第21話:戻り始めた日常
夕暮れの空は淡い茜色に染まり、北方の雪原を柔らかく照らしていた。
四人は、越境の際に宿を借りた小さな村へ戻ってきていた。
雪に埋もれた木造の家々。
煙突からは白い煙が立ちのぼり、あちらこちらから夕餉の匂いが漂ってくる。
数日前、この村を訪れた時とはまるで違っていた。
あの時は、村全体が張り詰めた空気に包まれていた。
人々は疲れ切った顔で動き続け、誰も休もうとはしなかった。
子どもの姿さえ見かけなかった。
だが今は違う。
家々の間から笑い声が聞こえ、小さな子どもたちが雪を投げ合って遊んでいる。
その何気ない光景に、ミレイユはそっと目を細めた。
宿の主人も、四人の姿に気づいて表へ出てくる。
「あんたら……」
目を丸くしたまま立ち尽くし、やがて深く息を吐いた。
「……消えたよ」
ぽつりと漏らす。
「あの、頭ん中を掻き回されるような感じがな」
腕を組み、苦笑するように続けた。
「最近は変だったんだ」
「疲れてるのに休めねぇし、身体が勝手に動くみてぇでよ」
「仕事を終えても、まだ何かしなきゃって気持ちが止まらねぇ」
ライナーの表情から笑みが消える。
あの遺構は、人を壊れるまで働かせるための装置だった。
その影響は、国境の砦だけではなく、この村にまで静かに広がっていたのだ。
宿の主人は四人を見回し、少し照れくさそうに鼻を掻く。
「……あんたらが止めてくれたんだろ」
誰も答えない。
答える必要もなかった。
主人はそれだけで十分だと悟ったように、小さく頷いた。
「そうか」
短い一言だった。
けれど、その声音には確かな安堵が滲んでいた。
その夜。
北方の村は久しぶりに静かな眠りへ包まれた。
誰もが仕事を忘れ、暖炉を囲み、家族と食卓を囲む。
そんな当たり前の日常が、ようやく戻ってきたのだった。
*
翌日。
北方国境監視砦へ戻る頃には、空は再び雪雲に覆われていた。
細かな雪が風に乗って舞っている。
それでも、数日前まで砦を覆っていた重苦しい圧迫感は跡形もなく消えていた。
砦門が開く。
見張りの騎士が四人の姿を見つけるや否や、大きな声を上げた。
「閣下がお戻りだ!」
その声を合図に、砦の騎士たちが一斉に駆け寄ってくる。
誰の顔にも、隠しきれない安堵が浮かんでいた。
「ご無事で何よりです」
アロイスは短く頷くだけだった。
その背後へ視線を向けた騎士たちは、一様に足を止める。
ミレイユはアロイスの前で静かに眠っていた。
厚い毛皮へ包まれた身体を預け、微かな寝息を立てている。
遺構を出てからというもの、意識は混濁していた。
魔力も精神力も限界まで使い切った代償だった。
ライナーが苦笑する。
「完全に魔力切れだな」
「笑い事ではありません」
すぐ隣でエドガーが呆れたように返す。
「ここまで消耗しているのは初めて見ました」
そう言いながらも、その声には安堵が滲んでいた。
生きて戻れた。
まずは、それが何よりだった。
アロイスは、ミレイユを落とさないよう、そっと腕を伸ばす。
ごく自然な動作だった。
馬を降りて、ためらいもなくミレイユを抱き上げ、そのまま歩き始める。
「医師を呼べ」
低い声が響く。
「それと、隔離している兵士を連れて来い」
命令を受けた騎士たちは慌てて駆け出した。
だが、その場へ残った者たちは誰一人動けない。
全員の視線は、アロイスの腕の中にいるミレイユへ注がれていた。
「……おい」
誰かが小さく呟く。
「あれ……閣下だよな」
「見間違いじゃないか」
「いや……」
別の騎士が首を横へ振った。
「見間違いじゃない」
戦場で"鉄血公爵"と恐れられた男が、自ら女性を抱き上げて運んでいる。
それは彼らの知るアロイス・シュタルクとは、あまりにもかけ離れた姿だった。
もちろん、当の本人だけは周囲の視線など気にも留めていない。
ただ医務室へ向かって歩いているだけである。
「……変わったな」
年配の騎士がぽつりと漏らした。
その言葉に、誰も反論しなかった。
*
医務室では、錯乱状態だった兵士たちが診察を受けていた。
数日前まで虚ろだった瞳には少しずつ光が戻り、表情にも生気が戻り始めている。
兵士の一人が震える声で口を開いた。
「……俺は、仲間へ剣を向けました」
自分の手を見つめる。
その指先はまだ小刻みに震えていた。
「止めようと思っても……身体が勝手に動いたんです」
アロイスは静かに問い返す。
「覚えているのか」
兵士は苦しそうに頷いた。
「全部……」
「全部覚えています」
「だから……苦しい、です」
医務室が静まり返る。
その沈黙を破ったのは、寝台へ腰掛けたミレイユだった。
顔色はまだ優れない。
