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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第18話:越境

夜明け前の監視砦は、まだ深い闇に包まれていた。

昨夜まで降り続いていた雪はようやく止み、空にはわずかな星が残っている。

吐く息は白く、張り詰めた冷気が頬を刺した。

砦の門前では、出発の準備が静かに進められている。

並ぶのは三頭の北方種の馬。

寒冷地で育った頑健な馬は脚が太く、白い息を吐きながら静かに地面を踏み鳴らしていた。

一頭には荷が積まれている。

布地。

干し肉。

乾燥野菜。

酒樽。

旅人の目には、小規模な交易商隊としか映らないだろう。

それが今回の偽装だった。

「……寒っ」

毛皮の外套へ顔を埋めながら、ライナーが肩を震わせる。

「まだ鼻が付いてるか?」

指先で鼻先を触る。

「もげそうなんだけど」

ぶつぶつ文句を言いながら荷馬の背を叩く姿は、緊張感とは無縁だった。

エドガーが横目で見て、小さくため息をつく。

「まだ帝国内ですよ」

淡々と告げる。

「北方国へ入れば、その程度の感想を言う余裕もなくなるでしょう」

ライナーは露骨に顔をしかめた。

「最悪じゃねぇか」

そう言いながらも、口元はどこか楽しそうだ。

危険な任務だというのに、この男は昔からこうだった。

アロイスは二人へ構うことなく、自らの装備を確かめている。

金属鎧は身につけていない。

この寒さでは鉄は体温を奪うだけではない。

素肌で触れれば一瞬で張り付き、無理に剥がせば皮膚ごと持っていかれる。

極寒の地では、鎧は身を守る道具ではなく、ときに命を奪う重りへ変わる。

そのため全員が厚手の防寒着へ毛皮を重ね、腰へ最低限の武装だけを帯びていた。

騎士というより、旅商人の護衛といった姿だった。

その隣へ、静かにミレイユが歩み寄る。

彼女もまた、普段とはまるで違う格好をしていた。

深い紺色の外套の上から、白銀色の毛皮をたっぷりと羽織っている。

首元まで包まれ、小さな顔だけが覗いていた。

普段よりもさらに華奢に見える。

というより──。

「……待て」

ライナーが吹き出した。

肩を震わせながら指を差す。

「なんだその格好」

ミレイユがきょとんと首を傾げる。

「……変でしょうか」

「変じゃねぇ」

ライナーは笑いを堪えながら首を振った。

「めちゃくちゃ北の生き物だ」

「北の……?」

「雪原歩いてても絶対保護されるやつ」

とうとう笑い始める。

「迷子の雪獣かと思うぞ」

ミレイユは困ったように自分の毛皮を見下ろした。

「そんなに……ですか」

エドガーが額へ手を当てる。

「ライナー」

低い声だった。

「出発前から女性を雪獣扱いするのはやめなさい」

「だって似てんだもん」

悪びれる様子はまったくない。

「ほら、もこもこで白くて──」

「似合っている」

低い声が、その言葉を遮った。

一瞬、全員の動きが止まる。

アロイスだった。

彼はミレイユを一度だけ見て、何でもないことのように続ける。

「暖かそうだ」

それだけ。

本当に、それだけだった。

ライナーがゆっくりアロイスを見る。

それからミレイユを見る。

最後にもう一度アロイスを見る。

「……おい」

小さく呟いた。

エドガーは空を見上げる。

(始まりましたね)

