第24話:白き祈りの都
聖都は、美しかった。
白い石で築かれた街並みは陽光を受けて淡く輝き、高く伸びる尖塔は青空へ溶け込むようにそびえている。
街のあちこちを清らかな水路が流れ、窓辺には色とりどりの花が咲き誇っていた。
遠くからは、絶え間なく鐘の音が響いてくる。
穏やかで、静かで、どこまでも神聖な都。
帝都とはまるで違う空気だった。
人々は柔らかな笑みを浮かべ、道ですれ違えば互いに軽く頭を下げ、祈りの言葉を交わす。
その所作は自然で、美しい。
けれど――。
「……」
アロイスは無言のまま周囲へ視線を巡らせた。
美しすぎる。
それが第一印象だった。
使節団が街を進むたび、人々は騒ぎ立てることも押し寄せることもなく、まるで示し合わせたように静かに道を譲っていく。
誰一人として乱さない。
誰一人として逆らわない。
ただ静かに、同じような笑みを浮かべて見送っている。
その視線だけが、一人へ集まっていた。
ミレイユ。
「あの方が……」
「聖女候補……」
「神託に選ばれし御方……」
熱を帯びた囁きが、風に乗って耳へ届く。
崇拝。
憧れ。
期待。
そして、言葉にならないほど強い信仰。
ミレイユは小さく息を詰めた。
向けられる視線に敵意はない。
それなのに、重い。
心の奥へ触れられているような、不快な感覚が胸をざわつかせる。
その瞬間、アロイスが半歩だけ前へ出た。
何も言わない。
ただ自然に、ミレイユを人々の視線から隠すような位置へ立つ。
巡礼者たちは何事もなかったように視線を逸らした。
アロイスは表情一つ変えない。
だが、その眼差しは街へ入った時よりも明らかに鋭くなっていた。
やがて一行は、神聖国の中心である大神殿へ案内された。
白亜の大理石で築かれた壮麗な建物は、遠目に見た以上の威容を誇っている。
幾本もの巨大な円柱が天を支え、色硝子から差し込む光が床へ幻想的な模様を描いていた。
高い天井へ、聖歌隊の歌声が静かに溶けていく。
神官たちは整然と並び、一斉に一礼した。
白い法衣。
乱れのない所作。
揃いすぎた呼吸。
まるで、一つの生き物が動いているようだった。
ミレイユの胸が、小さくざわめく。
(……近い)
何が、とは言えない。
けれど、北方遺跡で感じたものとよく似た圧力が、この大神殿の奥深くから静かに滲み出ている。
「こちらへ」
案内役の若い神官が穏やかな笑みを浮かべる。
柔らかな声。
丁寧な物腰。
非の打ちどころがない。
それでも、その笑顔にはどこか温度がなかった。
ヴァルターがさりげなく神官を見遣る。
「随分と統率が取れておりますね」
外交官らしい穏やかな口調だった。
神官は微笑みを崩さない。
「神への祈りは、人を一つにしますので」
美しい言葉だった。
誰もが納得しそうな答え。
だが、ヴァルターは小さく目を細めるだけだった。
「……なるほど」
それ以上は何も言わない。
だが、その笑みの奥では何かを測るように神殿全体を観察していた。
*
その頃。
大神殿の地下。
エドガーは灯り石を片手に、石造りの通路をゆっくり歩いていた。
同行しているのは神聖騎士団の騎士が一人。
名目は、帝国使節団による地下設備の視察。
もちろん、それは建前だった。
実際の目的は、この地下に古代帝国の痕跡が残されていないか確かめることにある。
地下へ降りるにつれ、空気はひんやりと湿り気を帯びていく。
壁へ手を添えたエドガーは、静かに足を止めた。
冷たい石。
古い補強跡。
そして、その隙間へ溶け込むように刻まれた細い紋様。
「……これは」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
古代帝国式。
北方遺跡で見た刻印とよく似ている。
だが、こちらはさらに緻密だった。
一本一本の線が規則正しく繋がり、まるで血管のように地下へ伸びている。
エドガーは静かに息を吐いた。
(構造そのものが生きていますね)
壁だけではない。
床も。
柱も。
天井も。
刻印は地下全体を覆い尽くし、巨大な回路を形作っていた。
ここは単なる地下施設ではない。
都市そのものを支える、巨大な干渉基盤。
そんな考えが頭をよぎる。
「何か問題でも?」
神聖騎士が振り返った。
エドガーは一瞬で表情を切り替え、柔らかな笑みを浮かべる。
「いえ」
肩をすくめながら答えた。
「帝国とはずいぶん建築様式が違うものですから、少し興味を引かれまして」
神聖騎士は納得したように頷き、再び歩き始める。
その背を追いながら、エドガーはもう一度壁へ視線を走らせた。
(……想像以上ですね)
その時だった。
微かに、祈りの声が聞こえてきた。
地下ではない。
頭上――大神殿の方角からだ。
一人ではない。
何十人。
いや、それ以上。
静かな祈り。
