第27話:神へ至る階(きざはし)
「――猊下がお待ちです」
"御声の儀"への招待が届いたのは、それから十分ほど後のことだった。
客室を訪れたのは、一人の若い神官だった。
白い法衣に身を包み、柔らかな笑みを浮かべている。
物腰も穏やかで、礼儀正しい。
けれど、その瞳だけはどこか虚ろだった。
焦点が合っているようで、どこにも定まっていない。
「聖女候補たるミレイユ様にも、ぜひ"御声"をお聞きいただきたく存じます」
その言葉に、部屋の空気がわずかに冷えた。
アロイスの視線が静かに細められる。
しかし、それより先にヴァルターが穏やかな笑みを浮かべた。
「承知しました。ご案内いただけますか」
完璧な外交官の笑みだった。
神官は深く一礼し、静かに歩き始める。
「こちらへ」
誰も言葉を交わさないまま、その後に続いた。
案内された先は、大聖堂のさらに奥。
昼間は閉ざされていた封鎖区画だった。
巨大な石扉の中央には、見覚えのある聖印が刻まれている。
その隙間から、淡い蒼白い光が脈打つように漏れていた。
どくん。
どくん。
光と呼応するように、ミレイユの胸の奥でも何かが脈打つ。
「……っ」
思わず息を呑む。
近い。
今までとは比べものにならないほど近くで、"声"が響いていた。
『救済を』
『導きを』
『苦しみを消して』
耳ではない。
頭の奥へ直接流れ込んでくる。
視界がわずかに揺れた。
その瞬間だった。
ふらついた身体を、誰かが支える。
「無理するな」
低い声がすぐ近くで響く。
アロイスだった。
腕をそっと支えられたことで、辛うじて踏みとどまる。
ミレイユは小さく首を振った。
「……大丈夫です」
その返事に、アロイスは間を置かなかった。
「嘘をつくな」
短く、はっきりと言い切る。
ミレイユは思わず息を呑んだ。
言い返せない。
自分でも、決して大丈夫ではないことくらい分かっていた。
アロイスは腕を離さない。
まるで、少しでも手を放せば彼女がどこかへ引きずられてしまうと知っているかのようだった。
その温もりだけが、不思議と現実へ繋ぎ止めてくれる。
やがて神官が石扉へ手をかざした。
刻まれた聖印が淡く輝き始める。
重い音を立てながら扉がゆっくりと開き、ひやりとした空気が流れ出てきた。
その先にあったのは、地下深くへ続く長い階段だった。
あまりにも深い。
底が見えない。
壁一面には古代帝国式の紋様がびっしりと刻まれ、淡い光を帯びながら静かに脈動している。
エドガーの足が止まった。
「……ここまで残っていましたか」
珍しく感情の滲む声だった。
壁へ指先を滑らせる。
刻印は一つひとつ独立しているように見えながら、すべてが導線のように繋がっている。
そのまま都市全体へ張り巡らされていることが、一目で分かった。
「やはり地下だけではありませんね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「街路も、神殿も、祈祷区画も……」
静かに視線を巡らせる。
「聖都そのものが、一つの巨大な術式になっています」
ライナーが顔をしかめた。
「街全部が回路ってことかよ……」
「ええ」
エドガーは小さく頷く。
「人々の祈りを集め、増幅し、一か所へ流すための構造です」
その言葉に、誰も口を開かなかった。
これほどの規模を持つ装置は、北方には存在しなかった。
ヴァルターだけが興味深そうに周囲を見回している。
「宗教と精神干渉の融合、ですか」
感心したように呟く。
「ここまで完成度の高いものになるとは」
穏やかな口調とは裏腹に、その目は冷静に周囲を分析していた。
一行はさらに階段を下り始める。
一段、下りるたびに"声"は濃くなっていった。
『助けて』
『苦しい』
『許して』
『神よ』
知らない誰かの願いが、次々と頭の奥へ流れ込んでくる。
