第17話:坑道
北へ向かう空は、どこまでも灰色だった。
帝都を離れるにつれ、景色から少しずつ色彩が失われていく。
街道沿いに並ぶ木々は細く、葉を落とした枝が冷たい風に軋んでいた。
吹きつける風は決して強くはない。
それでも、肌を刺すような冷たさだけが際立っている。
馬車の車輪が凍った地面を軋ませ、規則正しい蹄の音が静かな山道へ響いていた。
周囲を護衛する騎士たちも口数は少ない。
誰も無駄話をしない。
それだけ、この任務の重さを理解していた。
馬車の中では、アロイスが窓の外を静かに眺めている。
向かいにはミレイユ。
膝の上で両手を重ね、じっと視線を落としていた。
北方国境監視砦。
数日前に届いた報告は、すでに帝都中へ知れ渡っている。
兵士たちの錯乱。
同士討ち。
休息を拒み続ける異常行動。
そして地下坑道で発見された、古代帝国様式の刻印。
どれ一つとして軽く受け流せる話ではなかった。
だが、ミレイユだけは理解している。
――これは単なる事件ではない。
胸の奥で冷たい感覚が脈打つ。
北へ進むほど、それははっきりと輪郭を帯び始めていた。
(……いる)
まだ遠い。
それでも確かに感じる。
言葉にはできない"何か"が、こちらを待っている。
馬車がゆっくりと速度を落とした。
外から御者の声が響く。
「閣下、到着いたしました」
アロイスは静かに立ち上がる。
「行こう」
短く告げると、ミレイユも頷いて後に続いた。
扉が開いた瞬間、鋭い冷気が車内へ流れ込む。
思わず息を呑むほどの寒さだった。
砦は岩山へ食い込むように築かれている。
灰色の石壁。
雪を被った見張り塔。
吹き溜まりになった中庭。
空そのものが低く垂れ込め、辺り一帯を重苦しい色へ染めていた。
迎えに現れた兵士たちも顔色が悪い。
寝不足。
疲労。
そして何より、隠しきれない怯えがその表情に滲んでいる。
隊長格と思われる男が歩み寄り、深く一礼した。
「お待ちしておりました、シュタルク公爵閣下」
声は掠れ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
何日もまともに眠れていないのだろう。
アロイスは余計な挨拶を挟まなかった。
「状況は」
隊長は周囲へ視線を巡らせる。
部下たちが耳を澄ませていないことを確認すると、小さく答えた。
「……中で、ご説明いたします」
それだけで十分だった。
砦の会議室は暖炉へ火が入っているにもかかわらず、不思議なほど寒かった。
温度ではない。
空気そのものが冷え切っている。
机の上には周辺地図が広げられ、赤い印がいくつも書き込まれていた。
隊長は深く息を吸い、静かに話し始める。
「最初は過労による錯乱だと思っておりました」
指先で北側坑道を示す。
「監視任務が長期間続き、兵たちの疲労も限界でしたから」
誰も口を挟まない。
「ですが」
その声が少し低くなる。
「連中は休まなくなりました」
部屋の空気がさらに重くなる。
「交代命令を出しても持ち場を離れません。負傷しても作業を止めず、休息命令にも従わない」
一枚の報告書が机へ置かれる。
そこには血痕の付いた現場記録が残されていた。
「止めようとした兵へ『邪魔をするな』と襲いかかった者もおります」
ミレイユの指先が、かすかに震える。
隊長は続けた。
「現在は地下隔離区画へ収容しております」
アロイスは静かに目を細めた。
「会わせろ」
迷いのない一言だった。
隊長は一瞬だけ躊躇したものの、小さく頷く。
「……こちらです」
地下へ続く石段を下りるにつれ、空気が湿り気を帯び始める。
壁には古い染みが残り、鉄製の燭台だけが頼りなく周囲を照らしていた。
やがて重い鉄扉が開く。
その先には隔離区画が並んでいた。
鉄格子の向こう側には数人の兵士がいる。
だが、その姿は異様だった。
誰一人として休んでいない。
座ったまま。
立ったまま。
眠ることもなく。
指先だけが絶え間なく動いている。
床を掘るように。
岩を砕くように。
そこには何もない。
それでも彼らは、見えない作業を延々と繰り返していた。
一人の兵士が掠れた声で呟く。
「……まだだ」
爪は割れ、血が滲んでいる。
それでも指は止まらない。
「止めるな」
「終わってない」
その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの呼吸が浅くなった。
違う。
前回の装置とは違う。
もっと鈍い。
もっと重い。
まるで巨大な歯車が、終わることなく回り続けるような圧迫感。
止まることを許さない意志だけが、人の心へ食い込んでいる。
その時だった。
一人の兵士が、がたりと顔を上げる。
焦点の定まらない瞳が、まっすぐミレイユを捉えた。
「……お前も働け」
空気が凍りつく。
次の瞬間、兵士は鉄格子へ身体ごと叩きつけるように突進した。
激しい金属音が地下へ響く。