けれど、その声はあまりにも揃いすぎていた。
呼吸も。
抑揚も。
言葉を重ねる間さえ、一分の狂いもない。
まるで、無数の人間が一つの意思を共有しているかのようだった。
エドガーは足を止め、ゆっくりと天井を見上げる。
石造りの天井の向こうでは、今も誰かが祈りを捧げ続けている。
その祈りは、石を伝い、刻印を伝い、この地下全体へ染み込んでくるようだった。
エドガーの口元から、いつもの笑みが静かに消える。
(……気持ち悪いですね)
思わず、本音が漏れた。
その祈りは、石を伝い、刻印を伝い、この地下全体へ染み込んでくるようだった。
*
その頃。
ライナーは、聖都の一角にある酒場へ入り込んでいた。
昼間から賑わう店内は、大神殿の厳かな空気とはまるで別世界だった。
木の卓には酒樽が並び、豪快な笑い声が飛び交う。
旅人や商人、巡礼者たちが肩を寄せ合い、杯を交わしている。
そんな中へ、ライナーはいつの間にか自然と溶け込んでいた。
「いやぁ、神聖国の酒もうまいな!」
豪快に笑いながら杯を掲げると、周囲の男たちも上機嫌で応じる。
「だろう!」
「帝国の酒より柔らけぇ味がする」
「毎日飲めるぞ」
「そりゃいい!」
すっかり打ち解けた空気の中で、ライナーはさりげなく話題を探っていく。
すると、一人の巡礼者が恍惚とした笑みを浮かべながら呟いた。
「最近は"御声"がすごいんだ」
その言葉に、周囲の者たちも一斉に頷く。
「分かる……」
「頭の中が真っ白になる」
「全部、神様へ預けられる気がする」
「苦しいことなんて、何も考えなくてよくなる」
誰もが幸福そうだった。
あまりにも幸福そうだった。
ライナーは笑顔を崩さず杯を口へ運ぶ。
「へぇ。そんなにすげぇのか?」
「お前、まだ聞いてねぇのか!」
「人生変わるぞ」
「神が触れてくださるんだ」
熱っぽい声が次々と重なる。
その表情は似ていた。
笑い方も。
目の輝きも。
言葉まで。
(……なんか変だな)
ライナーは内心だけで眉をひそめる。
酒に酔っている者の顔ではない。
皆、同じ夢を見ているようだった。
その時だった。
酒場の奥にいた神官が、静かに立ち上がる。
店内の空気が一瞬で変わった。
誰もが口を閉じ、自然と神官へ視線を向ける。
神官は柔らかな笑みを浮かべたまま告げる。
「本日夕刻、大神殿にて"御声"が降ります」
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、酒場は熱気に包まれた。
「おお……!」
「今日だったか……!」
「ありがたい……!」
誰もが胸の前で手を組み、喜びに震えている。
その姿を眺めながら、ライナーだけが静かに杯を置いた。
(……やべぇな、これ)
理屈ではない。
「戦闘狂」の二つ名で呼ばれてきた彼には分かる。
この熱狂は、普通ではない。
*
同じ頃。
大神殿では、聖女判定の儀が始まろうとしていた。
白い大理石の床。
天井近くまで伸びる円柱。
無数の燭台に灯る炎が、静かな光を揺らしている。
その中央に刻まれた巨大な聖印の前へ、ミレイユはゆっくりと歩み出た。
周囲を囲む神官たちが、一斉に祈りを捧げ始める。
穏やかな声。
静かな旋律。
本来なら心を落ち着かせるはずの祈りだった。
けれど。
(……違う)
ミレイユの胸がざわつく。
揃いすぎている。
呼吸も。
抑揚も。
祈りを区切る間さえ、寸分違わない。
それは合唱ではない。
一つの意思が、何十人もの口を借りて語っているようだった。
やがて祈りは幾重にも重なり始める。
その瞬間だった。
――ざわり。
頭の奥へ、無数の声が流れ込んできた。
『苦しい』
『救って』
『神よ』
『赦してください』
『導いて』
『どうか』
祈り。
願い。
懺悔。
救済を求める心。
あまりにも膨大な感情が、一度に押し寄せる。
「……っ」
ミレイユの呼吸が乱れた。
指先が震える。
境界が揺らぐ。
北方遺跡で感じた圧力とは違う。
こちらは痛みではない。
甘く。
優しく。
すべてを受け入れてくれるような温もりだった。
だからこそ危険だった。
苦しまなくていい。
考えなくていい。
すべてを委ねれば楽になれる。
そんな甘い誘惑が、心の隙間へ静かに入り込んでくる。
(……嫌)
本能が警鐘を鳴らす。
委ねてはいけない。
沈んではいけない。
その時だった。
神官たちが、一斉に顔を上げる。
ぴたり、と。
まるで示し合わせたように。
全員の視線がミレイユへ注がれた。
穏やかな笑み。
幸福そうな表情。
その瞳だけが、空っぽだった。
ぞくり、と背筋を悪寒が走る。
次の瞬間。
中央の巨大な聖印が、淡い光を放ち始めた。
最初は小さく。
やがて眩いほどに。
神官たちの間へざわめきが広がる。
「……これは」
「まさか……」
