↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
PR
75/144

第17話:坑道

北へ向かう空は、どこまでも灰色だった。

帝都を離れるにつれ、景色から少しずつ色彩が失われていく。

街道沿いに並ぶ木々は細く、葉を落とした枝が冷たい風に軋んでいた。

吹きつける風は決して強くはない。

それでも、肌を刺すような冷たさだけが際立っている。

馬車の車輪が凍った地面を軋ませ、規則正しい蹄の音が静かな山道へ響いていた。

周囲を護衛する騎士たちも口数は少ない。

誰も無駄話をしない。

それだけ、この任務の重さを理解していた。

馬車の中では、アロイスが窓の外を静かに眺めている。

向かいにはミレイユ。

膝の上で両手を重ね、じっと視線を落としていた。

北方国境監視砦。

数日前に届いた報告は、すでに帝都中へ知れ渡っている。

兵士たちの錯乱。

同士討ち。

休息を拒み続ける異常行動。

そして地下坑道で発見された、古代帝国様式の刻印。

どれ一つとして軽く受け流せる話ではなかった。

だが、ミレイユだけは理解している。

――これは単なる事件ではない。

胸の奥で冷たい感覚が脈打つ。

北へ進むほど、それははっきりと輪郭を帯び始めていた。

(……いる)

まだ遠い。

それでも確かに感じる。

言葉にはできない"何か"が、こちらを待っている。

馬車がゆっくりと速度を落とした。

外から御者の声が響く。

「閣下、到着いたしました」

アロイスは静かに立ち上がる。

「行こう」

短く告げると、ミレイユも頷いて後に続いた。

扉が開いた瞬間、鋭い冷気が車内へ流れ込む。

思わず息を呑むほどの寒さだった。

砦は岩山へ食い込むように築かれている。

灰色の石壁。

雪を被った見張り塔。

吹き溜まりになった中庭。

空そのものが低く垂れ込め、辺り一帯を重苦しい色へ染めていた。

迎えに現れた兵士たちも顔色が悪い。

寝不足。

疲労。

そして何より、隠しきれない怯えがその表情に滲んでいる。

隊長格と思われる男が歩み寄り、深く一礼した。

「お待ちしておりました、シュタルク公爵閣下」

声は掠れ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。

何日もまともに眠れていないのだろう。

アロイスは余計な挨拶を挟まなかった。

「状況は」

隊長は周囲へ視線を巡らせる。

部下たちが耳を澄ませていないことを確認すると、小さく答えた。

「……中で、ご説明いたします」

それだけで十分だった。

砦の会議室は暖炉へ火が入っているにもかかわらず、不思議なほど寒かった。

温度ではない。

空気そのものが冷え切っている。

机の上には周辺地図が広げられ、赤い印がいくつも書き込まれていた。

隊長は深く息を吸い、静かに話し始める。

「最初は過労による錯乱だと思っておりました」

指先で北側坑道を示す。

「監視任務が長期間続き、兵たちの疲労も限界でしたから」

誰も口を挟まない。

「ですが」

その声が少し低くなる。

「連中は休まなくなりました」

部屋の空気がさらに重くなる。

「交代命令を出しても持ち場を離れません。負傷しても作業を止めず、休息命令にも従わない」

一枚の報告書が机へ置かれる。

そこには血痕の付いた現場記録が残されていた。

「止めようとした兵へ『邪魔をするな』と襲いかかった者もおります」

ミレイユの指先が、かすかに震える。

隊長は続けた。

「現在は地下隔離区画へ収容しております」

アロイスは静かに目を細めた。

「会わせろ」

迷いのない一言だった。

隊長は一瞬だけ躊躇したものの、小さく頷く。

「……こちらです」

地下へ続く石段を下りるにつれ、空気が湿り気を帯び始める。

壁には古い染みが残り、鉄製の燭台だけが頼りなく周囲を照らしていた。

やがて重い鉄扉が開く。

その先には隔離区画が並んでいた。

鉄格子の向こう側には数人の兵士がいる。

だが、その姿は異様だった。

誰一人として休んでいない。

座ったまま。

立ったまま。

眠ることもなく。

指先だけが絶え間なく動いている。

床を掘るように。

岩を砕くように。

そこには何もない。

それでも彼らは、見えない作業を延々と繰り返していた。

一人の兵士が掠れた声で呟く。

「……まだだ」

爪は割れ、血が滲んでいる。

それでも指は止まらない。

「止めるな」

「終わってない」

その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの呼吸が浅くなった。

違う。

前回の装置とは違う。

もっと鈍い。

もっと重い。

まるで巨大な歯車が、終わることなく回り続けるような圧迫感。

止まることを許さない意志だけが、人の心へ食い込んでいる。

その時だった。

一人の兵士が、がたりと顔を上げる。

焦点の定まらない瞳が、まっすぐミレイユを捉えた。

「……お前も働け」

空気が凍りつく。

次の瞬間、兵士は鉄格子へ身体ごと叩きつけるように突進した。