そんな顔である。

当のミレイユは耳まで赤くなり、毛皮へ半分顔を隠してしまった。

「……ありがとう、ございます」

かろうじて返事だけが聞こえる。

アロイスは頷いただけだった。

本人に他意はない。

たぶん。

その空気を断ち切るように、砦長が軽く咳払いをした。

「……そろそろ、お時間です」

アロイスは短く頷く。

「行く」

その一言で全員が動き始めた。

今回の越境は正式なものではない。

大人数では目立つ。

騎士団を率いるなど論外だった。

だから四人だけ。

最小限。

必要な戦力だけを連れて行く。

ライナーは馬を見回しながら口を開いた。

「で、誰がどれ乗るんだ?」

エドガーは当然のように荷馬を指差す。

「あなたがあれです」

「なんでだよ!」

即座に抗議が飛ぶ。

「適任でしょう」

「どこが!」

「護衛崩れの商人らしく見えます」

「それ悪口だろ!」

「褒めております」

「絶対違う!」

二人のやり取りへ苦笑しながら、ミレイユは大型馬を見上げた。

北方種は帝国の馬より一回り大きい。

鞍の位置も高い。

どう見ても簡単には乗れそうになかった。

アロイスがその様子へ気付く。

「乗れるか」

短く問いかける。

ミレイユは馬と自分を見比べ、小さく笑った。

「……頑張ります」

その返事に、ライナーが吹き出す。

「頑張る問題か、それ」

エドガーまで口元を押さえた。

「高さは気合いで解決しませんよ」

ミレイユは少しだけ困ったように笑う。

その時だった。

アロイスが自然に右手を差し出す。

「来い」

短い一言だった。

ミレイユは一瞬だけ目を見開く。

それでも迷わず、その手に自分の手を重ねた。

次の瞬間、身体がふわりと浮く。

驚くほど軽々と抱え上げられ、そのまま鞍の前へ座らされる。

「……あ」

声にならない声が漏れた。

アロイスは続けて自らも跨がる。

自然とミレイユの後ろへ収まる形になる。

距離が近い。

毛皮越しでも伝わる体温に、ミレイユの背筋がぴんと伸びた。

アロイスは手綱を握りながら静かに言う。

「前へ」

「……はい」

少しだけ前へ詰める。

「落ちるな」

「はい」

そのやり取りを見ていたライナーが、にやにやと笑った。

「いやぁ」

腕を組む。

「落ちるの、別の意味じゃねぇのこれ」

「黙りなさい」

エドガーの肘が綺麗に脇腹へ入る。

「ぐっ……!」

「朝から余計なことを言わない」

ライナーは脇腹を押さえながら抗議した。

「痛ぇ!」

「自業自得です」

そんな騒がしさをよそに、砦の門がゆっくりと開いていく。

白い世界へ続く道。

アロイスは静かに前を見据えた。

「出発する」

三頭の馬が雪を踏みしめる。

蹄の音だけが、静まり返った雪原へ響いていた。

*

北方国へ足を踏み入れた瞬間、空気はさらに鋭さを増した。

帝国側と空は同じ灰色のはずなのに、冷たさの質がまるで違う。

頬を撫でる風は刃物のようで、吐いた息はすぐに白く砕けていく。

三頭の馬は雪を踏みしめながら街道を進んでいた。

「……寒いとかいう次元じゃねぇぞ」

ライナーが鼻先を押さえながらぼやく。

「痛ぇんだよ、この空気」

「言ったでしょう」

エドガーは前を見たまま淡々と返した。

「まだ冬は始まったばかりです」

「今ので十分帰りたくなったわ」

「残念ですが、却下です」

そんなやり取りにも、アロイスは口を挟まない。

先頭で手綱を握り、周囲の地形と人の動きを静かに見渡している。

その前に座るミレイユは、毛皮へ身を縮めていた。

寒い。

挿絵(By みてみん)

