↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
PR
80/144

第22話:静かな休息

北方遠征から数日が過ぎ、公爵邸にもようやく穏やかな空気が戻り始めていた。

もちろん、それは――表面上のことではある。

北方で眠っていた古代装置は休眠させることに成功し、監視砦の兵士たちも少しずつ日常を取り戻している。

公爵邸でも慌ただしかった遠征後の処理は一段落し、使用人たちの表情にもようやく余裕が戻ってきていた。

そんな静かな午前。

薄く晴れた冬空の下、ミレイユは屋敷の回廊をゆっくりと歩いていた。

北風はまだ冷たい。

けれど澄んだ空気は心地よく、数日ぶりに部屋の外へ出た彼女は、小さく息を吐いた。

(……ようやく歩けるようになった)

体調は戻りつつある。

医師からも「無理をしなければ問題ない」と言われていた。

もっとも、その「無理」がどこまでを指すのかは、人によって認識が違うらしい。

本人としては、もう十分動けるつもりだった。

だが、北方遺跡で受けた精神干渉の負荷は予想以上に大きく、身体の奥にはまだ鉛のような重さが残っている。

少し歩いただけで足が鈍くなり、呼吸もわずかに浅くなる。

立ち止まり、庭へ目を向ける。

雪はほとんど溶けていたが、冬枯れの景色は静かだった。

枝だけになった木々の向こうでは、庭師が植え込みを整えている。

何気ない日常。

それだけで少し心が落ち着いた。

その時だった。

「外に出たのか」

背後から、低く落ち着いた声が聞こえる。

振り返ると、執務棟から戻ってきたばかりのアロイスが立っていた。

書類を抱えたままこちらを見ている。

視線が合う。

ミレイユは小さく会釈した。

「……少しだけです」

そう答えると、アロイスは何も言わない。

ただ静かに彼女を見つめていた。

顔色。

立ち方。

呼吸。

まるで診察でもするように、一つ一つ確かめている。

やがて短く口を開いた。

「まだ休んでいろ」

迷いのない声音だった。

ミレイユは困ったように微笑む。

「そこまで大事では――」

「ある」

言い終わる前に返ってくる。

即答だった。

あまりにも迷いがない返事に、ミレイユは思わず言葉を飲み込んだ。

アロイスは一歩だけ距離を詰める。

「北では倒れた」

静かな声だった。

責めるでもなく、感情をぶつけるでもない。

ただ事実だけを告げる。

それがかえって反論を許さなかった。

ミレイユは小さく視線を落とす。

「……はい」

否定できない。

あの時、自分は完全に意識を失った。

迷惑を掛けたことも理解している。

だからこそ、「もう大丈夫です」と言いたかった。

その瞬間だった。

ふらり、と。

本当にわずかに身体が揺れる。

自分では転ぶほどではないと思った。

だが、アロイスは見逃さなかった。

迷うことなく腕を伸ばし、ミレイユの腕を支える。

身体が支えられ、距離が一気に近づいた。

「……っ」

思わず息を呑む。

「だから言った」

アロイスは眉を寄せた。

本気で心配している顔だった。

ミレイユは頬が熱くなるのを感じながら、小さく頭を下げる。

「……申し訳ありません」

「謝る必要はない」

それもまた即答だった。

「無理をするな」

そのまま当然のように歩き出す。

支える手は離れない。

ミレイユは完全に逃げる機会を失った。

少し恥ずかしい。

けれど、不思議と嫌ではない。

そんな二人の姿を、回廊の角から見ていた影があった。

「……見た?」

「見た」

「支えてる」

「しかも自然に」

掃除道具を抱えた若いメイドたちが、小声で囁き合う。

「閣下よね?」

「閣下よ」

「え、今の閣下よね?」

「幻覚じゃない?」

「違う違う」

一人が首を横に振る。

「あのお方、以前なら倒れるまで気付かなかったわよ」

「それ以前に、人を支える前に『医師を呼べ』だったわ」

「そうそう」

「なのに今は自分で支えてる……」

しばし沈黙。

そして。

「進展したわね」

「したわね」

「赤飯?」

「まだ早い」

全員が真剣な顔で頷いた。

その熱量だけは、北方遠征にも負けていなかった。

*

数十分後。

執務室では、アロイスが山積みになった書類へ目を通していた。

北方遠征の報告書。

監視砦からの追加報告。

第一皇子への報告書。

補給計画の見直し。

目を通すべき書類は尽きない。

だが、ふと手が止まる。

視線が文字から外れた。

(……まだ顔色が良くない)

思考は自然と先ほどの回廊へ戻っていた。

足元の揺れ。

浅い呼吸。

無理をして笑っていた顔。

知らず、小さく息を吐く。

その時だった。

控えめなノックが響く。

「失礼いたします」

「入れ」

扉が開き、エドガーが書類を抱えて入ってきた。

「北方関連の追加報告です」

机へ置きながら、ちらりとアロイスを見る。

「……また行くのですか」

唐突な問いだった。

アロイスは眉を寄せる。

「何がだ」

「ミレイユ様のところへ」

沈黙。

数秒。

「必要があれば行く」

真顔だった。

あまりにも迷いがない。

エドガーは肩を震わせ、小さく笑う。

「そういうところですよ」

「意味が分からん」

本当に分からないらしい。

エドガーはそれ以上説明しなかった。

(説明しても理解されないでしょうしね)

