第26話:御声の降る夜
法王との謁見を終えた頃には、聖都はすっかり夕暮れに染まっていた。
白い街並みが淡い金色を帯び、その向こうでは鐘の音が何度も響いている。
静かで、美しい景色。
けれど、一行の足取りは重かった。
神聖国側が用意した客室へ戻るまで、誰一人として口を開かない。
大神殿で見聞きしたものを、それぞれが胸の内で整理していた。
やがて客室へ入り、重い扉が静かに閉まる。
その音が響いた直後だった。
「……最悪だ」
低く漏れた声に、全員の視線が集まる。
アロイスだった。
普段は感情を表へ出さない男が、珍しく隠そうともしない。
それだけ、状況を深刻に見ている証だった。
ミレイユはソファへ腰を下ろしていた。
法王との謁見を終えてからというもの、絶え間なく頭の奥へ祈りの声が流れ込んでくる。
遠く。
微かに。
けれど確かに。
『救済を』
『御声を』
耳ではない。
もっと深い場所へ直接響いてくる。
ミレイユは小さく息を整えた。
「……大丈夫です」
そう答えた瞬間だった。
「大丈夫に見えない」
間髪入れず、アロイスが返す。
一切迷いのない声音だった。
ミレイユは言葉に詰まる。
否定したかった。
だが、自分でも顔色が悪いことは分かっていた。
少し離れた席では、ヴァルターが優雅に紅茶を口へ運んでいる。
「いやぁ……」
穏やかな笑みを浮かべたまま、小さく肩をすくめた。
「思った以上でしたねぇ」
アロイスが鋭い視線を向ける。
ヴァルターは気にした様子もなく続けた。
「法王猊下、本気ですよ」
その笑顔とは裏腹に、目だけは冷えていた。
「本気で、あれが"救済"だと信じておられる」
一拍置いて、小さく息を吐く。
「だから厄介なんです」
悪意ではない。
善意だから止められない。
その一言だけで、部屋の空気がさらに重くなった。
その時だった。
勢いよく扉が開く。
「おい!」
ライナーが飛び込んできた。
その後ろからエドガーも静かに部屋へ入る。
二人とも、普段とは違う険しい表情をしていた。
ライナーは椅子へ腰を下ろすなり口を開く。
「この国、やべぇぞ」
短い一言だった。
だが、その声に冗談は一切混じっていない。
アロイスが静かに問い返す。
「何があった」
ライナーは腕を組み、少し考えるように眉を寄せた。
「街の奴ら、みんな笑ってんだ」
「けど、なんつーか……空っぽなんだよ」
その言葉に、ミレイユの肩がわずかに震える。
ライナーは続けた。
「しかも今夜"御声"が降るとか言っててさ」
「街中の奴らが、それを楽しみにしてやがる」
笑顔で。
嬉しそうに。
まるで祭りを待つ子どものように。
「正直、気味が悪かった」
普段のライナーなら、もっと軽く話す。
それができないほど異様だったのだ。
その横で、エドガーが一枚の地図を机へ広げた。
「私も地下を確認してきました」
淡々とした口調のまま、指先で地下区画を示す。
「古代帝国式の刻印を複数確認しています」
一本一本の導線が街全体へ伸びていた。
神殿。
巡礼路。
祈祷区画。
それぞれが複雑に繋がり、一つの巨大な術式を構成している。
「地下だけではありません」
静かな声が続く。
「街路も、建物の配置も、祈りの導線まで含めて設計されています」
部屋が静まり返る。
エドガーは地図を見つめたまま言った。
「聖都そのものが、巨大な増幅構造です」
誰も口を開かない。
その意味を理解してしまったからだ。
住民の祈り。
巡礼者の願い。
神殿へ集まる信仰。
そのすべてが、一か所へ流れ込むよう設計されている。
「地下深部には封鎖区画があります」
エドガーは地図の一角を指した。
「法王庁からしか入れません」
ヴァルターの目が細くなる。
「なるほど」
静かに呟く。
「法王猊下だけ、少し違いましたからねぇ」
アロイスが視線を向ける。
ヴァルターは紅茶のカップを静かに置いた。
「神官たちは、完全に"御声"へ飲まれていました」
「ですが法王は違う」
その場にいた全員が、自然と耳を傾ける。
「理解した上で利用している」
穏やかな声だった。
だが、その分析は鋭い。
「おそらく石板を保持しているのでしょう」
部屋の空気が、さらに冷えた。
エドガーも静かに頷く。
「私も同意見です」
「地下構造との接続役が必要になります」
「その役割を担える人物は、おそらく一人しかいません」
ライナーが顔をしかめる。
「つまり法王が元凶ってことか」
「いえ」
ヴァルターは即座に首を横へ振った。
「本人は、本気で人を救っているつもりですよ」
だからこそ厄介なのだ。
誰も、その言葉を否定できなかった。
重苦しい沈黙の中、ミレイユは膝の上でそっと指先を握り締めた。
法王の前に立った瞬間から、頭の奥へ流れ込む"声"は一度も途切れていない。
遠く。
けれど、確かに近づいている。
『救済を』
『御声を』
『導きを』
幾重にも重なる祈りの奥で、それとは別の何かが静かに脈打っていた。
