第23話:聖都への道
昼下がりの皇宮は、穏やかな陽光に包まれていた。
窓から差し込む光は柔らかく、庭園では秋薔薇が静かに揺れている。
そんな静かな景色とは裏腹に、第二皇子の私室には妙な緊張感が漂っていた。
机の上へ並べられた数枚の報告書。
どれも神聖国からもたらされたものだ。
巡礼者の集団失神。
各地で相次ぐ神託騒ぎ。
大神殿の聖印が光を放ったという報告。
一つ一つだけを見れば決め手に欠ける。
だが、それらを並べると、一つの共通点が浮かび上がっていた。
第二皇子は最後の書類を閉じると、机へ放り出すように置いた。
「……で」
軽い調子で口を開く。
「装置っぽい」
国家の重大案件とは思えないほど気楽な一言だった。
しかし、その目だけは少しも笑っていない。
向かいに立つヴァルターは、小さく肩を揺らした。
「でしょうねぇ」
否定はしない。
むしろ最初から同じ結論に達していたのだろう。
第二皇子は椅子へ深く腰掛け、頬杖をつく。
「だから、ちょっと行ってきてくれよ」
相変わらず雑だった。
外交問題になりかねない案件を、人に茶でも頼むような口調で言う。
ヴァルターは苦笑しながらも、丁寧に一礼した。
「承知いたしました」
「今回はちゃんと正式に行け」
第二皇子が指をひらひら振る。
「北で好き勝手やった分、兄上が今すごく機嫌悪いから」
少し楽しそうだった。
ヴァルターは肩をすくめる。
「その件につきましては、私ではなくアロイス卿では」
「お前もだよ」
間髪入れず返ってくる。
ヴァルターは笑った。
穏やかな笑みだった。
けれど、その瞳だけは冷静に盤面を見つめている。
「失礼ですね」
「失礼じゃない」
第二皇子は気にした様子もなく続けた。
「あと」
一拍置く。
「”お姫様”も連れて行け」
名前は出さない。
それでも意図は十分伝わる。
ヴァルターの目がわずかに細められた。
「……聖女判定、ですか」
「建前としては便利だろ」
軽い声だった。
「神聖国も飛びつく」
その口元に笑みが浮かぶ。
「向こうから扉を開けてくれる」
外交とは、時に正論よりも名目が重要になる。
聖女候補。
その肩書きならば、神聖国も無下には扱えない。
ヴァルターは静かに頷いた。
第二皇子は最後に小さく笑う。
「面白くなるぞ」
その一言だけで十分だった。
彼はすでに、この一手が盤面全体へどう影響するかまで見通している。
*
その頃。
皇宮の別室では、第一皇子が盛大に眉間へ皺を寄せていた。
机の上には帝国印が押された正式文書が積み重なっている。
神聖国宛の外交書簡。
訪問許可。
使節団名簿。
通行証。
どれも手続きを一つでも誤れば国際問題になりかねない書類ばかりだった。
室内にはアロイス、ヴァルター、ライナー、エドガーが並んでいる。
第一皇子は一人一人を見回した。
最後に視線がアロイスで止まる。
「北方では、結果だけを見れば成功だった」
静かな声だった。
責める響きはない。
事実だけを述べている。
「だが、成功と代償は別の話だ」
部屋の空気が静かに引き締まる。
アロイスは何も言わず、その言葉を受け止めていた。
第一皇子は続ける。
「次は国家間問題だ」
低い声。
「北方とは違う」
視線が四人を順に巡る。
「正式な使節として赴く以上、一つの失言、一つの独断が帝国全体へ返ってくる」
誰も口を挟まない。
「神聖国との関係を崩せば、無傷では済まん」
その重みは全員理解していた。
アロイスが一礼する。
「承知しております」
短い返答だった。
第一皇子は、今度はヴァルターを見る。
「お前もだ」
ヴァルターは柔らかく微笑んだ。
「もちろんですとも」
その笑顔を見た第一皇子の眉間は、むしろ深くなる。
信用していない。
完全に。
その様子を見ていたライナーが、こっそりエドガーへ囁く。
「めちゃくちゃ警戒されてんな」
「当然でしょう」
エドガーは即答した。
「問題児が三人もいますから」
「お前、自分で数に入れるのかよ」
