第16話:兆し
朝の公爵邸は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
磨き上げられた廊下には朝日が差し込み、開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き抜けていく。
使用人たちは慣れた手つきで仕事をこなし、規則正しい足音だけが屋敷に響いていた。
何一つ変わらない。
――表面上は。
ミレイユは書類を抱え、執務室へ向かっていた。
歩幅も姿勢もいつも通り。
けれど胸の奥だけは、まだ昨夜の余韻を抱えたままだった。
そっと頬へ指先が触れる。
あの温もりはもう残っていない。
それでも思い出すたび、心臓が少しだけ早くなる。
(……何を考えているのでしょう、私は)
小さく息を吐き、慌てて手を下ろす。
その時だった。
「おはようございます、ミレイユ様」
若い侍女がにこやかに頭を下げる。
「おはようございます」
笑顔で返す。
ほんの一瞬。
返事が少し遅れた。
それだけだった。
けれど侍女は見逃さない。
ミレイユが通り過ぎると、廊下の向こうで掃除をしていた侍女へ小声で囁く。
「……来ましたね」
「来たわね」
「ついに?」
「ついにでしょう」
さらに年配の侍女が腕を組んで頷く。
「お赤飯?」
「まだ早いです」
「でも近いわ」
「ええ、近いです」
全員が真面目な顔で仕事を続けながら話している。
その姿が妙に面白かった。
もちろん、ミレイユは何も知らない。
*
執務室ではアロイスが書類へ目を通していた。
いつものように正確な速度で読み進める。
……はずだった。
ふと、手が止まる。
昨夜のことを思い出した。
自分の指先。
ミレイユの頬。
柔らかな温もり。
そして。
――離れません。
無意識に息を吐く。
その瞬間、扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします」
入室したのはエドガーだった。
書類を一冊抱えながら、いつもの軽い笑みを浮かべている。
「皇宮ですが、第一皇子殿下のおかげで露骨な動きは一旦止まりました」
「そうか」
アロイスは短く頷く。
「とはいえ油断は禁物ですが」
「ああ」
報告はそれで終わった。
普通なら退出するところだった。
しかしエドガーは動かない。
じっとアロイスを見ている。
「……何だ」
「いえ」
エドガーは楽しそうに目を細めた。
「閣下、少しお顔が変わりましたね」
「そうか」
素っ気ない返事だった。
「ええ」
エドガーは頷く。
「良い意味で」
それ以上は言わない。
十分だった。
アロイス本人だけが、自覚していない。
*
廊下を歩いていたライナーは、窓辺にもたれかかりながら、中庭で訓練する若い使用人たちをぼんやり眺めていた。
暇そうにも見える。
けれど、その目だけは意外なほどよく周囲を見ている。
そこへミレイユがやって来た。
「お」
気のない声で片手を上げる。
「おはよ」
「おはようございます」
ミレイユが一礼すると、ライナーは返事をしながらも、その顔をじっと見つめた。
「……何でしょうか」
「いや」
少し首を傾げる。
「なんかあった?」
あまりにも唐突な一言に、ミレイユの足が止まる。
「……何もございません」
「ふーん」
ライナーは腕を組み、納得したように頷いた。
「顔が違う」
「え……?」
「昨日までと違う」
ミレイユは思わず自分の頬へ手を当てる。
その仕草だけで十分だった。
ライナーの口元がにやりと緩む。
「あ、図星」
「ち、違います」
「違わねぇだろ」
「違います」
慌てて歩き出すミレイユの背を見送りながら、ライナーは小さく笑う。
「……なるほどな」
その一言だけを残し、再び窓の外へ視線を戻した。
ミレイユが足早に去っていくと、今度は反対側の廊下からマルガレーテが現れる。
「ライナー様」
「はい」
「今、何を見ました」
「春」
「違います」
即答だった。
ライナーは肩を竦める。
「いや、だって空気が春じゃん」
マルガレーテは小さく目を閉じた。
「……その表現は嫌いではありません」
ぼそりと漏らす。
「え?」
「いえ、何でもありません」
咳払いを一つ。
「ですが」
表情だけは完璧な侍女長へ戻る。
「余計なことを言って、ミレイユ様を困らせないように」
「へーい」
軽い返事だった。
ライナーが去ると、マルガレーテは誰にも見えないよう胸の前で小さく拳を握る。
(……進展あり)
心の中だけで、小さく喜ぶ。
もちろん表情には一切出さない。
侍女長たるもの、常に冷静でなければならないのだから。
……内心は別として。
*
夕刻。
公爵邸の食堂には、温かな灯りがともっていた。
長い食卓には湯気の立つ料理が並び、香ばしい匂いが静かに広がっている。
いつもと変わらない夕食の時間。