何百。
何千。
数え切れないほどの祈りが折り重なり、境界を曖昧にしていく。
「……っ」
ミレイユの足が止まる。
呼吸が乱れ、膝から力が抜けそうになる。
その身体をアロイスがすぐ支えた。
今度は肩を抱くように。
完全に自分の側へ引き寄せる。
「見るな」
低い声だった。
「聞くな」
命令に近い口調。
ミレイユは苦しそうに首を振る。
「……無理です」
声が震える。
「全部……流れてきます」
アロイスの眉間に深い皺が刻まれる。
彼はミレイユをさらに自分の方へ引き寄せた。
少しでも"声"から遠ざけようとするように。
ライナーはその様子を見ながら、苦々しく息を吐く。
「……マジでやべぇな」
誰へ向けた言葉でもなかった。
戦場で幾度も死線を潜り抜けてきた男の勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。
やがて長い階段は、一つの広間へと繋がる。
そこで、一行は思わず足を止めた。
広い空間いっぱいに、白い法衣をまとった神官たちが静かに跪いていたのである。
誰一人として顔を上げない。
ただ祈り続けている。
その呼吸も。
詠唱も。
鼓動さえも。
奇妙なほど、ぴたりと揃っていた。
広間を埋め尽くす神官たちは、誰一人として顔を上げようとはしなかった。
白い法衣をまとい、静かに跪いたまま祈り続けている。
その光景は厳かで、美しい。
本来なら、そう感じるはずだった。
けれど。
呼吸が揃っている。
祈りの調子も。
身体の揺れも。
まばたきさえも。
まるで一人の人間を何百人にも写し取ったかのように、すべてが同じだった。
ミレイユの背筋を冷たいものが走る。
(……繋がっている)
薄く。
けれど確かに。
彼らの意識は、一つの場所へ集められていた。
「……っ」
頭の奥へ流れ込んでくる。
『楽になった』
『苦しくない』
『赦された』
『もう怖くない』
そこにあるのは幸福だった。
偽りではない。
心から救われたと信じている者たちの感情が、そのまま伝わってくる。
だからこそ、恐ろしい。
もし本当に苦しみが消えるのなら。
争いがなくなるのなら。
それは本当に間違いなのだろうか――
そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎった。
その時だった。
跪いていた神官たちが、一斉に微笑んだ。
ぴたりと。
まったく同じ角度で。
同じ速さで。
同じ表情で。
ミレイユの呼吸が止まる。
違う。
これは違う。
救われた人の笑顔ではない。
空っぽだ。
意思がない。
その瞬間、肩へ温かな重みが伝わった。
アロイスの手だった。
「飲まれるな」
低い声が耳へ届く。
その一言だけで、揺らぎかけた意識が現実へ引き戻される。
ミレイユは小さく息を吸った。
「……はい」
かすれた返事を聞き、アロイスは何も言わず前を向く。
そのまま一行は、さらに地下深くへ歩みを進めた。
階段を下りるたび、頭上から響く聖歌は大きくなっていく。
街中で祈る人々の歌声が、石壁を震わせながら地下まで届いていた。
何千人という声が重なっているはずなのに、不思議なほど乱れがない。
一つの旋律。
一つの呼吸。
まるで聖都そのものが歌っているようだった。
ライナーが小さく顔をしかめる。
「……気持ち悪ぃ」
その呟きへ、エドガーが静かに頷く。
「都市規模で同期しています」
低い声だった。
「住民全員が、この術式の一部になっているのでしょう」
ミレイユの呼吸がまた浅くなる。
自分と外との境界が、ゆっくり溶け始めていく。
自分が誰なのか。
どこまでが自分で、どこからが他人なのか。
その輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