「客観視は大事ですよ」
平然と言い切る。
ライナーは肩を竦め、今度はアロイスを見る。
「で、一番やべぇのが無自覚」
アロイスが眉を寄せた。
「何の話だ」
「ほらな」
ライナーが肩を叩く。
第一皇子は深く息を吐いた。
本気で疲れている。
この四人を同時に国外へ送り出す責任者の苦労は計り知れない。
しばらく黙っていた第一皇子は、最後に静かに口を開いた。
「……ミレイユ嬢には、無理をさせるな」
一瞬だけ空気が変わる。
アロイスの目がわずかに動いた。
ヴァルターはその変化を見逃さず、小さく目を細める。
第一皇子は続けた。
「北方では、彼女がいなければ止められなかった」
事実である。
「だからこそ、次も頼ることになる」
その声には、指揮官としての現実があった。
「だが」
視線は真っ直ぐアロイスへ向けられる。
「彼女一人へ背負わせるな」
静かな命令だった。
アロイスは迷うことなく一礼する。
「承知いたしました」
その返答を聞き、第一皇子はようやく小さく頷いた。
ほんの少しだけ表情が和らぐ。
それでも、送り出す側の不安が消えることはなかった。
*
公爵邸では、夜明け前から慌ただしい足音が絶えなかった。
神聖国へ向かう正式使節団。
帝国の威信を背負う外交任務だけに、屋敷中の使用人が準備へ追われている。
外交文書の確認。
馬車への積み込み。
携行品の最終点検。
廊下では騎士と使用人が絶えず行き交い、普段は静かな屋敷が久しぶりに賑わっていた。
そんな中心で、ルドルフは今日も姿勢を崩さずに立っている。
ただ一つだけ違うのは――目の下だった。
誰が見ても寝不足である。
「こちらが神聖国側へ提出する正式通行証です」
淡々と書類を差し出す。
「こちらが緊急時用の封書」
さらに一通。
「そしてこちらが、北方遠征時の追加報告書になります」
机の上へ置かれた束は、なかなかの厚みだった。
ライナーが思わず覗き込む。
「……多くね?」
「九十七通ございます」
静かな返事だった。
ライナーが固まる。
「きゅ……?」
「北方遠征に伴う報告書が四十八通、各部署への返答が二十九通、追加の照会が二十通です」
数字だけを並べる。
その破壊力は十分だった。
「全部終わってねぇの?」
「まだ三十二通残っております」
ライナーは思わず一歩下がる。
「うわぁ……」
「さらに今回は正式使節ですので、外交文書が二十四通追加されました」
追撃だった。
「誰がやるんだよ、それ」
ライナーが恐る恐る尋ねる。
ルドルフは柔らかく微笑んだ。
「私ですが」
怖い。
笑顔なのに怖い。
ライナーは視線を逸らした。
「……悪かった」
「誰のせいでしょうね」
間髪入れず返ってくる。
エドガーが肩をすくめた。
「三択ですね」
「全員です」
即答だった。
「否定できません」
エドガーはあっさり白旗を上げる。
ライナーはアロイスを見る。
「団長」
「何だ」
「なんか言え」
「事実だ」
即答だった。
「助けろよ!」
ライナーが叫ぶと、廊下のあちこちで使用人たちが笑いを堪えていた。
*
その頃。
ミレイユは出発用の外套をマルガレーテに整えてもらっていた。
厚手の防寒具の上へ、外交使節らしい落ち着いた色合いの外套を重ねる。
細かな皺まで丁寧に伸ばしながら、マルガレーテは静かに口を開いた。
「本当に、お一人で歩けますか」
真剣だった。
ミレイユは困ったように笑う。
「そこまでではありません」
「前回も、そのように仰っておりました」
ぴしゃりと返される。
逃げ道がない。
ミレイユが返答に詰まった、その時。
「その通りだ」
低い声が重なった。
いつの間にかアロイスが立っている。
完全な援護射撃だった。
「まだ本調子ではない」
短く言い切る。
ミレイユは思わず小さく肩を落とした。
「……皆様、少し心配し過ぎでは」
「当然だ」
また即答。
迷いがない。
ライナーが吹き出した。
「包囲網できてんじゃねぇか」
「公爵邸全体が過保護モードですね」
