第18話:越境
夜明け前の監視砦は、まだ深い闇に包まれていた。
昨夜まで降り続いていた雪はようやく止み、空にはわずかな星が残っている。
吐く息は白く、張り詰めた冷気が頬を刺した。
砦の門前では、出発の準備が静かに進められている。
並ぶのは三頭の北方種の馬。
寒冷地で育った頑健な馬は脚が太く、白い息を吐きながら静かに地面を踏み鳴らしていた。
一頭には荷が積まれている。
布地。
干し肉。
乾燥野菜。
酒樽。
旅人の目には、小規模な交易商隊としか映らないだろう。
それが今回の偽装だった。
「……寒っ」
毛皮の外套へ顔を埋めながら、ライナーが肩を震わせる。
「まだ鼻が付いてるか?」
指先で鼻先を触る。
「もげそうなんだけど」
ぶつぶつ文句を言いながら荷馬の背を叩く姿は、緊張感とは無縁だった。
エドガーが横目で見て、小さくため息をつく。
「まだ帝国内ですよ」
淡々と告げる。
「北方国へ入れば、その程度の感想を言う余裕もなくなるでしょう」
ライナーは露骨に顔をしかめた。
「最悪じゃねぇか」
そう言いながらも、口元はどこか楽しそうだ。
危険な任務だというのに、この男は昔からこうだった。
アロイスは二人へ構うことなく、自らの装備を確かめている。
金属鎧は身につけていない。
この寒さでは鉄は体温を奪うだけではない。
素肌で触れれば一瞬で張り付き、無理に剥がせば皮膚ごと持っていかれる。
極寒の地では、鎧は身を守る道具ではなく、ときに命を奪う重りへ変わる。
そのため全員が厚手の防寒着へ毛皮を重ね、腰へ最低限の武装だけを帯びていた。
騎士というより、旅商人の護衛といった姿だった。
その隣へ、静かにミレイユが歩み寄る。
彼女もまた、普段とはまるで違う格好をしていた。
深い紺色の外套の上から、白銀色の毛皮をたっぷりと羽織っている。
首元まで包まれ、小さな顔だけが覗いていた。
普段よりもさらに華奢に見える。
というより──。
「……待て」
ライナーが吹き出した。
肩を震わせながら指を差す。
「なんだその格好」
ミレイユがきょとんと首を傾げる。
「……変でしょうか」
「変じゃねぇ」
ライナーは笑いを堪えながら首を振った。
「めちゃくちゃ北の生き物だ」
「北の……?」
「雪原歩いてても絶対保護されるやつ」
とうとう笑い始める。
「迷子の雪獣かと思うぞ」
ミレイユは困ったように自分の毛皮を見下ろした。
「そんなに……ですか」
エドガーが額へ手を当てる。
「ライナー」
低い声だった。
「出発前から女性を雪獣扱いするのはやめなさい」
「だって似てんだもん」
悪びれる様子はまったくない。
「ほら、もこもこで白くて──」
「似合っている」
低い声が、その言葉を遮った。
一瞬、全員の動きが止まる。
アロイスだった。
彼はミレイユを一度だけ見て、何でもないことのように続ける。
「暖かそうだ」
それだけ。
本当に、それだけだった。
ライナーがゆっくりアロイスを見る。
それからミレイユを見る。
最後にもう一度アロイスを見る。
「……おい」
小さく呟いた。
エドガーは空を見上げる。
(始まりましたね)
そんな顔である。
当のミレイユは耳まで赤くなり、毛皮へ半分顔を隠してしまった。
「……ありがとう、ございます」
かろうじて返事だけが聞こえる。
アロイスは頷いただけだった。
本人に他意はない。
たぶん。
その空気を断ち切るように、砦長が軽く咳払いをした。
「……そろそろ、お時間です」
アロイスは短く頷く。
「行く」
その一言で全員が動き始めた。
今回の越境は正式なものではない。
大人数では目立つ。
騎士団を率いるなど論外だった。
だから四人だけ。
最小限。
必要な戦力だけを連れて行く。
ライナーは馬を見回しながら口を開いた。
「で、誰がどれ乗るんだ?」
エドガーは当然のように荷馬を指差す。
「あなたがあれです」
「なんでだよ!」
即座に抗議が飛ぶ。
「適任でしょう」
「どこが!」
「護衛崩れの商人らしく見えます」
「それ悪口だろ!」
「褒めております」
「絶対違う!」
二人のやり取りへ苦笑しながら、ミレイユは大型馬を見上げた。
北方種は帝国の馬より一回り大きい。
鞍の位置も高い。
