第20話:遥かより届く声
それより半刻前。
王宮・レオニードの執務室。
静かな室内に、紙をめくる音だけが響いていた。
レオニードは机に積まれた報告書へ淡々と目を通している。
そのとき、扉が二度、軽く叩かれた。
「……入れ」
扉が開く。
「失礼しまーす」
場違いなほど軽い声。
それを聞いた瞬間、レオニードのこめかみがぴくりと動いた。
顔を上げる。
そして、露骨に嫌そうな顔をした。
「……なぜお前が来る」
「ひどいなぁ、久しぶりに会った友人に対する第一声がそれ?」
入ってきたクロウレイは、悪びれる様子もなく笑っている。
旅装のままだ。
どうやら王都へ着いて、その足でここまで来たらしい。
「お前を呼んだ覚えはない」
「うん、君には呼ばれてないね」
クロウレイはにこやかに答えた。
「なんかミレイユが大変そうだってさ、君の部下から手紙をもらっちゃって」
レオニードの視線が、すっと横へ流れた。
そこには、何食わぬ顔で立っているシルヴァン。
「テヘペロ」
「おまえら……」
レオニードは額を押さえた。
その様子を見て、アルベルトが腕を組む。
「過保護じゃねぇか」
「君も同類でしょ」
「俺は違う」
「どこが?」
軽口が飛び交う。
――だが。
ふっと、クロウレイの表情から笑みが消えた。
「……ミレイユの様子がおかしい」
静かな声だった。
それだけで、室内の空気が変わる。
レオニードも顔を上げた。
「……なぜ分かる」
「師匠の勘?」
クロウレイは一拍置いて、わずかに口元を緩める。
「可愛い弟子のことなら、何でも分かるよ」
「クロウレイさん、きもっ」
シルヴァンの呟きは綺麗に無視された。
「さ、あれ出して」
「……何をだ」
「遠隔映像装置」
レオニードの眉間に皺が寄る。
「……準国宝級だぞ」
「知ってる」
「使用許可が必要だ」
「君でしょ?許可出せるの」
「…………」
「ほら、早く」
「そもそも、対象と接続するための媒介が――」
「あるよ」
クロウレイはさらりと言った。
「ミレイユにあげた指輪」
レオニードの目が細くなる。
「……いつの間に」
「出立前。僕の魔力を込めてある」
「お前は……」
「弟子へのプレゼントだよ。ほら、早く」
結局、レオニードが折れた。
やがて数人がかりで大きな水晶球が運び込まれ、台座へ据えられる。
クロウレイは目を閉じ、遠く離れた指輪の気配を探った。
しばらくして。
「……いた」
水晶球へ魔力が注がれる。
淡い光が灯り、表面が水面のように揺らめいた。
やがて、ぼんやりと像が結ばれていく。
石造りの空間。
北方国の遺跡。
そして――。
「ミレイユ……!」
シルヴァンが息を呑んだ。
映像の向こうで、ミレイユが黒い遺構へ手を伸ばしている。
顔は苦しげに歪み、身体も小さく震えていた。
「……精神干渉か」
レオニードの声から、先ほどまでの苛立ちが消える。
「かなり深い」
クロウレイも笑っていなかった。
映像の中で、ミレイユの指先が震える。
意識そのものが、何かに引きずり込まれている。
「……やばいね」
シルヴァンが小さく呟いた。
アルベルトも何も言わない。
ここからでは、手を伸ばしても届かない。
だが、クロウレイは迷わなかった。
「レオニード。この接続、借りるよ」
「何をする」
「ミレイユに精神力を送る」
レオニードが眉を寄せる。
「ここから北方国だぞ。遠すぎる」
「分かってる」
「効率が悪すぎる」
「それも分かってる」
クロウレイは水晶球へ右手を向けた。
「だから、たくさん送る」
次の瞬間。
空気が震えた。
クロウレイを中心に、膨大な魔力が膨れ上がる。
机の上の紙が舞い、窓がカタカタと鳴った。
アルベルトが思わず半歩下がる。
「……馬鹿みてぇな量だな」
「だから言ったでしょ」
シルヴァンが乾いた笑いを漏らす。
「この人、規格外なんだよ」
その膨大な魔力が、細い一本の流れへと収束していく。
遠く離れた弟子へ届くように。
「ミレイユ」
クロウレイの声は穏やかだった。
焦りも、恐怖も感じさせない。
いつも森の家で彼女を呼んでいたときと、何も変わらない声。
「聞こえてなくてもいいよ。僕が勝手に喋るから」
指輪との繋がりが強くなる。
「君は弱い子じゃない」
クロウレイの額に汗が滲む。
「怖くてもいい。苦しくてもいい」
映像の中で、ミレイユの指がわずかに動いた。
「それでも君は、ちゃんと自分で戻ってこられる」
そのとき、水晶球の光が大きく揺らいだ。
