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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第19話:凍土の深き鼓動

北方山脈は、どこまでも灰色だった。

吹雪こそ弱まっていたが、空を覆う厚い雲は陽の光を遮り、白い雪原を鈍い色に染め上げている。

踏みしめる雪は深く、吐く息は瞬く間に白く凍りついた。

四人は黙って山道を進んでいた。

先頭を歩くのはアロイス。その後ろにミレイユが続き、ライナーとエドガーが周囲へ目を配っている。

四人とも厚手の毛皮の外套に身を包み、帝国騎士の象徴ともいえる金属鎧は隠していた。

荷馬に積んだ布や保存食、酒樽も交易商隊を装うためのものだ。

遠目には小さな商隊にしか見えないが、その足取りに旅人らしい気安さはなかった。

進むほど、空気が変わっていく。

冷たさではない。

もっと底知れない何かが、山の奥から静かに押し寄せていた。

その時、不意にミレイユの足が止まる。

アロイスが振り返った。

「どうした」

低い声が雪原へ溶ける。

ミレイユは答える代わりに、ゆっくりと北の山並みを見つめた。

吹雪の向こう。

何も見えないはずの彼方へ。

「……起きています」

掠れた声だった。

「まだ距離はあります。でも、今までの装置とは違います」

ライナーが眉をひそめる。

「違うって?」

「もっと強いです」

ミレイユは胸元を押さえ、小さく息を吐いた。

「こちらから探っているのではありません。向こうから……境界へ触れてきています」

その場に沈黙が落ちた。

エドガーが目を細める。

「つまり、あちらにもこちらを感知する力がある、と」

「おそらく……」

言葉を続けようとしたミレイユの肩が、小さく震えた。

冷気のせいではない。

見えない圧力が、じわじわと心へ食い込んできている。

ライナーが険しい顔で北を睨んだ。

彼にも何かがいることは分かる。

だが、それだけだった。

「俺には何も感じねぇぞ」

「私もです」

エドガーが静かに答える。

二人の視線がミレイユへ向いた。

同じ場所に立っている。

同じ山を見ている。

それなのに、彼女だけが遠く離れた何かに触れられている。

その事実が、目に見えない敵よりも不気味だった。

アロイスはそれ以上問いたださなかった。

「進む」

短い一言に、四人は再び歩き始めた。

やがて岩肌が切り立つ谷間へ差しかかる。

雪に埋もれた崖の中腹に、黒い石造りの建造物が口を開けていた。

半ば崩れた巨大な坑道で、周囲には朽ち果てた支柱が並び、雪へ埋もれた線路が奥へ続いている。

「……採掘路か」

ライナーが低く呟く。

エドガーはしゃがみ込み、雪を払った。

黒ずんだ石畳へ、幾何学模様の刻印が浮かび上がる。

「古代帝国式ですね」

指先でなぞりながら続ける。

「坑道というより、採掘施設そのものです」

「共同採掘路だった、という話は本当だったか」

アロイスは入口を見上げた。

崩落した跡はあるものの、人一人が通るには十分な隙間が残されている。

そこから流れ出る空気だけが、不自然なほど冷たかった。

まるで山そのものが息を吐いているようだった。

「……ここです」

ミレイユの声が一段低くなる。

「この先にあります」

アロイスは静かに頷いた。

「入るぞ」

誰も異論はなかった。

闇の中へ一歩足を踏み入れると、途端に外の風音が遠ざかった。

代わりに耳へ届くのは、自分たちの足音だけだった。

壁には錆びついた採掘道具や崩れた荷車が残され、線路の上には朽ちた鉱石運搬車が横たわっている。

どれも長い年月を経ているはずなのに、なぜか「つい昨日まで使われていた」ような気配だけが残っていた。

ライナーが辺りを見回しながら肩をすくめる。

「なんか嫌な感じだな」

いつもの軽口ではない。

本音だった。

「静かすぎる」

エドガーも頷く。

「ええ。作業場というのは、本来もっと生活の痕跡が残るものです」

食器や寝具、休憩所といったものが、ほとんど見当たらない。

まるで、人だけが忽然と消えたようだった。

その時。

カン――……

乾いた音が坑道の奥から響く。

全員の足が止まった。

ライナーが息を呑む。

「……聞こえたか」

誰も答えない。

もう一度。

カン……

一定の間隔で、金属を打つような音が暗闇から返ってくる。

採掘の音。

それも、一人ではない。

遠くで幾人もの作業員が岩盤を掘り続けているような、微かな反響だった。

ミレイユの顔色がさらに白くなる。

「違います」

震える声で呟く。

「あれは音ではありません」

「……どういう意味です」

エドガーが問う。

ミレイユは耳ではなく、自分の胸へ手を当てた。

「あれは……記憶です」

ライナーが怪訝そうに眉を寄せる。

「記憶?」

「ここにいた人たちのものだと思います」

「俺たちにも聞こえてるぞ」

「おそらく、聞こえているものは同じです。でも……」

ミレイユの表情が強張った。

「私には、その奥まで入ってきます」

その瞬間だった。

――掘れ。

誰かの声が頭の奥へ流れ込む。

ミレイユの足が止まった。

続いて、

――止まるな。

――終わっていない。

――働け。

声だけではない。

疲労。

焦燥。

逃げたいという願い。

それすら許されなかった絶望。

見知らぬ誰かの感情が、自分のもののように胸の内側へ流れ込んでくる。

「っ……」

壁へ手をつき、浅く息を吐く。

すぐ横から腕が伸びた。

「ミレイユ」

アロイスだった。

「……大丈夫、です」

そう答える声に力はない。

「それのどこが大丈夫なんだよ」

ライナーが思わず口を挟む。

ミレイユは答えなかった。

アロイスは数秒だけ彼女を見つめる。

「無理はするな」

「……はい」

小さく頷き、再び歩き出した。

やがて坑道はゆるやかな下り坂へ変わり、進むほど振動が強くなっていく。

足裏へ伝わる低く重い鼓動は地鳴りではない。

何か巨大なものが、今も地下で動き続けている音だった。

そして最後の曲がり角を抜けた瞬間、四人の視界が一気に開けた。

そこには巨大な地下空洞が広がっていた。

聞こえるのは、床を伝う低い振動だけ。

その中央には黒い石柱がそびえ立ち、幾重にも重なった光の環がゆっくりと回転している。

挿絵(By みてみん)