それなのに、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
理由は誰も口にしない。
けれど、全員が知っている。
この数日で、屋敷の空気が少しだけ変わったことを。
視線を向ける者はいない。
だが、誰もが自然と二人の存在を意識していた。
そんな微妙な沈黙を、いつものように破ったのはライナーだった。
「うめぇなこれ」
焼きたての肉を頬張りながら、満足そうに目を細める。
途端に食卓の空気が少しだけ緩んだ。
マルガレーテは穏やかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
侍女長らしく完璧な笑顔だった。
けれど心の中では、小さく拳を握っている。
(……良い空気です)
朝から観察を続けた成果は間違っていなかった。
エドガーはその様子を横目で見ながら肩を震わせる。
(マルガレーテ殿、今日は機嫌が良いですね)
理由は聞かない。
聞かなくても分かる。
ルドルフも静かにグラスへ水を注ぎながら、食卓全体を見渡した。
(……以前より、ずっと自然になりましたな)
誰も何も言わない。
それが一番良かった。
無理に距離を縮めようとしているわけではない。
互いに肩肘を張らず、同じ時間を過ごせるようになった。
その変化こそが、何より大きかった。
その時だった。
「……それを取ってくれるか」
低い声が静かに響く。
アロイスだった。
言われたミレイユは一瞬だけ目を瞬かせ、それから頷く。
「はい」
目の前の皿へ手を伸ばす。
二人の距離が自然と近づいた。
以前なら、それだけで互いに少し身を引いていただろう。
けれど今は違う。
どちらも動じない。
皿を受け取ったアロイスは、小さく頷いた。
「……助かる」
「いえ」
それだけのやり取り。
ほんの数秒。
それだけなのに、空気がほんの少しだけ柔らかくなる。
マルガレーテは視線を伏せたまま、危うく笑みが零れそうになるのを堪えた。
(……もう少しです)
メイド長として冷静であるべきだ。
そう思いながらも、胸の内では密かに応援している。
一方、ライナーは何も言わずに肉を口へ運びながら、ちらりと二人を見た。
(あー、なるほど)
今朝の違和感の正体をようやく理解する。
何があったのかまでは知らない。
けれど、昨日までとは確かに違う。
「……よかったじゃん」
誰にも聞こえないほど小さく呟き、何事もなかったように食事へ戻った。
その一言は、自分でも意外なほど優しかった。
穏やかな時間が流れる。
誰もが、このまま夕食が終わるものと思っていた。
その時だった。
コンコン。
食堂の扉が静かに叩かれる。
食卓の空気が、一瞬で切り替わる。
給仕をしていたルドルフが扉へ視線を向けた。
「入れ」
低く告げると、扉が静かに開く。
姿を現したのは皇宮からの伝令だった。
軍服には長旅の埃が残り、顔色も優れない。
ただ事ではない。
それだけで十分だった。
伝令は食堂へ一歩入り、深く一礼する。
「食事中に失礼いたします」
硬い声だった。
「北方国境方面より、緊急報告です」
食卓から物音が消える。
アロイスは静かに顔を上げた。
エドガーの笑みも消えている。
ライナーは椅子へ深く座り直し、伝令へ視線を向けた。
伝令は報告書を開く。
「国境監視砦において、複数の兵士へ異常行動が確認されました」
その言葉に、場の空気が静かに張りつめる。
「当初は疲労による錯乱と判断されておりましたが、休息命令に従わず勤務を継続」
一枚、紙をめくる。
「負傷後も作業を続け、一部は制止に入った同僚を『妨害者』と認識して襲撃したとのことです」
誰も口を開かない。
食堂から温かな空気だけが消えていく。
「現在は数名を拘束しておりますが……」
伝令は一瞬だけ言葉を切った。
「拘束後も、『まだ終わっていない』『止めるな』と繰り返し続けているとの報告です」
ミレイユの指先が、かすかに震えた。
理由は分からない。
けれど胸の奥で、何かが警鐘を鳴らしている。
聞いたことがあるわけではない。
知っているはずもない。
それでも、その異常さだけは本能が理解していた。
伝令はさらに続ける。
「加えて」
報告書を握る手へ、わずかに力が入る。
「現場地下坑道にて、古代帝国様式と思われる刻印が発見されました」
一呼吸置く。
「鉱山施設で確認された紋様と酷似しております」
その一言で、食堂の空気は完全に変わった。
エドガーが静かに目を細める。
ライナーからは笑みが消え、ルドルフも深く息を吐いた。
マルガレーテは無意識にミレイユの表情を窺う。
そして、アロイスだけが静かに視線を向けた。
ミレイユへ。
ほんの一瞬。
言葉は交わさない。
けれど、その眼差しだけで十分だった。
――次が来た。
誰も口にはしない。
それでも、この場にいる全員が理解していた。
束の間の穏やかな日常は、もう終わろうとしていることを。