それでも、兵士たちへ穏やかな視線を向けている。
「完全には消えていません」
静かな声だった。
「装置を止めたことで干渉そのものは途切れました」
「ですが、長い時間さらされた影響は心に残っています」
兵士たちの表情が強張る。
ミレイユは優しく微笑んだ。
「……でも、大丈夫です」
「時間はかかりますが、必ず戻れます」
「皆さんが自分を責め続ける必要はありません」
その言葉に、兵士たちの肩から少しずつ力が抜けていく。
安堵したように涙を流す者もいた。
アロイスは、その様子を黙って見つめていた。
そして数秒後、低い声で口を開く。
「もう喋るな」
ミレイユが顔を上げる。
「……ですが」
「休め」
間髪入れず言葉を重ねる。
有無を言わせない声音だった。
ミレイユは少し困ったように微笑み、小さく頷く。
「……はい」
そのやり取りを見ていたライナーが、とうとう吹き出した。
「ははっ」
「重症だな、これ」
エドガーも肩を震わせる。
「思っていた以上に重症ですね」
「何がだ」
アロイスが真顔で問い返す。
ライナーとエドガーは顔を見合わせると、揃って肩をすくめた。
「いやぁ……」
「ご本人だけが分かっていないようですので」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
*
数日後。
帝都へ戻った一行を迎えたのは、冬の冷たい風ではなかった。
「ミレイユ様ぁぁぁ!!」
屋敷中へ響き渡る悲鳴にも似た歓声だった。
玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、待ち構えていたメイドたちが一斉に駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ!」
「お顔色が悪すぎます!」
「頬が少し痩せておられませんか?」
「早く暖かいお部屋へ!」
「毛布を追加してください!」
「湯たんぽも!」
「消化の良いスープを!」
「栄養のあるお食事も!」
「とにかく安静です!」
「あと愛情も!」
「最後だけ何ですか」
エドガーが真顔で突っ込む。
その一言で張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
その時、人垣の奥からゆっくり一人の男が姿を現す。
ルドルフだった。
「お帰りなさいませ」
穏やかな笑顔。
……のはずだった。
ライナーは思わず二度見する。
「うわ」
思わず漏れた。
「死にそうな顔してるぞ」
実際、やつれていた。
頬は少しこけ、目の下には隠しきれない隈が浮かんでいる。
ルドルフは微笑みを崩さない。
「誰のせいでしょうね」
静かな声音だった。
その静かさが、かえって怖い。
エドガーは即答した。
「三択ですね」
「全員です」
間髪入れず返ってくる。
あまりにも正論だった。
ライナーは肩をすくめる。
「いやぁ、留守番って大変なんだな」
「留守番ではありません」
ルドルフは優雅に訂正した。
「公爵家の運営を一人で回しておりました」
「書類は山のように積み上がり、皇宮からの問い合わせは増え、皆様は揃って北方へ行かれました」
にこり、と笑う。
「胃が痛かったです」
ライナーとエドガーが揃って目を逸らした。
完全に心当たりがある。
その時だった。
ルドルフの視線が、ある一点で止まる。
アロイス。
そして、その腕の中。
当然のように抱えられているミレイユ。
数秒の沈黙。
「……閣下」
「何だ」
「そのまま運ばれるのですか」
アロイスは一瞬だけミレイユへ視線を落とした。
眠っている。
顔色もまだ完全ではない。
だから、何の疑問もなく答える。
「ああ」
「歩かせるわけにはいかない」
ルドルフは静かに目を閉じた。
「問題しかありませんが」
ライナーが耐えきれず吹き出す。
「ははははは!」
エドガーも壁へ寄りかかる。
「帰還早々、面白すぎるでしょう」
「何がおかしい」
アロイスは本気で分かっていない。
その表情が余計に笑いを誘う。
ルドルフは額へ手を当て、小さく息を吐いた。
(本当に無自覚なのですね……)
頭痛がした。
だが、それ以上に安心している自分もいた。
北方へ向かう前なら、この男は絶対にこんな行動は取らなかった。
その時、アロイスがメイドたちへ視線を向ける。
「熱い湯は避けろ」
その場の全員が止まった。
「長時間の入浴も禁止だ」
さらに静まり返る。
「消化の良いものを食べさせろ」
「十分に休ませろ」
玄関ホールが水を打ったように静まり返る。
メイドたちの心の声が見事に一致した。
(((誰!?)))