けれど、それだけではない。

胸の奥で、小さな違和感が確かに広がっていた。

見えない糸が、北へ北へと引かれていくような感覚。

まだ細い。

だが、昨日よりも確実に強くなっている。

その様子に気づいたのか、アロイスは外套の裾を少しだけ引き寄せた。

吹き込む風が遮られる。

「……ありがとうございます」

小さく礼を言うと、返事は短かった。

「ああ」

それだけ。

それでも十分だった。

ライナーが後ろからにやりと笑う。

「団長、仕事が細けぇな」

「前を見ていてください」

エドガーが即座にたしなめる。

「はいはい」

返事だけは素直だった。

だが、その口元は笑ったままだった。

*

半日ほど進むと、小さな集落が見えてきた。

低い屋根の木造家屋。

煙突から立ち上る白煙。

薪を割る音。

見慣れた北方の村の光景――のはずだった。

「……変ですね」

エドガーが小さく呟く。

ライナーも眉をひそめた。

薪を運ぶ男。

水を汲む女。

雪を掻く老人。

誰もが働いている。

それ自体は珍しくない。

だが、表情が違った。

疲れている。

ひどく疲れている。

それでも、誰一人として手を止めようとしない。

休息という概念そのものが消えてしまったように。

ミレイユの胸がざわつく。

「……広がっています」

小さな声だった。

「砦よりも、こちらの方が強いです」

アロイスは何も言わず、村人たちを見つめる。

働き続ける姿。

焦点の定まらない瞳。

誰も笑わない顔。

違和感は、もはや確信へ変わりつつあった。

日が傾く頃、一行は街道沿いの宿場村へ到着した。

木造二階建ての宿。

扉を開けると、暖炉の熱気が凍えた身体を包み込む。

「生き返る……」

ライナーが思わず漏らした。

その直後だった。

ミレイユの足が止まる。

背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がった。

「……どうした」

アロイスがすぐに気づく。

ミレイユは宿の奥ではなく、そのさらに先を見つめていた。

見えない北。

山脈の向こう。

「……近いです」

静かな声だった。

「昨日より、ずっと」

宿の中を見回す。

客は数人。

食事をしている者。

酒を飲んでいる者。

暖炉へ手をかざす者。

皆、疲れ切っている。

それなのに、気を抜いている者は一人もいなかった。

休んでいるようで、休めていない。

心だけが、何かに急き立てられている。

「……この村もか」

アロイスが低く呟く。

ミレイユは頷いた。

「まだ浅いです。でも、確実に侵されています」

宿の主人が無愛想に鍵を三本置く。

「部屋は三つだ」

それだけ言うと、すぐに仕事へ戻っていく。

歩き方まで妙に規則正しい。

エドガーはその背中を見送り、小さく息を吐いた。

「……働き者、というだけでは説明がつきませんね」

「だな」

珍しくライナーも真顔だった。

その空気を破ったのは、宿の鍵だった。

「三部屋?」

ライナーが首をかしげる。

「じゃあ俺、一人部屋な」

「却下です」

エドガーの返事は一瞬だった。

「閣下とミレイユ殿で一部屋……ではありません」

ライナーが期待したような顔をした瞬間、エドガーは続ける。

「閣下が一部屋。ミレイユ殿が一部屋。残りは私とライナーです」

「なんでだよ!」

「問題児を放し飼いにはできません」

「誰が問題児だ!」

「自覚がないところです」

「お前も大概だからな!」

「ええ、自覚しております」

即答だった。

ライナーが一瞬言葉に詰まる。

「……ずりぃ」

「ありがとうございます」

「褒めてねぇ!」

宿の空気が少しだけ緩む。

ミレイユは思わず小さく笑った。

その笑みに気づき、アロイスの表情もほんのわずかだけ和らぐ。

エドガーはそれを見逃さない。

(……変わりましたね)

以前のアロイスなら、任務中にそんな顔はしなかった。

今は違う。

張り詰めたままではなく、戻る場所がある人間の顔になっている。

その時だった。

ミレイユの身体がふらりと揺れる。

疲労。

精神感知の負荷。

長距離の移動。

限界が近い。

倒れるより早く、アロイスの腕が支えた。

「……大丈夫か」

低い声。

ミレイユは小さく頷こうとする。

「はい……」

だが、その声には力がない。

アロイスは数秒だけ彼女を見つめ、それから静かに言った。

「今日は休め」

反論を許さない口調だった。

「明日からは、もっと厳しくなる」

その一言に、ミレイユは素直に頷く。

「……はい」

返事を聞いてから、アロイスはようやく手を離した。

ライナーが支えられたミレイユと、その様子を見つめるアロイスを交互に見て、肩をすくめた。

「なぁ」

「何でしょう」

エドガーが視線だけ向ける。

ライナーは呆れたように笑った。

「"鉄血公爵"の名、どこいった? って感じだ」

エドガーも思わずアロイスへ目を向ける。

かつて戦場で無敗を誇り、帝国を裏切った父と兄を自ら粛清した男。

その冷徹さから、人々は畏怖を込めて"鉄血公爵"と呼んだ。

感情よりも合理。

情よりも責務。

誰もがそういう男だと思っていた。

その本人が今は、倒れかけた少女を当たり前のように支え、体調を気遣っている。

ライナーは肩を竦める。

「昔なら、『立てるな』の一言で終わってただろ」

エドガーは小さく笑った。

「ええ」

そして穏やかに続ける。

「ですが、私は今の閣下の方が好きですよ」

ライナーは一瞬だけ目を丸くし、それから吹き出した。

「お前、それ本人の前で言えよ」

「絶対に言いません」

「言えねぇのかよ」

「恥ずかしいでしょう」

「お前が!?」

二人のやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。

暖炉の火が静かに揺れる。

束の間の安らぎだった。

この先に待つものが、それを長くは許してくれないことを、四人はまだ知らない。

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