激しい金属音が地下へ響く。

騎士たちが反射的に前へ出る。

だが兵士は止まらない。

額が裂けても。

腕から血が流れても。

痛みなど存在しないかのように鉄格子へ何度も身体を打ちつける。

「止まるな!」

絶叫が響く。

「掘れ!!」

騎士がミレイユを庇おうと前へ出る。

「ミレイユ様、お下がりください!」

しかし、ミレイユは静かに首を横へ振った。

そのまま鉄格子の前まで歩み寄る。

暴れ続ける兵士を、まっすぐ見つめながら。

ミレイユはゆっくりと息を吸い、鉄格子の前へ歩み寄った。

「危険です!」

騎士の一人が思わず制止する。

だが、ミレイユは静かに首を横へ振った。

「大丈夫です」

その声は震えていなかった。

兵士はなおも鉄格子へ身体を打ちつけている。

「掘れ!」

「止まるな!」

「まだ終わってない!」

爪は割れ、指先は血に染まり、それでもなお床を掻き続ける。

まるで身体だけが、誰かの命令へ従い続けているようだった。

ミレイユは鉄格子へそっと手を添える。

瞳を閉じ、意識を静かに沈めていく。

冷たい。

暗い。

重い。

兵士の奥深くへ絡みついた何かが、確かにそこにあった。

命令。

ただ一つ。

――働け。

止まることは許されない。

休むことも許されない。

その意思だけが、人の心を押し潰している。

「……見つけました」

ミレイユが小さく呟いた。

その瞬間、空気がかすかに震える。

兵士の身体がびくりと跳ねた。

「――ぁ……」

荒々しかった呼吸が少しずつ落ち着いていく。

焦点を失っていた瞳へ、ゆっくりと光が戻った。

兵士は自分の手を見る。

割れた爪。

血に濡れた指先。

まるで初めて気付いたように震え始める。

「……俺は……」

そのまま力が抜け、崩れるように眠りへ落ちた。

地下へ静寂が戻る。

誰も言葉を発さない。

ミレイユは立ち止まらなかった。

隣の牢へ移る。

壁へ額を打ち続けていた兵士も、同じように鉄格子越しへ手を伸ばす。

空気が揺れる。

兵士の身体から力が抜ける。

「……痛い」

その一言と同時に涙が零れ落ちた。

まるで今になって、ようやく身体が傷付いていたことを思い出したようだった。

三人目。

四人目。

触れるたび、狂気は静かに剥がれていく。

残されたのは極限まで蓄積した疲労と、壊れかけた身体だった。

最後の一人が眠りへ落ちた瞬間だった。

「……っ」

ミレイユの身体が大きく揺らぐ。

視界が白く霞む。

膝が折れそうになった、その瞬間。

「もういい」

低い声とともに、アロイスが腕を支えた。

しっかりと、だが必要以上に力は入れない。

ミレイユは浅く息を繰り返す。

「……違います」

掠れた声だった。

「治したわけではありません」

ゆっくりと首を振る。

「今は、止めているだけです」

部屋の空気が張り詰める。

「止めている……だけ?」

アロイスが静かに問い返す。

ミレイユは頷いた。

「はい」

まだ呼吸は乱れている。

それでも、その瞳だけは揺れていなかった。

「この方たちを縛っていたものは、まだ消えていません」

胸元へ手を当てる。

「糸のように繋がっています」

「根です」

その一言で、全員の視線が集まった。

「私は、その糸を一時的に緩めただけです」

「ですが……」

ゆっくりと目を閉じる。

意識をさらに深く沈めるように。

静寂が地下を包む。

やがてミレイユは小さく息を吐いた。

「近いです」

その声は、どこか確信を帯びていた。

「ここから、あまり離れていません」

アロイスは静かに反芻する。

「根が近い、か」

ミレイユは頷いた。

「はい」

「この砦そのものではありません」

「もっと北です」

その時、それまで黙っていた砦長が口を開いた。

「……北側には旧坑道があります」

全員の視線が向く。

砦長は地図の一点を指差した。

「かつて帝国と北方国が共同で使用していた採掘路です」

「十年以上前の崩落事故を機に封鎖されました」

「今では誰も近付きません」

アロイスは迷わず立ち上がる。

「案内しろ」

短く、それだけ告げた。

*

雪は深かった。

踏み固められた道を外れるたび、足は膝まで埋まる。

灰色の空からは細かな雪が絶え間なく降り続いていた。

砦長を先頭に、一行は山肌を進む。

やがて岩壁へ口を開ける巨大な坑道が姿を現した。

朽ちた支柱。

歪んだ鉄柵。

崩れた石積み。

人の気配は、もう何年もない。

それでも坑道の奥からは、冷たい空気だけが絶えず流れ出していた。

まるで巨大な生き物が、静かに息をしているようだった。

ミレイユの足が止まる。

その瞬間だった。

ざわり、と空気が震えた。

誰にも見えない何かが、肌を撫でる。

ミレイユはゆっくり目を閉じた。

胸の奥へ意識を沈めていく。

長い沈黙。

騎士たちも誰一人動かない。

やがて、ミレイユが静かに口を開いた。

「……違います」

アロイスが目を細める。

「ここではないのか」

「近いです」

ゆっくりと頷く。

「でも、根はもっと奥です」

その視線が雪山の向こうへ向く。