どう見ても簡単には乗れそうになかった。
アロイスがその様子へ気付く。
「乗れるか」
短く問いかける。
ミレイユは馬と自分を見比べ、小さく笑った。
「……頑張ります」
その返事に、ライナーが吹き出す。
「頑張る問題か、それ」
エドガーまで口元を押さえた。
「高さは気合いで解決しませんよ」
ミレイユは少しだけ困ったように笑う。
その時だった。
アロイスが自然に右手を差し出す。
「来い」
短い一言だった。
ミレイユは一瞬だけ目を見開く。
それでも迷わず、その手に自分の手を重ねた。
次の瞬間、身体がふわりと浮く。
驚くほど軽々と抱え上げられ、そのまま鞍の前へ座らされる。
「……あ」
声にならない声が漏れた。
アロイスは続けて自らも跨がる。
自然とミレイユの後ろへ収まる形になる。
距離が近い。
毛皮越しでも伝わる体温に、ミレイユの背筋がぴんと伸びた。
アロイスは手綱を握りながら静かに言う。
「前へ」
「……はい」
少しだけ前へ詰める。
「落ちるな」
「はい」
そのやり取りを見ていたライナーが、にやにやと笑った。
「いやぁ」
腕を組む。
「落ちるの、別の意味じゃねぇのこれ」
「黙りなさい」
エドガーの肘が綺麗に脇腹へ入る。
「ぐっ……!」
「朝から余計なことを言わない」
ライナーは脇腹を押さえながら抗議した。
「痛ぇ!」
「自業自得です」
そんな騒がしさをよそに、砦の門がゆっくりと開いていく。
白い世界へ続く道。
アロイスは静かに前を見据えた。
「出発する」
三頭の馬が雪を踏みしめる。
蹄の音だけが、静まり返った雪原へ響いていた。
*
北方国へ足を踏み入れた瞬間、空気はさらに鋭さを増した。
帝国側と空は同じ灰色のはずなのに、冷たさの質がまるで違う。
頬を撫でる風は刃物のようで、吐いた息はすぐに白く砕けていく。
三頭の馬は雪を踏みしめながら街道を進んでいた。
「……寒いとかいう次元じゃねぇぞ」
ライナーが鼻先を押さえながらぼやく。
「痛ぇんだよ、この空気」
「言ったでしょう」
エドガーは前を見たまま淡々と返した。
「まだ冬は始まったばかりです」
「今ので十分帰りたくなったわ」
「残念ですが、却下です」
そんなやり取りにも、アロイスは口を挟まない。
先頭で手綱を握り、周囲の地形と人の動きを静かに見渡している。
その前に座るミレイユは、毛皮へ身を縮めていた。
寒い。
けれど、それだけではない。
胸の奥で、小さな違和感が確かに広がっていた。
見えない糸が、北へ北へと引かれていくような感覚。
まだ細い。
だが、昨日よりも確実に強くなっている。
その様子に気づいたのか、アロイスは外套の裾を少しだけ引き寄せた。
吹き込む風が遮られる。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言うと、返事は短かった。
「ああ」
それだけ。
それでも十分だった。
ライナーが後ろからにやりと笑う。
「団長、仕事が細けぇな」
「前を見ていてください」
エドガーが即座にたしなめる。
「はいはい」
返事だけは素直だった。
だが、その口元は笑ったままだった。
*
半日ほど進むと、小さな集落が見えてきた。
低い屋根の木造家屋。
煙突から立ち上る白煙。
薪を割る音。
見慣れた北方の村の光景――のはずだった。
「……変ですね」
エドガーが小さく呟く。
ライナーも眉をひそめた。
薪を運ぶ男。
水を汲む女。
雪を掻く老人。
誰もが働いている。
それ自体は珍しくない。
だが、表情が違った。
疲れている。
ひどく疲れている。
それでも、誰一人として手を止めようとしない。
休息という概念そのものが消えてしまったように。
ミレイユの胸がざわつく。
「……広がっています」
小さな声だった。
「砦よりも、こちらの方が強いです」
アロイスは何も言わず、村人たちを見つめる。
働き続ける姿。
焦点の定まらない瞳。
誰も笑わない顔。
違和感は、もはや確信へ変わりつつあった。
日が傾く頃、一行は街道沿いの宿場村へ到着した。
木造二階建ての宿。
扉を開けると、暖炉の熱気が凍えた身体を包み込む。
「生き返る……」
ライナーが思わず漏らした。
その直後だった。
ミレイユの足が止まる。
