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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第15話:帰還

皇宮の回廊は静まり返っていた。

灯火は最低限に落とされ、長い石壁には淡い明かりが揺れている。

磨き上げられた床には影が細く伸び、夜の静けさをより深く際立たせていた。

その回廊の奥に、一人の男が立っている。

第一皇子だった。

背筋は真っ直ぐに伸び、余計な威圧を放つこともない。

ただ静かにそこへ立つだけで、周囲の空気が自然と引き締まる。

アロイスは歩みを緩めることなく近づき、一定の距離を保ったところで足を止めた。

一礼する。

しばらく沈黙が続いた。

その静寂を破ったのは、第一皇子だった。

「……やられたな」

感情をほとんど含まない声だった。

怒りでも呆れでもない。

盤面を見渡した上での、率直な評価である。

アロイスは静かに頷いた。

「はい」

短い返答だった。

それだけで十分だった。

第一皇子はわずかに視線を落とし、何事かを考えるように数秒黙り込む。

そして再びアロイスへ視線を戻した。

「愚かな選択だ」

その言葉には、一切の遠慮がなかった。

だが責める響きでもない。

統治者として下した評価を、そのまま告げているだけだった。

アロイスは表情を変えない。

言い返すこともしない。

その評価は理解している。

だからこそ受け止めた。

第一皇子は続ける。

「お前は昔から、合理を外れない男だった」

静かな声が回廊へ響く。

「戦場でも政務でも、感情より結果を優先する」

「だから余計な失敗をしない」

「だから使いやすかった」

率直な物言いだった。

だが、それは侮蔑ではない。

むしろ最大級の信頼であることを、アロイスは理解していた。

第一皇子は不用意に人を信用しない。

だからこそ、その口から「使いやすい」と評されることは、「安心して任せられる」という意味に等しかった。

「だが今回は違う」

視線が鋭さを増す。

「お前は自分の意思で盤面を崩した」

その一言が重く落ちる。

沈黙。

「愚かな選択だ」

再び同じ言葉を口にする。

しかし今度は、その続きがあった。

「だが、捨てるには惜しい」

アロイスの瞳がわずかに動く。

第一皇子はゆっくりと一歩だけ距離を詰めた。

「第二皇子は、お前を削る」

断言だった。

「盤面を乱した駒は整理される。それは政治として正しい」

その評価に私情はない。

機構として当然の処置だと理解している。

だからこそ、その先を告げる。

「ならばこちらで整える」

短い一言だった。

アロイスは初めてわずかに眉を動かした。

第一皇子は淡々と言葉を重ねる。

「露骨な制裁は抑える」

「任務の一部は戻す」

「表向きの理由もこちらで整える」

どれも現実的な処置だった。

恩情ではない。

盤面の修正である。

アロイスは静かに頭を下げた。

「……ご配慮に感謝いたします」

第一皇子は即座に首を横へ振る。

「感謝は不要だ」

その声には一切の揺らぎがなかった。

「これは国のためだ、お前のためではない」

はっきりと線を引く。

だが、その線引きこそが第一皇子らしかった。

情に流されない。

だからこそ信用できる。

アロイスもまた、その言葉に異論はなかった。

「承知しております」

静かな返答に、第一皇子は小さく頷く。

再び沈黙が訪れた。

やがて第一皇子はゆっくりと息を吐き、少しだけ表情を和らげる。

「一つだけ聞く」

その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。

統治者ではなく、一人の人間として尋ねている。

「なぜ選んだ」

責めるためではない。

確かめるための問いだった。

アロイスはすぐには答えなかった。

視線を落とすこともなく、ただ静かに考える。

長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。

「……分かりません」

偽りのない答えだった。

第一皇子は目を細める。

「ですが」

アロイスは続けた。

「無視はできませんでした」

低く、しかし確かな声だった。

それだけだった。

理由としてはあまりにも曖昧だ。

理屈になっていない。

それでも第一皇子は、それ以上問い詰めなかった。

数秒間、アロイスを見つめ続ける。

そして静かに頷いた。

「……そうか」

その一言で十分だった。

理屈ではなく、自ら選んだという事実だけが重要なのだ。

第一皇子は一歩身を引く。

「ならば尚更だ」

静かな声が夜気へ溶ける。

「中途半端は許さん」

その視線は真っ直ぐだった。

「選んだ以上、最後までやり通せ」

命令ではない。

だが、皇太子としての覚悟を託す言葉だった。

アロイスは深く一礼する。

「承知いたしました」

第一皇子は満足そうに頷くことも、笑うこともない。

ただ踵を返し、歩き出した。

数歩進んだところで、不意に足を止める。

振り返りはしない。

それでも静かな声だけが残された。

「……足元を見誤るな」

それだけ言い残し、第一皇子は闇の向こうへ消えていく。

足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。

アロイスはその場に立ったまま、ゆっくりと息を吐く。

胸に残るのは重圧だった。

だが、それは迷いではない。

自分が選んだ道を、もう一度確かめるような重さだった。

*

第一皇子と別れたあと、アロイスは静かな回廊を一人歩いていた。

足音だけが、夜の皇宮に規則正しく響いている。

先ほど交わした言葉を思い返すことはなかった。

必要なことは、すでに胸へ収まっている。

あとは前を向くだけだった。