「クロウレイ」
レオニードが鋭く呼ぶ。
「供給量が多すぎる。このままでは術式がもたん」
「あと少し」
「流れが乱れている」
レオニードは水晶球の反対側へ回り、手をかざした。
「私が枠を固定する」
クロウレイがちらりと横を見る。
「……助かる」
レオニードの魔力が水晶球を包み込む。
クロウレイの圧倒的な力を、緻密な制御で一つの流れへ整えていく。
二人分の魔力が重なり、室内の空気が低く震えた。
「……規格外が二人」
シルヴァンが呆れたように呟く。
アルベルトは苦笑した。
「弟子思いにも程があるだろ」
「当然」
クロウレイは即答する。
「可愛い愛弟子だからね」
「そこだけ聞くと気持ち悪いです」
「失礼だなぁ」
軽口を交わしながらも、誰一人として映像から視線を離さなかった。
*
現地。
流れ込んできた温かな魔力が、崩れかけた境界を包み込む。
曖昧になっていた輪郭が戻る。
ミレイユはゆっくりと目を開いた。
「……まだ、いけます」
掠れた声だった。
アロイスは何も言わない。
ただ、その背を静かに見守っている。
ミレイユはもう一度、遺構へ手を添えた。
今度は迷わない。
意識を深く沈める。
黒い石柱の中心。
脈動する核へ。
「――眠って」
静かな祈りのような声が響いた。
その瞬間、白い光が遺構全体を包み込む。
重く鳴り続けていた振動が乱れ、黒い環が軋んだ。
ギィ……ッ。
一際大きく光が弾ける。
同時に、王宮の水晶球へ蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
「来るぞ!」
レオニードが声を張る。
クロウレイは歯を食いしばり、なおも魔力を送り続ける。
(頑張れ、ミレイユ)
(君なら、必ず戻ってこられる)
師としてできることは、信じて支えることだけだった。
「あと少し……!」
バキィッ!!
水晶球が砕け散った。
無数の破片が床へ飛び散り、光が消える。
静寂。
クロウレイは大きく息を吐き、椅子へ身体を預けた。
「……間に合った」
安堵したように目を閉じる。
その横で。
レオニードは、床一面に散らばった水晶の破片を見つめていた。
「…………」
長い沈黙だった。
シルヴァンがそっと目を逸らす。
アルベルトも何も言わない。
やがてレオニードが、足元の欠片を一つ拾い上げた。
「……準国宝級だったんだぞ」
ぽつり。
「まあまあ」
クロウレイが宥める。
「ミレイユを助けられたんだから」
「分かっている」
即答だった。
「必要なことだった。同じ状況なら、私はもう一度使う」
「うん」
「迷わず使う」
「うんうん」
レオニードは掌の欠片を見つめた。
「……だが」
深い溜息。
「壊れなくてもよかっただろう……」
誰も答えなかった。
クロウレイが少し考える。
「……高い授業料だったね」
レオニードが顔を上げた。
「お前が払え」
「無理だよ」
「払え」
「準国宝でしょ?」
「だから払え」
シルヴァンが顔を背けた。
肩が震えている。
レオニードは再び、かつて水晶球だったものへ目を落とした。
「……準国宝……」
ひどく遠い声だった。
*
遺構の振動が、ゆっくりと止まっていく。
低く唸っていた音も消え、地下空洞は静まり返った。
ミレイユの膝から力が抜ける。
倒れ込む身体を、アロイスが迷いなく抱き止めた。
「ミレイユ」
返事はない。
呼吸は浅いが、規則正しい。
ライナーが安堵の息を吐く。
「止まった……のか」
エドガーは周囲を見回し、慎重に頷いた。
「ええ。少なくとも、この遺構は完全に沈黙しています」
その言葉を聞きながら、ミレイユがかすかに瞼を開いた。
「……違います」
消え入りそうな声だった。
「これは……止めただけです」
アロイスが静かに耳を傾ける。
ミレイユは北を見つめた。
氷山の、さらに向こう。
「根は……まだ、繋がっています」
ゆっくりと息を整えながら続ける。
「石板は……もっと北です」
「氷の奥に……埋まっています」
その一言で十分だった。
ここは終着点ではない。
本当の中心は、さらに北。
誰も踏み込んだことのない雪と氷の彼方にある。
アロイスはミレイユを抱え直し、静かに立ち上がった。
「戻るぞ」
短い命令だった。
異論を唱える者はいない。
四人は遺構へ最後の一瞥を向けると、静まり返った地下空洞をあとにした。
彼らの背後で、眠りについた遺構は再び氷に閉ざされ、何事もなかったかのように深い静寂へ沈んでいった。