エドガーも苦笑する。
アロイスは二人を見る。
「何がおかしい」
「そこですよ」
エドガーが静かに呟いた。
本人だけが分かっていない。
*
出発の時刻が近づく。
玄関前には外交使節団の馬車が並び、帝国騎士団も整列していた。
ミレイユは淡い色の外套に身を包み、長い髪をまとめた姿は、どこから見ても気品に満ちていた。
騎士たちの空気が、わずかに揺れる。
ヴァルターが微笑んだ。
「聖女様」
その一言で、ミレイユの表情が曇る。
「その呼び方はやめてください」
「今回は建前として必要でしょう」
「建前でも嫌です」
珍しく即答だった。
ライナーが笑う。
「分かる」
「あなたは黙っていてください」
今度はエドガーが切る。
「なんで俺だけ!」
「護衛対象へ絡み過ぎです」
「普通に喋っただけだろ!」
騒がしい。
その様子を見ながら、ヴァルターはふと思い出したように言う。
「そういえば、第一皇子殿下が仰っていましたよ」
ミレイユへ視線を向ける。
「無理をさせるな、と」
ミレイユが少し目を見開く。
その隣で、アロイスは何も言わない。
ただ、その視線だけが静かに落ちた。
ヴァルターは小さく笑う。
(なるほど)
思っていた以上だ。
*
出発直前。
ルドルフが静かに一礼した。
「皆様、どうか、ご無事でお戻りください」
いつも通りの完璧な所作。
少しだけ疲れた笑みを浮かべる。
「できるだけ早めに」
ライナーが耐え切れず吹き出した。
「切実すぎるだろ!」
「切実です」
ルドルフは真顔で返す。
「次の遠征までに、報告書を終わらせたいので」
「そこ!?」
「切実でしょう」
誰も反論できなかった。
馬車がゆっくりと動き出す。
見送る使用人たち。
マルガレーテは静かに頭を下げる。
「どうか、ご武運を」
その祈りは、公爵邸にいる全員の気持ちだった。
*
数日後。
神聖国との国境が見えてきた。
巨大な白亜の門。
高く掲げられた聖印。
風に乗って流れてくる花の香。
遠くでは鐘の音が静かに響いている。
帝国とは、まるで別世界だった。
街道を歩く巡礼者たちは白い衣をまとい、小さく祈りを捧げながら聖都を目指している。
穏やかで、美しい光景。
――なのに。
どこか落ち着かない。
門前では神聖騎士団が整然と並び、その中央で若い神官が一歩前へ出た。
「ようこそ、神聖国へ」
柔らかな笑み。
非の打ち所がない。
「帝国使節団の皆様を歓迎いたします」
ヴァルターが外交用の笑顔を浮かべる。
「温かいお出迎え、感謝いたします」
神官は微笑みを崩さない。
そして視線が、ミレイユへ向いた。
「……聖女候補の方も」
その瞬間だった。
周囲の巡礼者たちが、小さくざわめく。
「あの方が……」
「神託の……」
「なんて清らかな……」
囁き声は決して大きくない。
だが、その熱量は異様だった。
尊敬。
憧れ。
期待。
そして狂信にも似た熱。
ミレイユは思わず息を呑む。
その前へ、アロイスが半歩進み出た。
自然に、彼女を隠すように。
神官はその様子を見て、静かに目を細める。
「随分と大切にされているのですね」
「預かっている身だ」
アロイスは短く答えた。
ヴァルターだけが、そのやり取りを楽しそうに眺めている。
神官は一礼し、穏やかに告げた。
「法王猊下も、彼女に強い関心をお持ちです」
その言葉と同時に。
ミレイユの胸の奥で、何かがざわりと波立った。
『救済を』
『御声を』
『導きを』
幾重にも重なる祈りが、頭の奥へ流れ込んでくる。
北方のような冷たい圧ではない。
もっと温かく。
もっと優しく。
だからこそ、逃れ難い。
ミレイユの指先が小さく震えた。
それに気付いたアロイスが、低く名を呼ぶ。
「……ミレイユ」
彼女は小さく首を振る。
「大丈夫です」
そう答えながらも、視線は白亜の聖都のさらに奥へ向いていた。
見えないはずなのに分かる。
あの場所で、何かがこちらを待っている。
静かに微笑みながら――。