表面を覆う青白い氷の奥では、無数の古代文字が淡く明滅し、まるで脈打つ心臓のように規則正しく光を放っていた。

氷に覆われながらなお脈動を続ける黒い遺構は、まるで山の心臓そのものだった。

「……なんだ、これ」

ライナーが思わず息を漏らす。

いつもの余裕はない。

エドガーも眉間へ手を当て、小さく息を吐いた。

「嫌な予感しかしませんね」

アロイスは遺構を見上げたまま、腰の剣へ手を添えていた。

だが、目の前にあるものが相手では、剣が何の役にも立たないことくらい分かっている。

遺構へ近づくほど、頭の奥へ直接声が流れ込んでくる。

――働け。

――止まるな。

――終わらせろ。

無数の声が折り重なり、一つの命令となって心を押し潰そうとしていた。

ミレイユは胸元を押さえ、苦しげに息を吐く。

境界が軋み、自分と他者との輪郭が少しずつ曖昧になっていく。

「……っ」

膝が揺らいだ。

すぐ隣から腕が伸び、その身体を支える。

「ミレイユ」

低く落ち着いた声だった。

アロイスの腕が肩を支えている。

その温もりだけが、辛うじて現実へ引き戻してくれた。

「……まだ、大丈夫です」

言葉とは裏腹に、その顔色は青白い。

誰の目にも無理をしていることは明らかだった。

「これ以上は干渉するな」

アロイスは短く告げた。

命令に近い声音だった。

だが、ミレイユは静かに首を横へ振る。

「ここで止めなければ……もっと広がります」

「失敗したらどうなる」

ミレイユは口を閉ざした。

「……分かりません」

「お前自身は」

今度は答えがなかった。

その沈黙が答えだった。

ライナーが顔をしかめる。

「おい。それ、洒落になってねぇだろ」

「ですが、このままにはできません」

ミレイユは遺構を見上げる。

声は弱い。

それでも、その瞳だけは揺らいでいなかった。

「休眠させます」

アロイスは何も言わず、ミレイユを見つめた。

止めることはできる。

力ずくでここから連れ出すこともできる。

だが、そうすればこの遺構は動き続ける。

やがて、この山だけでは済まなくなるかもしれない。

「……できるか」

問いではなく、確認だった。

ミレイユは深く息を吸う。

「やります」

その一言だけを残し、ゆっくりと遺構へ歩み寄った。

一歩。

また一歩。

近づくたびに頭の中の声が増えていく。

――掘れ。

――止まるな。

――まだ終わっていない。

疲労。

絶望。

怒り。

悲鳴。

数え切れないほどの感情が、何百年もの時を越えて押し寄せてくる。

「……眠ってください」

そっと手を伸ばす。

指先が装置へ触れた、その瞬間だった。

世界が白く弾けた。

膨大な情報が一気に流れ込む。

見知らぬ坑道。

暗闇。

崩れ落ちる岩盤。

血の滲んだ手。

眠ることも許されず、ひたすら岩を掘り続ける人々。

誰かが泣いている。

誰かが倒れている。

それでも、

――働け。

命令だけは止まらない。

終わることなく繰り返される。

「……ぁっ」

呼吸が乱れた。

境界が崩れ、自分が誰なのかさえ曖昧になっていく。

*

「ミレイユ?」

アロイスが呼びかける。

返事はなかった。

ミレイユは遺構へ手を触れた姿勢のまま、動かない。

「おい」

ライナーが一歩踏み出した。

「ミレイユ!」

それでも反応はない。

アロイスがその腕を掴もうとした瞬間、エドガーが鋭く声を上げた。

「待ってください」

アロイスの手が止まる。

「今の彼女がどこまで遺構と繋がっているか分かりません。下手に触れれば、こちらまで干渉を受ける可能性があります」

「じゃあ、このまま見てろってのか」

ライナーの声に苛立ちが滲む。

エドガーは答えなかった。

答えられなかった。

目の前にいる。

手を伸ばせば届く。

それなのに、助けるための手段がない。

アロイスは伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。

その拳が、強く握られる。

「……ミレイユ」

もう一度。

今度は、ただ名前だけを呼んだ。

*

声が遠い。

誰かが自分を呼んでいるような気がする。

けれど、それが誰なのか分からない。

――働け。

――掘れ。

――止まるな。

何百もの声が、それを塗り潰していく。

自分の記憶さえ、少しずつ遠ざかっていく。

森の小さな家。

初めて触れた魔術。

誰かの笑い声。

大切だったはずのものが、輪郭を失っていく。

(……持っていかれる)

その時だった。

左手の指輪が、淡く光を放つ。

温かな魔力が静かに流れ込んできた。

懐かしい。

優しい。

忘れるはずのない感覚。

(……先生)

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