ライナーは腹を抱えて笑い転げる。
「お前!」
「"鉄血公爵"の名、どこいった!?」
「こんなこと言う男だったか!?」
「何がだ」
アロイスは首をかしげる。
本気で分かっていない。
「そこからかよ!」
ライナーは笑いすぎて涙が浮かんでいた。
エドガーも肩を震わせる。
「北方遺跡より、こちらの方が興味深いですね」
ぼそりと漏らす。
完全に面白がっていた。
その後ろで、ルドルフだけが静かに微笑んでいた。
(……お帰りなさいませ、閣下)
以前とは少し違う。
けれど、この変化は決して悪いものではない。
そう思えた。
*
翌日。
皇宮では北方での一件について報告が行われていた。
第一皇子は提出された報告書を閉じると、静かにアロイスを見据える。
「……帝国と王国以外にも装置が存在する、か」
低い声だった。
「一歩間違えば、国際問題だった」
その言葉に、アロイスは黙って頷く。
第一皇子は続けた。
「越境は独断だった」
「どう責任を取るつもりだった」
まっすぐな問いだった。
逃げ道はない。
アロイスは静かに口を開く。
「必要であれば、爵位返上も――」
「そこまでにしておこう」
穏やかな声が割って入る。
第二皇子だった。
椅子へゆったりともたれながら、柔らかな笑みを浮かべている。
「結果として止められたんだ」
「判断は間違っていない」
第一皇子がわずかに眉を寄せる。
第二皇子は肩をすくめた。
「装置なんて、結局は使い方次第だからね」
その瞬間。
部屋の空気が冷えた。
ミレイユの肩が、ほんのわずかに強張る。
第二皇子は、その小さな反応を見逃さない。
それでも追及はしなかった。
ただ穏やかに笑う。
「そんな顔をしないで」
「僕は可能性の話をしているだけだよ」
優しい声だった。
だからこそ恐ろしい。
ヴァルターだけが、そのやり取りを静かに眺めていた。
国家。
装置。
精神干渉。
均衡を保っていた世界が、少しずつ動き始めている。
そして、その中心には――
アロイスとミレイユ。
二人がいる。
(……実に興味深い)
口元が、ごくわずかに緩んだ。
*
その頃。
遥か南に位置する神聖国では、白亜の大神殿に祈りの歌が満ちていた。
香が焚かれ、大理石の床には無数の巡礼者が跪いている。
誰もが恍惚とした表情で目を閉じていた。
祭壇の最奥。
巨大な聖印の前で、一人の若い巫女が震えている。
その頬を涙が伝った。
「……聞こえる」
掠れた声だった。
神官たちが息を呑む。
巫女は虚空へ手を伸ばす。
「神の御声が……」
その瞬間。
祭壇の巨大な聖印が淡く輝いた。
ざわり、と空気が震える。
巡礼者たちが一斉に顔を上げた。
「おお……」
「奇跡だ……」
祈りの声は次第に熱を帯び、やがて神殿全体を揺らすほどの大合唱へ変わっていく。
その光景を、高い玉座の奥から一人の男が静かに見つめていた。
法王。
その瞳だけが、どこまでも冷たい。
「……始まりましたか」
誰にも届かないほど小さな呟きが漏れる。
聖印はなおも静かに脈動を続けていた。
まるで、遥か北で眠ったはずの鼓動へ応えるように。
南の聖なる国でもまた、新たな"神託"が静かに幕を開けようとしていた。