まるで心臓の鼓動のように。
どくん。
どくん。
一定の間隔で響く振動が、胸の奥まで伝わってくる。
ミレイユはゆっくりと目を閉じた。
耳を塞いでも意味はない。
聞こえているのは音ではなく、精神そのものへ直接届く"呼びかけ"だった。
「……近かったんです」
かすれた声が静かな部屋に落ちる。
全員の視線が集まった。
「法王猊下の近くへ行った時だけ、急に"声"が強くなりました」
呼吸が浅い。
言葉を紡ぐたびに、頭の奥が鈍く痛む。
「何か別のものが……脈打っているような感じがして……」
小さく額へ手を当てる。
「あれは、人じゃありません」
その一言で、部屋の空気がさらに張り詰めた。
ヴァルターが静かに目を細める。
「やはり」
穏やかな声だった。
だが、それは確信へ変わった声音でもあった。
「石板でしょうね」
ミレイユは小さく頷く。
「もっと下です」
震える声で続ける。
「大神殿より、さらに地下……」
どくん。
どくん。
鼓動が強くなる。
『来て』
微かな囁きが、頭の奥へ直接響いた。
ミレイユの肩が大きく震える。
「……っ」
アロイスがすぐ隣まで歩み寄った。
「ミレイユ」
低く呼ぶ。
その声だけが、不思議なくらいはっきり聞こえた。
ミレイユは苦しそうに息をつく。
「近づいてきます……」
小さく首を振る。
「違います」
また鼓動が鳴る。
どくん。
「私が……引っ張られてるんです」
その瞬間だった。
アロイスの目が鋭く細められる。
「今夜動く」
低い声だった。
迷いは一切ない。
決定事項として告げられた言葉だった。
ヴァルターが窓の外へ目を向ける。
「でしょうねぇ」
穏やかに笑う。
「向こうも、最初からそのつもりだったのでしょう」
アロイスが視線を向ける。
「どういう意味だ」
「法王猊下ですよ」
ヴァルターは白い街並みを眺めたまま答えた。
「あの方は、ミレイユ嬢を大神殿へ呼んだ、つまり装置へ近づけたかった」
エドガーも腕を組む。
「適合を確認したのでしょう」
「そして今夜が"御声の儀"」
静かに続ける。
「偶然とは思えません」
鐘の音が響いた。
ゴォン――
長く。
深く。
その余韻が聖都全体へ広がっていく。
次の瞬間だった。
窓の外を歩いていた人々が、一斉に立ち止まる。
誰一人遅れることなく。
まるで見えない合図でもあったかのように。
ライナーが窓へ駆け寄った。
「……おい」
思わず声が漏れる。
街のあちこちで、人々がゆっくりと跪いていく。
巡礼者も。
商人も。
子どもを連れた母親も。
全員が。
同じ動きで。
同じ速さで。
静かに両手を組み、祈り始めた。
誰も命令していない。
それなのに、呼吸まで揃っている。
ライナーが顔を引きつらせた。
「……うわ」
戦場で幾度も死線を越えてきた男の、本音だった。
「気味悪ぃ……」
白い灯火が、街中で一つ、また一つと灯っていく。
遠くから聖歌が流れ始めた。
穏やかな旋律。
優しい歌声。
なのに、どこか寒気がする。
エドガーが窓の外を見つめたまま呟く。
「始まりましたね」
その声と同時に、ミレイユの身体が小さく震えた。
「……っ」
頭の奥へ流れ込む祈りが、一気に膨れ上がる。
『救済を』
『御声を』
『導きを』
無数の願い。
無数の祈り。
そして、そのさらに奥。
どくん。
どくん。
巨大な鼓動が、今までになく鮮明に響いた。
『来て』
今度は、はっきりと聞こえた。
呼ばれている。
ミレイユは小さく息を呑む。
「……呼ばれてる」
掠れた声だった。
アロイスは即座に首を振る。
「行かせない」
反射のような返答だった。
ミレイユがゆっくり顔を上げる。
「でも……」
苦しそうに唇を噛む。
「私が行かないと、止められません」
「駄目だ」
即答だった。
「危険すぎる」
その言葉へ重ねるように、ヴァルターが静かに口を開く。
「ですが、もう始まっていますよ」
アロイスの視線が鋭く向く。
ヴァルターは穏やかな笑みを崩さなかった。
「装置側が、ミレイユ嬢を認識しました」
部屋が静まり返る。
「放っておいても、いずれ向こうから引き寄せられるでしょう」
最悪の一言だった。
アロイスの表情が、これまでになく険しくなる。
その時だった。
コンコン――
静かなノックが響く。
全員の空気が一瞬で張り詰める。
アロイスが扉の前へ立った。
「誰だ」
短く問う。
扉の向こうから、穏やかな男の声が返ってくる。
「法王猊下より、お迎えに参りました」
沈黙。
「皆様を"御声の儀"へご案内いたします」
部屋の誰も動かない。
ヴァルターだけが小さく笑った。
「……ほら、来ました」
その笑みとは対照的に、目はまったく笑っていなかった。
ミレイユの背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がる。
扉の向こうでは、幾重にも重なる祈りの声が、まるで歓迎するように静かに響き続けていた。