背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がった。
「……どうした」
アロイスがすぐに気づく。
ミレイユは宿の奥ではなく、そのさらに先を見つめていた。
見えない北。
山脈の向こう。
「……近いです」
静かな声だった。
「昨日より、ずっと」
宿の中を見回す。
客は数人。
食事をしている者。
酒を飲んでいる者。
暖炉へ手をかざす者。
皆、疲れ切っている。
それなのに、気を抜いている者は一人もいなかった。
休んでいるようで、休めていない。
心だけが、何かに急き立てられている。
「……この村もか」
アロイスが低く呟く。
ミレイユは頷いた。
「まだ浅いです。でも、確実に侵されています」
宿の主人が無愛想に鍵を三本置く。
「部屋は三つだ」
それだけ言うと、すぐに仕事へ戻っていく。
歩き方まで妙に規則正しい。
エドガーはその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「……働き者、というだけでは説明がつきませんね」
「だな」
珍しくライナーも真顔だった。
その空気を破ったのは、宿の鍵だった。
「三部屋?」
ライナーが首をかしげる。
「じゃあ俺、一人部屋な」
「却下です」
エドガーの返事は一瞬だった。
「閣下とミレイユ殿で一部屋……ではありません」
ライナーが期待したような顔をした瞬間、エドガーは続ける。
「閣下が一部屋。ミレイユ殿が一部屋。残りは私とライナーです」
「なんでだよ!」
「問題児を放し飼いにはできません」
「誰が問題児だ!」
「自覚がないところです」
「お前も大概だからな!」
「ええ、自覚しております」
即答だった。
ライナーが一瞬言葉に詰まる。
「……ずりぃ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ!」
宿の空気が少しだけ緩む。
ミレイユは思わず小さく笑った。
その笑みに気づき、アロイスの表情もほんのわずかだけ和らぐ。
エドガーはそれを見逃さない。
(……変わりましたね)
以前のアロイスなら、任務中にそんな顔はしなかった。
今は違う。
張り詰めたままではなく、戻る場所がある人間の顔になっている。
その時だった。
ミレイユの身体がふらりと揺れる。
疲労。
精神感知の負荷。
長距離の移動。
限界が近い。
倒れるより早く、アロイスの腕が支えた。
「……大丈夫か」
低い声。
ミレイユは小さく頷こうとする。
「はい……」
だが、その声には力がない。
アロイスは数秒だけ彼女を見つめ、それから静かに言った。
「今日は休め」
反論を許さない口調だった。
「明日からは、もっと厳しくなる」
その一言に、ミレイユは素直に頷く。
「……はい」
返事を聞いてから、アロイスはようやく手を離した。
ライナーが支えられたミレイユと、その様子を見つめるアロイスを交互に見て、肩をすくめた。
「なぁ」
「何でしょう」
エドガーが視線だけ向ける。
ライナーは呆れたように笑った。
「"鉄血公爵"の名、どこいった? って感じだ」
エドガーも思わずアロイスへ目を向ける。
かつて戦場で無敗を誇り、帝国を裏切った父と兄を自ら粛清した男。
その冷徹さから、人々は畏怖を込めて"鉄血公爵"と呼んだ。
感情よりも合理。
情よりも責務。
誰もがそういう男だと思っていた。
その本人が今は、倒れかけた少女を当たり前のように支え、体調を気遣っている。
ライナーは肩を竦める。
「昔なら、『立てるな』の一言で終わってただろ」
エドガーは小さく笑った。
「ええ」
そして穏やかに続ける。
「ですが、私は今の閣下の方が好きですよ」
ライナーは一瞬だけ目を丸くし、それから吹き出した。
「お前、それ本人の前で言えよ」
「絶対に言いません」
「言えねぇのかよ」
「恥ずかしいでしょう」
「お前が!?」
二人のやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
暖炉の火が静かに揺れる。
束の間の安らぎだった。
この先に待つものが、それを長くは許してくれないことを、四人はまだ知らない。