その時だった。
ぐっと手を握られる。
アロイスだった。
力強く、決して離さないという意思を込めるように。
前を向いたまま、低く言う。
「お前は、お前だ」
短い言葉だった。
けれど、その一言が楔のように胸へ打ち込まれる。
溶けかけていた境界が、ゆっくりと輪郭を取り戻した。
ミレイユは小さく息を呑む。
「……近い」
震える声で呟く。
「法王猊下の近くに……核があります」
目を閉じる。
鼓動が聞こえる。
どくん。
どくん。
「地下の"声"と繋がっています」
ヴァルターが静かに目を細めた。
「やはり媒体保持者ですか」
穏やかな口調で続ける。
「法王猊下は石板を介して装置を制御しているのでしょう」
エドガーも小さく頷いた。
「現在の法王では、制御限界が近いのかもしれません」
刻印へ視線を向けたまま言う。
「だから、より高い適性を持つ感応者が必要になる」
ライナーの表情が険しくなる。
「つまりミレイユを使う気か」
「ええ」
ヴァルターは静かに答えた。
「神の器として」
その言葉を聞いた瞬間だった。
アロイスの手へ、わずかに力がこもる。
「……好きにさせるか」
誰へ聞かせるでもない。
低く押し殺した声だった。
やがて階段は終わりを迎える。
その先に広がっていた光景を見て、一行は言葉を失った。
巨大な地下神殿。
円形の空間を囲むように白い柱が天井まで伸び、その床一面には古代帝国式の紋様が幾重にも描かれている。
そのすべてが淡い蒼光を放ち、静かに脈打っていた。
そして。
中央。
そこには、一つの巨大な装置が鎮座していた。
白銀の環が幾重にも重なり、その中心では蒼い光がゆっくりと明滅している。
どくん。
どくん。
まるで生き物の鼓動だった。
北方の装置とは比較にならない。
圧倒的な存在感。
その瞬間、ミレイユの膝が大きく震えた。
「……っ」
今までで最も強い"声"が押し寄せる。
祈り。
願い。
幸福。
絶望。
何万という人々の感情が、一度に流れ込んでくる。
境界が軋む。
意識が引きずられる。
その装置の前には、一人の老人が静かに立っていた。
法王。
白金の法衣をまとい、その両手には一枚の石板が抱えられている。
淡く輝く石板は、装置の鼓動と完全に呼応していた。
法王は穏やかに微笑む。
「ようやく、器が現れました」
歓喜を滲ませた声だった。
石板が強く光る。
それに応えるように、地下神殿全体の紋様が一斉に輝き始めた。
法王は愛おしそうに石板を見つめる。
「多くの民は救われました」
静かな声が地下へ響く。
「苦しみは和らぎ、争いは減り、人々は互いを赦し始めた」
その言葉に嘘はない。
だからこそ恐ろしい。
法王はゆっくりとミレイユへ視線を向けた。
「ですが、まだ足りません」
一歩、近づく。
「この装置は、より深い器を必要としているのです」
石板の輝きがさらに強まる。
同時に、巨大な装置が大きく脈打った。
どくん――。
ミレイユの身体が震える。
法王は静かに手を差し伸べた。
「貴女なら、この国すべての祈りを受け止められる」
その笑みは慈愛に満ちている。
「誰も苦しまない世界を創れるのです」
本気だった。
心から信じている。
だからこそ、何よりも恐ろしい。
ミレイユの視界が揺らぐ。
全部、委ねてしまえばいい。
そうすれば苦しくない。
そう囁くように、無数の祈りが包み込んでくる。
その瞬間だった。
ぐっと身体が引き寄せられる。
アロイスだった。
力強く抱き寄せ、その耳元で静かに告げる。
「戻れ」
低く。
はっきりと。
「お前は道具じゃない」
その一言が、暗闇へ射し込む一筋の光のようにミレイユの胸へ届く。
続けて、もう一度。
「飲まれるな」
そして最後に。
「お前は、お前だ」
その声だけが、崩れかけたミレイユの境界を、かろうじて現実へ繋ぎ止めていた。