騎士たちが反射的に前へ出る。
だが兵士は止まらない。
額が裂けても。
腕から血が流れても。
痛みなど存在しないかのように鉄格子へ何度も身体を打ちつける。
「止まるな!」
絶叫が響く。
「掘れ!!」
騎士がミレイユを庇おうと前へ出る。
「ミレイユ様、お下がりください!」
しかし、ミレイユは静かに首を横へ振った。
そのまま鉄格子の前まで歩み寄る。
暴れ続ける兵士を、まっすぐ見つめながら。
ミレイユはゆっくりと息を吸い、鉄格子の前へ歩み寄った。
「危険です!」
騎士の一人が思わず制止する。
だが、ミレイユは静かに首を横へ振った。
「大丈夫です」
その声は震えていなかった。
兵士はなおも鉄格子へ身体を打ちつけている。
「掘れ!」
「止まるな!」
「まだ終わってない!」
爪は割れ、指先は血に染まり、それでもなお床を掻き続ける。
まるで身体だけが、誰かの命令へ従い続けているようだった。
ミレイユは鉄格子へそっと手を添える。
瞳を閉じ、意識を静かに沈めていく。
冷たい。
暗い。
重い。
兵士の奥深くへ絡みついた何かが、確かにそこにあった。
命令。
ただ一つ。
――働け。
止まることは許されない。
休むことも許されない。
その意思だけが、人の心を押し潰している。
「……見つけました」
ミレイユが小さく呟いた。
その瞬間、空気がかすかに震える。
兵士の身体がびくりと跳ねた。
「――ぁ……」
荒々しかった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
焦点を失っていた瞳へ、ゆっくりと光が戻った。
兵士は自分の手を見る。
割れた爪。
血に濡れた指先。
まるで初めて気付いたように震え始める。
「……俺は……」
そのまま力が抜け、崩れるように眠りへ落ちた。
地下へ静寂が戻る。
誰も言葉を発さない。
ミレイユは立ち止まらなかった。
隣の牢へ移る。
壁へ額を打ち続けていた兵士も、同じように鉄格子越しへ手を伸ばす。
空気が揺れる。
兵士の身体から力が抜ける。
「……痛い」
その一言と同時に涙が零れ落ちた。
まるで今になって、ようやく身体が傷付いていたことを思い出したようだった。
三人目。
四人目。
触れるたび、狂気は静かに剥がれていく。
残されたのは極限まで蓄積した疲労と、壊れかけた身体だった。
最後の一人が眠りへ落ちた瞬間だった。
「……っ」
ミレイユの身体が大きく揺らぐ。
視界が白く霞む。
膝が折れそうになった、その瞬間。
「もういい」
低い声とともに、アロイスが腕を支えた。
しっかりと、だが必要以上に力は入れない。
ミレイユは浅く息を繰り返す。
「……違います」
掠れた声だった。
「治したわけではありません」
ゆっくりと首を振る。
「今は、止めているだけです」
部屋の空気が張り詰める。
「止めている……だけ?」
アロイスが静かに問い返す。
ミレイユは頷いた。
「はい」
まだ呼吸は乱れている。
それでも、その瞳だけは揺れていなかった。
「この方たちを縛っていたものは、まだ消えていません」
胸元へ手を当てる。
「糸のように繋がっています」
「根です」
その一言で、全員の視線が集まった。
「私は、その糸を一時的に緩めただけです」
「ですが……」
ゆっくりと目を閉じる。
意識をさらに深く沈めるように。
静寂が地下を包む。
やがてミレイユは小さく息を吐いた。
「近いです」
その声は、どこか確信を帯びていた。
「ここから、あまり離れていません」
アロイスは静かに反芻する。
「根が近い、か」
ミレイユは頷いた。
「はい」
「この砦そのものではありません」
「もっと北です」
その時、それまで黙っていた砦長が口を開いた。
「……北側には旧坑道があります」
全員の視線が向く。
砦長は地図の一点を指差した。
「かつて帝国と北方国が共同で使用していた採掘路です」
「十年以上前の崩落事故を機に封鎖されました」
「今では誰も近付きません」
アロイスは迷わず立ち上がる。
「案内しろ」
短く、それだけ告げた。
*
雪は深かった。
踏み固められた道を外れるたび、足は膝まで埋まる。
灰色の空からは細かな雪が絶え間なく降り続いていた。
砦長を先頭に、一行は山肌を進む。
やがて岩壁へ口を開ける巨大な坑道が姿を現した。
朽ちた支柱。
歪んだ鉄柵。
崩れた石積み。
人の気配は、もう何年もない。
それでも坑道の奥からは、冷たい空気だけが絶えず流れ出していた。
まるで巨大な生き物が、静かに息をしているようだった。
ミレイユの足が止まる。
その瞬間だった。
ざわり、と空気が震えた。
誰にも見えない何かが、肌を撫でる。
ミレイユはゆっくり目を閉じた。
胸の奥へ意識を沈めていく。
長い沈黙。
騎士たちも誰一人動かない。
やがて、ミレイユが静かに口を開いた。
「……違います」
アロイスが目を細める。
「ここではないのか」