その頃、別室では第二皇子が執務机へ頬杖をつき、何枚かの書類を漫然と眺めていた。

扉のそばに控える側近が、静かに問いかける。

「……よろしかったのですか」

第二皇子は書類から目を上げない。

「何が」

穏やかな返事だった。

「シュタルク公爵を、あのままお帰しになって」

少し間を置いて、側近は続ける。

「もっと強く縛ることもできたはずです」

その言葉に、第二皇子は小さく笑った。

「縛る?」

肩を揺らしながら、楽しそうに首を傾げる。

「もう無理だよ」

その一言に、側近はわずかに目を見開いた。

第二皇子は椅子へ深く身を預ける。

「……振られたな」

ぽつりと漏らした声は、どこか苦笑混じりだった。

もちろん本気で落ち込んでいるわけではない。

だが、自分の描いた最善手が届かなかったことを、彼は素直に認めていた。

「惜しかったんだけどな」

小さく息を吐く。

「こちらへ来れば、帝国はもっと早く強くなれた」

それは偽りのない本音だった。

アロイスという男を高く評価していたからこそ、最後まで誘い続けたのである。

側近は静かに問い返す。

「それでも、ご執着はおありなのですね」

第二皇子は笑みを消した。

「執着とは少し違う」

穏やかな声だった。

「期待かな」

一拍置いて続ける。

「理屈だけで生きてきた男が、初めて理屈を捨てた」

その瞳が細められる。

「その先に何があるのか、少し見てみたくなった」

柔らかな声音だった。

けれど、その奥に宿る光は冷静だった。

「壊れるか」

「貫くか」

書類を閉じる。

「どちらでも構わない」

静かな笑みが戻る。

「まだまだ、楽しませてほしいものだ」

その言葉には、敵意も友情もなかった。

ただ、一人の統治者が、一人の男の行く末を見届けようとしているだけだった。

*

夜更けの公爵邸は静かだった。

使用人たちも持ち場へ戻り、長い廊下には灯火だけが淡く揺れている。

その一室で、ミレイユは窓辺へ腰掛けていた。

本は開いたまま。

けれど、同じページから少しも進んでいない。

何度も時計へ目を向ける。

まだ帰らない。

また少し時間が過ぎる。

それでも帰らない。

(……遅い)

胸の奥が静かにざわめく。

相手は皇族だ。

話が長引くことくらい分かっている。

それでも、不安だけは理屈では抑えられなかった。

もし。

そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸が締めつけられる。

ミレイユは小さく首を振った。

(違う)

否定する。

何度も。

それでも、不安は消えてくれない。

その時だった。

屋敷の正面玄関が開く音が、遠くから聞こえた。

続いて、廊下を歩く足音。

規則正しい。

聞き慣れた歩幅。

近づいてくる。

やがて、自室の扉が静かに叩かれた。

「……はい」

返事をすると、扉の向こうから低い声が届く。

「……俺だ」

その一言だけで、全身から力が抜けた。

安心したのだと、自分でも分かる。

ミレイユは急いで立ち上がり、扉を開いた。

そこには、いつもと変わらぬ表情のアロイスが立っていた。

傷一つない。

それだけで十分だった。

「……お帰りなさいませ」

自然に言葉が零れる。

アロイスは静かに頷いた。

その何気ない一言が、不思議なほど胸へ染みた。

「……話がある」

短く告げる。

「はい」

ミレイユは身体を半歩引き、部屋へ招き入れた。

扉が閉まる。

静かな部屋に、二人だけの時間が流れる。

アロイスはしばらく黙っていた。

何から話すべきか考えている。

戦場では一瞬で判断を下す男が、今は言葉を選んでいた。

やがて口を開く。

「……言われた」

低い声だった。

「お前を巻き込んでいる、と」

ミレイユの瞳が揺れる。

第二皇子の言葉だとすぐに分かった。

アロイスは続ける。

「否定はできなかった」

静かに。

「事実だからだ」

一歩だけ近づく。

その距離に、もう警戒はなかった。

「それでも」

息を整える。

「俺は選んだ」

その言葉に迷いはない。

「戻るつもりはない」

ミレイユは真っ直ぐその瞳を見つめ返した。

恐れはある。

不安もある。

けれど、それ以上に答えは決まっていた。

「……はい」

小さく頷く。

そして静かに微笑んだ。

「私は」

一呼吸置いて続ける。

「離れません」

その声は、もう震えていなかった。

覚悟を宿した、穏やかな声だった。

その瞬間、アロイスの肩からわずかに力が抜ける。

張りつめていた何かが、ようやくほどけたようだった。

ゆっくりと一歩だけ近づく。

互いの息遣いが分かる距離。

それ以上は踏み込まない。

アロイスは静かに右手を持ち上げる。

途中で一瞬だけ止まった。

触れていいのか。

そんな迷いが、ほんのわずかに指先をためらわせる。

ミレイユは動かなかった。

逃げない。

逸らさない。

その姿を見て、アロイスはゆっくりと手を伸ばした。

指先が、そっと頬へ触れる。

温度を確かめるように。

壊れものへ触れるように。

ミレイユは息を呑む。

心臓が強く鳴る。

けれど、不思議と怖くはなかった。

アロイスは何も言わない。

ただ、その瞳に映る少女を静かに見つめている。

やがて親指が、ごくわずかに頬をなぞった。

挿絵(By みてみん)

それだけだった。

それだけで十分だった。

互いに何かを確かめ合うには、それ以上の言葉はいらなかった。

ゆっくりと手が離れる。

名残を惜しむようでもなく、けれど以前のような距離へ戻ることもなく。

二人の間には静かな沈黙が流れていた。

その沈黙は、もう気まずさではない。

同じ未来を見始めた者だけが共有できる、穏やかな静けさだった。

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