた。

『救済を』

『神よ』

『導きを』

無数の祈りが押し寄せる。

クロウレイの声を掻き消そうとするように。

その瞬間。

「境界固定開始」

レオニードの低い声が響いた。

膨大な魔力が水晶球へ流れ込む。

精密に。

一本一本、糸を結び直すように。

「崩すな」

術式が展開される。

ミレイユという人格を囲むように、幾重もの魔法陣が広がっていく。

クロウレイが再び呼ぶ。

『ミレイユ』

『君は道具じゃない』

優しい声だった。

『君は、君だ』

その言葉が、沈みかけた意識へ深く届く。

崩れかけていた境界が、わずかに輪郭を取り戻した。

けれど、それでもまだ足りない。

ミレイユの身体は、なお法王の方へ引かれていく。

その時だった。

「聞け」

耳元で低い声が響く。

アロイスだった。

強く抱き寄せる。

逃がすまいとするように。

「お前は俺たちと来た」

短い言葉。

「戻る場所がある」

ミレイユの呼吸が震えた。

アロイスは腕を緩めない。

「お前は一人じゃない」

まっすぐな声だった。

飾らない。

だからこそ強い。

「勝手に消えるな」

その一言が、深く沈みかけた意識へ届く。

温かな魔力。

師匠の声。

力強い腕。

低く響く声。

そのすべてが、薄れかけた自分を現実へ引き戻してくれる。

ミレイユの瞳に、ゆっくりと光が戻った。

「……あ……」

かすれた声が漏れる。

法王の表情が、初めて揺らいだ。

「……なぜ」

理解できない。

そんな顔だった。

救済を拒む理由が。

個へ戻ろうとする理由が。

法王には分からなかった。

その瞬間だった。

どくんッ!!

巨大な装置が今までにないほど激しく脈打つ。

地下神殿全体が大きく揺れた。

「来ます!」

エドガーが即座に前へ出る。

青白い魔法陣が足元へ広がり、五人を包む障壁が展開された。

「耐えてください!」

直後、眩い白光が地下神殿を埋め尽くす。

轟音。

衝撃。

空間そのものが悲鳴を上げる。

障壁が軋み、エドガーの額へ汗が滲んだ。

「っ……!」

歯を食いしばる。

崩さない。

その横でライナーがヴァルターの襟首を掴んだ。

「死ぬ時ゃ巻き込まれろ、クソ外交官!」

「いやいや、相変わらず乱暴ですねぇ!」

軽口を叩きながらも、ヴァルターの目は笑っていなかった。

挿絵(By みてみん)

法王の手の中で石板が激しく明滅する。

制御が追いつかない。

都市規模の精神干渉と、クロウレイたちの逆干渉が正面からぶつかり合う。

限界だった。

――ピシ。

小さな音が響く。

法王が息を呑む。

石板の中央へ、一筋の亀裂が走っていた。

「やめ……」

その願いは届かない。

パキン。

乾いた音とともに、石板が砕け散った。

同時に装置が絶叫する。

白い光が地下神殿を飲み込み、ミレイユの意識も真っ白に染まる。

身体が崩れ落ちる。

それをアロイスが迷わず抱き止めた。

「ミレイユ!」

呼びかける声が遠く聞こえる。

薄れていく意識の中。

最後に届いたのは、あの優しい声だった。

『よく頑張ったね』

師匠の声。

それを聞いたミレイユは、安心したように静かに意識を手放した。

*

王宮――別室。

パキン、と甲高い音が響く。

巨大な水晶球へ、蜘蛛の巣のような亀裂が広がっていく。

光が弾け、部屋は静寂に包まれた。

シルヴァンが引きつった笑みを浮かべる。

「……あーあ」

レオニードは額を押さえ、大きく息を吐く。

「……準国宝が……」

惜しそうだった。

その隣で、クロウレイは力が抜けたように椅子へ腰掛け、小さく笑う。

「言ったでしょ」

どこか満足そうな笑みだった。

「あの子の方が、大事だって」

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