「近いです」
ゆっくりと頷く。
「でも、根はもっと奥です」
その視線が雪山の向こうへ向く。
「国境を越えています」
空気が止まった。
「北方国領……」
誰かが小さく呟く。
当然だった。
帝国外へ正規部隊が踏み込めば、それだけで外交問題になる。
しかも相手は、閉鎖的な北方国。
慎重を欠けば、国同士の火種になりかねない。
アロイスは坑道を見つめたまま考えていた。
必要な人数。
装備。
補給。
痕跡を残さない経路。
すべてを組み立て終えたように、静かに口を開く。
「騎士団はここまでだ」
誰も異論は挟まない。
「これ以上の大人数では動けない」
「少数で越える」
決定だった。
砦長が眉をひそめる。
「危険です」
「ああ」
アロイスは即座に頷く。
「だからこそ、人数は絞る」
その時、ミレイユが小さく口を開いた。
「急いだ方がいいです」
全員が振り向く。
「広がっています」
胸を押さえながら続ける。
「ゆっくりですが、確実に」
砦で起きた異変は、始まりに過ぎない。
放置すれば、同じことが各地で起きる。
その重さを、誰もが理解した。
アロイスは短く息を吐く。
そして砦長へ視線を向けた。
「伝令を出せ」
「二名呼ぶ」
騎士が姿勢を正す。
「誰をお呼びしますか」
アロイスは迷わなかった。
「ライナー」
一拍置き、
「エドガーだ」
その瞬間、騎士たちの表情が何とも言えないものへ変わる。
頼もしい。
だが胃も痛くなる。
そんな顔だった。
アロイスは気にした様子もない。
「最速で頼む」
「はっ!」
伝令は雪煙を上げながら駆け出していく。
その背中を見送りながら、ミレイユは静かに北を見つめた。
雪の向こう。
山脈のさらに向こう。
そこに、装置がある。
その確信だけが、胸の奥で冷たく脈打っていた。
その時だった。
坑道の奥から。
カン――……。
乾いた音が、かすかに響く。
誰もいないはずの暗闇から。
まるで今も誰かが、黙々と岩を掘り続けているかのように。
*
――二日後。
国境監視砦。
朝から雪は勢いを増し、山肌を白く覆っていた。
見張り兵たちは交代しながら外を警戒している。
その時だった。
遠くから馬の蹄が響く。
一騎。
いや、二騎。
驚くほどの速度で雪原を駆けてくる。
「伝令か?」
見張り兵が目を凝らす。
次の瞬間。
「開けろーーーっ!」
山へ響くような大声が飛んできた。
兵士たちが思わず顔を見合わせる。
「あれは……」
門が勢いよく開かれる。
雪煙を巻き上げながら飛び込んできたのは、一人の男だった。
「お待たせぇ!」
ライナーである。
全身雪まみれ。
肩には大剣。
本人だけは妙に楽しそうだった。
馬から飛び降りるなり辺りを見回し、大きく息を吸い込む。
「国境越え潜入ってマジか!」
目を輝かせる。
「最高じゃねぇか!」
砦の兵士たちが、何とも言えない表情になる。
緊張感が、少しだけ迷子だった。
その後ろから、もう一人が静かに馬を降りる。
「……朝から元気ですね」
エドガーだった。
マントへ積もった雪を軽く払い、周囲をひと通り見回す。
砦。
兵士たち。
積雪。
そして、坑道へ続く山並み。
数秒観察してから、小さく息を吐いた。
「……思っていた以上に最悪ですね」
率直な感想だった。
ライナーが笑う。
「いい顔してんじゃねぇか」
「してません」
即答。
エドガーはそのままアロイスへ歩み寄り、一礼した。
「事情は道中で伺いました」
そして少しだけ肩を竦める。
「ちなみに、ルドルフ殿は出発前から胃が痛そうなお顔をしておられました」
沈黙。
ライナーが吹き出す。
「そりゃそうだろ!」
腹を抱えて笑う。
「団長と俺とエドガーがまとめて消えるんだぜ?」
「胃薬では足りませんよ」
エドガーは涼しい顔で返した。
「問題児が三人、一度に国外へ行くわけですから」
「お前も入ってんのかよ」
ライナーが笑う。
エドガーは即座に頷いた。
「当然でしょう」
少し間を置き、
「自覚のない問題児が、一番扱いに困ります」
そう言って、まっすぐアロイスを見る。
一瞬の沈黙。
ライナーが堪えきれず吹き出した。
「言われてんぞ、団長」
アロイスは眉一つ動かさない。
「否定はしない」
「しないんだ……」
ライナーが肩を震わせる。
そのやり取りを見ていたミレイユは、小さく息を吐いた。
砦へ着いてから張りつめ続けていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
だが、それも束の間だった。
アロイスは全員を見渡し、静かに告げる。
「準備が整い次第、出発する」
誰も軽口を返さない。
ライナーも、エドガーも。
二人とも、その声の重さを理解していた。
視線の先には、雪に閉ざされた北の山脈がある。
その向こう。
北方国。
そして、まだ姿を見せぬ古代装置。
いよいよ、誰も足を踏み入れたことのない領域へ向かう。