心の中だけで呟きながら、静かに一礼する。

公爵本人だけが、まだ何も気付いていなかった。

*

使用人区画は、昼下がりにもかかわらず妙な熱気に包まれていた。

もっとも、その理由は仕事ではない。

「見た!?」

「見た!」

「今日も支えてた!」

「しかも自然に!」

声を潜めているつもりなのだろうが、興奮は隠し切れていない。

「昨日も様子を見に来てたわよね」

「三回」

「えっ」

「薬を飲んだか確認に」

一瞬、静まり返る。

「……三回?」

「三回」

再び沈黙。

「過保護すぎるでしょう!」

「でも分かる」

「分かる!」

頷きが連鎖する。

その時だった。

廊下をマルガレーテが通りかかる。

メイドたちは一斉に姿勢を正した。

しかしマルガレーテは立ち止まり、小さく首を傾げる。

「訂正いたします」

全員の視線が集まる。

「昨夜は四回です」

数秒の静寂。

そして。

「増えてるーーー!!」

「閣下ぁぁぁ!!」

「もう駄目ですこれ!」

「赤飯!」

「だからまだ早い!」

小さな悲鳴が一斉に上がった。

挿絵(By みてみん)

マルガレーテは微笑むだけで何も言わない。

(……ですが、良い変化ですね)

鉄血公爵と呼ばれた男が、誰か一人の体調を気に掛ける。

それだけで屋敷の空気まで柔らかくなっている。

長く仕えてきた彼女には、それが何より嬉しかった。

*

午後。

ミレイユは私室のソファに座っていた。

毛布を膝まで掛けられ、温かな薬草茶まで用意されている。

本人はもう十分元気だと思っているのだが、屋敷中がそうは思ってくれない。

窓から差し込む陽射しは穏やかで、思わずうとうとしかけた、その時だった。

廊下が妙にざわつく。

「来たわ……」

「静かに!」

「でも来た!」

嫌な予感しかしない。

ほどなくして扉が叩かれた。

「アンネリーゼ・フォン・アダルベルト様がお見えです」

空気が一瞬で引き締まる。

「……お通ししてください」

扉が開く。

深い藍色のドレスを纏ったアンネリーゼが、優雅な足取りで部屋へ入ってきた。

今日も隙がない。

凛とした美しさと、見る者を自然に正させるような気品をまとっている。

「ご機嫌よう、ミレイユ様」

「ご機嫌よう、アンネリーゼ様」

ミレイユが立ち上がろうとすると、

「そのままで結構です」

アンネリーゼは柔らかく微笑んだ。

「本日はお見舞いに参りました」

穏やかな声音なのに、不思議と逆らえない。

ミレイユは素直に座り直すしかなかった。

その頃、廊下の角では。

「来やがったな、完璧令嬢」

ライナーが柱から半分だけ顔を出している。

「声が漏れていますよ」

隣でエドガーがため息をつく。

「うるせぇ」

ライナーはアンネリーゼを見て腕を組んだ。

「……しかし、やっぱ別嬪だな」

「そこは認めるんですね」

「認めるしかねぇだろ」

ライナーは悔しそうに鼻を鳴らす。

「くそ、隙がねぇ」

アンネリーゼは当然すべて聞こえていた。

それでも一切気にした様子を見せず、優雅に紅茶へ口を付ける。

さすがだった。

*

「お加減はいかがですか」

「もう問題ありません」

反射的に答えたミレイユへ、アンネリーゼは優しく微笑む。

「その言葉は、信用しないよう皆様から伺っております」

ミレイユが固まった。

廊下の向こうで、メイドたちが一斉に頷いている。

完全一致だった。

アンネリーゼは紅茶を静かに置く。

「それにしても」

穏やかに続ける。

「ずいぶんと過保護だったそうですね」

「……え?」

固まるミレイユ。

「閣下が」

さらりと言われた一言に、耳まで赤く染まる。

「そ、それは……」

言葉にならない。

そこへ。

コンコン。

絶妙な間で扉が叩かれた。

「入る」

なぜだかわからないが、アロイスの声だった。

そのまま扉が開き、本人が姿を現す。

部屋の中を一瞬見回す。

アンネリーゼ。

真っ赤なミレイユ。

耐え切れず震えているメイドたち。

廊下から覗くライナーとエドガー。

数秒の沈黙。

「……何をしている」

本気で分かっていない顔だった。

ライナーが吹き出す。

「お前マジか」

アロイスは完全に無視した。

まっすぐミレイユを見る。

「薬は飲んだか」

「……飲みました」

「食事は」

「済んでいます」

「睡眠は」

「取っています」

まるで報告を受ける指揮官だった。

ライナーが腹を抱える。

「親父か!」

「いえ」

エドガーが真顔で首を振る。

「親御さんでも、ここまで確認しません」

「何がおかしい」

アロイスは本気で理解できていない。

アンネリーゼは静かにカップを置き、穏やかに言った。

「閣下」

「何だ」

「ご自覚がないのですね」

「何の話だ」

その一言で。

ライナーはとうとう壁にもたれ掛かって笑い始めた。

メイドたちは後ろを向いて肩を震わせている。

ミレイユは俯いたまま、もう顔を上げられない。

ただ一人。

アロイスだけが、本気で状況を理解できていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。