「これほどの適合率とは……」
先ほどまでの厳かな空気が変わる。
その目に宿ったのは、敬意ではない。
期待でもない。
もっと強い何か。
欲望にも似た熱だった。
(……違う)
ミレイユは思わず一歩退こうとする。
だが足が動かない。
祈りが絡みつく。
意識が沈みそうになる。
その瞬間、アロイスが静かに一歩前へ出た。
自然な動作だった。
しかし、その一歩で神官たちとミレイユの間へ立ち塞がる。
空気が張り詰める。
案内役の神官が穏やかな笑みを崩さぬまま口を開いた。
「おや。随分と警戒なさる」
アロイスは表情一つ変えない。
「職務だ」
短い一言。
それだけだった。
けれど、その低い声は不思議なほどはっきりとミレイユの耳へ届く。
揺らいでいた意識が、少しだけ現実へ引き戻された。
ゆっくりと呼吸を整えながら顔を上げる。
神官たちの視線は、もう完全に変わっていた。
"聖女候補"を見る目ではない。
もっと別の何か。
希少な宝を見つけた者のような、熱を孕んだ眼差し。
その光景を少し離れた場所から見つめるヴァルターは、静かに口元を緩めた。
笑っている。
だが、その目だけはどこまでも冷たい。
(……やはり、ありますね)
確信していた。
この国のどこかに。
人々の祈りを集め、心を一つへ束ねる〝装置〟が眠っている。
そして、その鼓動はもう、確かに動き始めていた。
「……お待ちください」
不意に、神官の一人が声を上げた。
先ほどまで儀式を取り仕切っていた年嵩の神官だった。
表情こそ平静を保っているものの、その声にはわずかな硬さがある。
周囲の神官たちも、淡く輝き続ける聖印とミレイユを交互に見つめていた。
「この結果は、我々だけで判断できるものではありません」
そう告げると、神官は近くに控えていた者へ何事かを囁く。
若い神官が一礼し、足早に広間を去っていった。
ミレイユは困惑したまま、その背を見送る。
「……何か、問題があったのでしょうか」
問いかけると、年嵩の神官は一転して柔らかな笑みを浮かべた。
「いいえ」
むしろ、と続ける。
「これほど明確な徴が現れた例を、我々は知りません」
その言葉に、ミレイユの胸がざわついた。
神に祝福されているようには感じられなかった。
少しして、先ほどの神官が戻ってくる。
歩みは静かだった。
だが、その顔には隠しきれない高揚が浮かんでいる。
「法王猊下がお会いになります」
広間の空気が変わった。
神官たちが一斉に頭を垂れる。
ミレイユは思わず目を瞬いた。
「……法王様が?」
「はい」
年嵩の神官が微笑む。
「直接、貴女とお話しになりたいとのことです」
ヴァルターが穏やかな口調で尋ねた。
「謁見の間へ?」
すると、神官は静かに首を横へ振った。
「いいえ、〝神の間〟へご案内いたします」
ヴァルターの目が、わずかに細くなった。
聞き慣れない名だった。
「神の間、ですか」
「大神殿の最奥にございます」
神官はそう答え、わずかに誇らしげな表情を見せる。
「本来、法王猊下と、許しを受けたごく一部の上位司祭のみが立ち入ることを許された場所です」
ミレイユが息を呑む。
「では、私は……」
「聖女は、神と人とを繋ぐ器」
神官は迷いなく答えた。
「故に、貴女が足を踏み入れることに何の問題もございません」
あまりにも当然のような口調だった。
その言葉に、ミレイユは返事を失う。
自分で聖女だと認めた覚えすらない。
それなのに彼らの中では、もう決定事項になっている。
「彼女一人で行かせるつもりか」
低い声が響いた。
アロイスだった。
神官が彼へ視線を向ける。
「神の間は、本来ならば部外者の立ち入りを――」
「なら、謁見は断る」
即答だった。
場が静まり返る。
神官がわずかに目を見開いた。
アロイスは一歩も引かない。
「ミレイユは帝国使節団の一員だ。身柄の安全についてはこちらが責任を負っている」
声は静かだった。
だが、交渉の余地など最初から存在しないことだけは明白だった。
「彼女だけを、こちらの目の届かない場所へ連れて行かせるつもりはない」
ヴァルターは止めなかった。
むしろ穏やかな笑みを浮かべたまま、神官の返答を待っている。
「……確認いたします」
神官はそう答え、再び人を走らせた。
ほどなくして許可は下りた。
法王猊下の意向により、帝国側からは最小限の同行者を認める――と。
アロイス。
ヴァルター。
そしてミレイユ。
神官は静かに広間の奥へ手を差し向けた。
「では、こちらへ」
その先には、大神殿のさらに奥へ続く白い回廊が伸びている。
人の気配はない。
祈りの声すら、遠ざかっていく。
ミレイユはその先を見つめ、小さく息を呑んだ。
大神殿へ足を踏み入れた時から感じていた圧力が。
一歩進むごとに、強くなっていた。