「国境を越えています」

空気が止まった。

「北方国領……」

誰かが小さく呟く。

当然だった。

帝国外へ正規部隊が踏み込めば、それだけで外交問題になる。

しかも相手は、閉鎖的な北方国。

慎重を欠けば、国同士の火種になりかねない。

アロイスは坑道を見つめたまま考えていた。

必要な人数。

装備。

補給。

痕跡を残さない経路。

すべてを組み立て終えたように、静かに口を開く。

「騎士団はここまでだ」

誰も異論は挟まない。

「これ以上の大人数では動けない」

「少数で越える」

決定だった。

砦長が眉をひそめる。

「危険です」

「ああ」

アロイスは即座に頷く。

「だからこそ、人数は絞る」

その時、ミレイユが小さく口を開いた。

「急いだ方がいいです」

全員が振り向く。

「広がっています」

胸を押さえながら続ける。

「ゆっくりですが、確実に」

砦で起きた異変は、始まりに過ぎない。

放置すれば、同じことが各地で起きる。

その重さを、誰もが理解した。

アロイスは短く息を吐く。

そして砦長へ視線を向けた。

「伝令を出せ」

「二名呼ぶ」

騎士が姿勢を正す。

「誰をお呼びしますか」

アロイスは迷わなかった。

「ライナー」

一拍置き、

「エドガーだ」

その瞬間、騎士たちの表情が何とも言えないものへ変わる。

頼もしい。

だが胃も痛くなる。

そんな顔だった。

アロイスは気にした様子もない。

「最速で頼む」

「はっ!」

伝令は雪煙を上げながら駆け出していく。

その背中を見送りながら、ミレイユは静かに北を見つめた。

雪の向こう。

山脈のさらに向こう。

そこに、装置がある。

その確信だけが、胸の奥で冷たく脈打っていた。

その時だった。

坑道の奥から。

カン――……。

乾いた音が、かすかに響く。

誰もいないはずの暗闇から。

まるで今も誰かが、黙々と岩を掘り続けているかのように。

*

――二日後。

国境監視砦。

朝から雪は勢いを増し、山肌を白く覆っていた。

見張り兵たちは交代しながら外を警戒している。

その時だった。

遠くから馬の蹄が響く。

一騎。

いや、二騎。

驚くほどの速度で雪原を駆けてくる。

「伝令か?」

見張り兵が目を凝らす。

次の瞬間。

「開けろーーーっ!」

山へ響くような大声が飛んできた。

兵士たちが思わず顔を見合わせる。

「あれは……」

門が勢いよく開かれる。

雪煙を巻き上げながら飛び込んできたのは、一人の男だった。

「お待たせぇ!」

ライナーである。

全身雪まみれ。

肩には大剣。

本人だけは妙に楽しそうだった。

挿絵(By みてみん)

馬から飛び降りるなり辺りを見回し、大きく息を吸い込む。

「国境越え潜入ってマジか!」

目を輝かせる。

「最高じゃねぇか!」

砦の兵士たちが、何とも言えない表情になる。

緊張感が、少しだけ迷子だった。

その後ろから、もう一人が静かに馬を降りる。

「……朝から元気ですね」

エドガーだった。

マントへ積もった雪を軽く払い、周囲をひと通り見回す。

砦。

兵士たち。

積雪。

そして、坑道へ続く山並み。

数秒観察してから、小さく息を吐いた。

「……思っていた以上に最悪ですね」

率直な感想だった。

ライナーが笑う。

「いい顔してんじゃねぇか」

「してません」

即答。

エドガーはそのままアロイスへ歩み寄り、一礼した。

「事情は道中で伺いました」

そして少しだけ肩を竦める。

「ちなみに、ルドルフ殿は出発前から胃が痛そうなお顔をしておられました」

沈黙。

ライナーが吹き出す。

「そりゃそうだろ!」

腹を抱えて笑う。

「団長と俺とエドガーがまとめて消えるんだぜ?」

「胃薬では足りませんよ」

エドガーは涼しい顔で返した。

「問題児が三人、一度に国外へ行くわけですから」

「お前も入ってんのかよ」

ライナーが笑う。

エドガーは即座に頷いた。

「当然でしょう」

少し間を置き、

「自覚のない問題児が、一番扱いに困ります」

そう言って、まっすぐアロイスを見る。

一瞬の沈黙。

ライナーが堪えきれず吹き出した。

「言われてんぞ、団長」

アロイスは眉一つ動かさない。

「否定はしない」

「しないんだ……」

ライナーが肩を震わせる。

そのやり取りを見ていたミレイユは、小さく息を吐いた。

砦へ着いてから張りつめ続けていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。

だが、それも束の間だった。

アロイスは全員を見渡し、静かに告げる。

「準備が整い次第、出発する」

誰も軽口を返さない。

ライナーも、エドガーも。

二人とも、その声の重さを理解していた。

視線の先には、雪に閉ざされた北の山脈がある。

その向こう。

北方国。

そして、まだ姿を見せぬ古代装置。

いよいよ、誰も足を踏み入れたことのない領域へ向かう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。