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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第16話:兆し

朝の公爵邸は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

磨き上げられた廊下には朝日が差し込み、開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き抜けていく。

使用人たちは慣れた手つきで仕事をこなし、規則正しい足音だけが屋敷に響いていた。

何一つ変わらない。

――表面上は。

ミレイユは書類を抱え、執務室へ向かっていた。

歩幅も姿勢もいつも通り。

けれど胸の奥だけは、まだ昨夜の余韻を抱えたままだった。

そっと頬へ指先が触れる。

あの温もりはもう残っていない。

それでも思い出すたび、心臓が少しだけ早くなる。

(……何を考えているのでしょう、私は)

小さく息を吐き、慌てて手を下ろす。

その時だった。

「おはようございます、ミレイユ様」

若い侍女がにこやかに頭を下げる。

「おはようございます」

笑顔で返す。

ほんの一瞬。

返事が少し遅れた。

それだけだった。

けれど侍女は見逃さない。

ミレイユが通り過ぎると、廊下の向こうで掃除をしていた侍女へ小声で囁く。

「……来ましたね」

「来たわね」

「ついに?」

「ついにでしょう」

さらに年配の侍女が腕を組んで頷く。

「お赤飯?」

「まだ早いです」

「でも近いわ」

「ええ、近いです」

全員が真面目な顔で仕事を続けながら話している。

その姿が妙に面白かった。

もちろん、ミレイユは何も知らない。

*

執務室ではアロイスが書類へ目を通していた。

いつものように正確な速度で読み進める。

……はずだった。

ふと、手が止まる。

昨夜のことを思い出した。

自分の指先。

ミレイユの頬。

柔らかな温もり。

そして。

――離れません。

無意識に息を吐く。

その瞬間、扉が叩かれた。

「入れ」

「失礼いたします」

入室したのはエドガーだった。

書類を一冊抱えながら、いつもの軽い笑みを浮かべている。

「皇宮ですが、第一皇子殿下のおかげで露骨な動きは一旦止まりました」

「そうか」

アロイスは短く頷く。

「とはいえ油断は禁物ですが」

「ああ」

報告はそれで終わった。

普通なら退出するところだった。

しかしエドガーは動かない。

じっとアロイスを見ている。

「……何だ」

「いえ」

エドガーは楽しそうに目を細めた。

「閣下、少しお顔が変わりましたね」

「そうか」

素っ気ない返事だった。

「ええ」

エドガーは頷く。

「良い意味で」

それ以上は言わない。

十分だった。

アロイス本人だけが、自覚していない。

*

廊下を歩いていたライナーは、窓辺にもたれかかりながら、中庭で訓練する若い使用人たちをぼんやり眺めていた。

暇そうにも見える。

けれど、その目だけは意外なほどよく周囲を見ている。

そこへミレイユがやって来た。

「お」

気のない声で片手を上げる。

「おはよ」

「おはようございます」

ミレイユが一礼すると、ライナーは返事をしながらも、その顔をじっと見つめた。

「……何でしょうか」

「いや」

少し首を傾げる。

「なんかあった?」

あまりにも唐突な一言に、ミレイユの足が止まる。

「……何もございません」

「ふーん」

ライナーは腕を組み、納得したように頷いた。

「顔が違う」

「え……?」

「昨日までと違う」

ミレイユは思わず自分の頬へ手を当てる。

その仕草だけで十分だった。

ライナーの口元がにやりと緩む。

「あ、図星」

「ち、違います」

「違わねぇだろ」

「違います」

慌てて歩き出すミレイユの背を見送りながら、ライナーは小さく笑う。

「……なるほどな」

その一言だけを残し、再び窓の外へ視線を戻した。

ミレイユが足早に去っていくと、今度は反対側の廊下からマルガレーテが現れる。

「ライナー様」

「はい」

「今、何を見ました」

「春」

「違います」

即答だった。

ライナーは肩を竦める。

「いや、だって空気が春じゃん」

マルガレーテは小さく目を閉じた。

「……その表現は嫌いではありません」

ぼそりと漏らす。

「え?」

「いえ、何でもありません」

咳払いを一つ。

「ですが」

表情だけは完璧な侍女長へ戻る。

「余計なことを言って、ミレイユ様を困らせないように」

「へーい」

軽い返事だった。

ライナーが去ると、マルガレーテは誰にも見えないよう胸の前で小さく拳を握る。

(……進展あり)

心の中だけで、小さく喜ぶ。

もちろん表情には一切出さない。

侍女長たるもの、常に冷静でなければならないのだから。

……内心は別として。

*

夕刻。

公爵邸の食堂には、温かな灯りがともっていた。

長い食卓には湯気の立つ料理が並び、香ばしい匂いが静かに広がっている。

いつもと変わらない夕食の時間。

それなのに、どこか落ち着かない空気が漂っていた。

理由は誰も口にしない。

けれど、全員が知っている。

この数日で、屋敷の空気が少しだけ変わったことを。

視線を向ける者はいない。

だが、誰もが自然と二人の存在を意識していた。

そんな微妙な沈黙を、いつものように破ったのはライナーだった。

「うめぇなこれ」

焼きたての肉を頬張りながら、満足そうに目を細める。

途端に食卓の空気が少しだけ緩んだ。

マルガレーテは穏やかな笑みを浮かべる。

「ありがとうございます」

侍女長らしく完璧な笑顔だった。

けれど心の中では、小さく拳を握っている。

(……良い空気です)

朝から観察を続けた成果は間違っていなかった。

エドガーはその様子を横目で見ながら肩を震わせる。

(マルガレーテ殿、今日は機嫌が良いですね)

理由は聞かない。

聞かなくても分かる。

ルドルフも静かにグラスへ水を注ぎながら、食卓全体を見渡した。

(……以前より、ずっと自然になりましたな)

誰も何も言わない。

それが一番良かった。

無理に距離を縮めようとしているわけではない。

互いに肩肘を張らず、同じ時間を過ごせるようになった。

その変化こそが、何より大きかった。

その時だった。

「……それを取ってくれるか」

低い声が静かに響く。

アロイスだった。

言われたミレイユは一瞬だけ目を瞬かせ、それから頷く。

「はい」

目の前の皿へ手を伸ばす。

二人の距離が自然と近づいた。

以前なら、それだけで互いに少し身を引いていただろう。

けれど今は違う。

どちらも動じない。

皿を受け取ったアロイスは、小さく頷いた。

「……助かる」

「いえ」

それだけのやり取り。

ほんの数秒。

それだけなのに、空気がほんの少しだけ柔らかくなる。

マルガレーテは視線を伏せたまま、危うく笑みが零れそうになるのを堪えた。

(……もう少しです)

メイド長として冷静であるべきだ。

そう思いながらも、胸の内では密かに応援している。

一方、ライナーは何も言わずに肉を口へ運びながら、ちらりと二人を見た。

(あー、なるほど)

今朝の違和感の正体をようやく理解する。

何があったのかまでは知らない。

けれど、昨日までとは確かに違う。

「……よかったじゃん」

誰にも聞こえないほど小さく呟き、何事もなかったように食事へ戻った。

その一言は、自分でも意外なほど優しかった。

穏やかな時間が流れる。

誰もが、このまま夕食が終わるものと思っていた。

その時だった。

コンコン。

食堂の扉が静かに叩かれる。

食卓の空気が、一瞬で切り替わる。

給仕をしていたルドルフが扉へ視線を向けた。

「入れ」

低く告げると、扉が静かに開く。

姿を現したのは皇宮からの伝令だった。

軍服には長旅の埃が残り、顔色も優れない。

ただ事ではない。

それだけで十分だった。

伝令は食堂へ一歩入り、深く一礼する。

「食事中に失礼いたします」

硬い声だった。

「北方国境方面より、緊急報告です」

食卓から物音が消える。

アロイスは静かに顔を上げた。

エドガーの笑みも消えている。

ライナーは椅子へ深く座り直し、伝令へ視線を向けた。

伝令は報告書を開く。

「国境監視砦において、複数の兵士へ異常行動が確認されました」

その言葉に、場の空気が静かに張りつめる。

「当初は疲労による錯乱と判断されておりましたが、休息命令に従わず勤務を継続」

一枚、紙をめくる。

「負傷後も作業を続け、一部は制止に入った同僚を『妨害者』と認識して襲撃したとのことです」

挿絵(By みてみん)

誰も口を開かない。

食堂から温かな空気だけが消えていく。

「現在は数名を拘束しておりますが……」

伝令は一瞬だけ言葉を切った。

「拘束後も、『まだ終わっていない』『止めるな』と繰り返し続けているとの報告です」

ミレイユの指先が、かすかに震えた。

理由は分からない。

けれど胸の奥で、何かが警鐘を鳴らしている。

聞いたことがあるわけではない。

知っているはずもない。

それでも、その異常さだけは本能が理解していた。

伝令はさらに続ける。

「加えて」

報告書を握る手へ、わずかに力が入る。

「現場地下坑道にて、古代帝国様式と思われる刻印が発見されました」

一呼吸置く。

「鉱山施設で確認された紋様と酷似しております」

その一言で、食堂の空気は完全に変わった。

エドガーが静かに目を細める。

ライナーからは笑みが消え、ルドルフも深く息を吐いた。

マルガレーテは無意識にミレイユの表情を窺う。

そして、アロイスだけが静かに視線を向けた。

ミレイユへ。

ほんの一瞬。

言葉は交わさない。

けれど、その眼差しだけで十分だった。

――次が来た。

誰も口にはしない。

それでも、この場にいる全員が理解していた。

束の間の穏やかな日常は、もう終わろうとしていることを。

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