第15話:帰還
皇宮の回廊は静まり返っていた。
灯火は最低限に落とされ、長い石壁には淡い明かりが揺れている。
磨き上げられた床には影が細く伸び、夜の静けさをより深く際立たせていた。
その回廊の奥に、一人の男が立っている。
第一皇子だった。
背筋は真っ直ぐに伸び、余計な威圧を放つこともない。
ただ静かにそこへ立つだけで、周囲の空気が自然と引き締まる。
アロイスは歩みを緩めることなく近づき、一定の距離を保ったところで足を止めた。
一礼する。
しばらく沈黙が続いた。
その静寂を破ったのは、第一皇子だった。
「……やられたな」
感情をほとんど含まない声だった。
怒りでも呆れでもない。
盤面を見渡した上での、率直な評価である。
アロイスは静かに頷いた。
「はい」
短い返答だった。
それだけで十分だった。
第一皇子はわずかに視線を落とし、何事かを考えるように数秒黙り込む。
そして再びアロイスへ視線を戻した。
「愚かな選択だ」
その言葉には、一切の遠慮がなかった。
だが責める響きでもない。
統治者として下した評価を、そのまま告げているだけだった。
アロイスは表情を変えない。
言い返すこともしない。
その評価は理解している。
だからこそ受け止めた。
第一皇子は続ける。
「お前は昔から、合理を外れない男だった」
静かな声が回廊へ響く。
「戦場でも政務でも、感情より結果を優先する」
「だから余計な失敗をしない」
「だから使いやすかった」
率直な物言いだった。
だが、それは侮蔑ではない。
むしろ最大級の信頼であることを、アロイスは理解していた。
第一皇子は不用意に人を信用しない。
だからこそ、その口から「使いやすい」と評されることは、「安心して任せられる」という意味に等しかった。
「だが今回は違う」
視線が鋭さを増す。
「お前は自分の意思で盤面を崩した」
その一言が重く落ちる。
沈黙。
「愚かな選択だ」
再び同じ言葉を口にする。
しかし今度は、その続きがあった。
「だが、捨てるには惜しい」
アロイスの瞳がわずかに動く。
第一皇子はゆっくりと一歩だけ距離を詰めた。
「第二皇子は、お前を削る」
断言だった。
「盤面を乱した駒は整理される。それは政治として正しい」
その評価に私情はない。
機構として当然の処置だと理解している。
だからこそ、その先を告げる。
「ならばこちらで整える」
短い一言だった。
アロイスは初めてわずかに眉を動かした。
第一皇子は淡々と言葉を重ねる。
「露骨な制裁は抑える」
「任務の一部は戻す」
「表向きの理由もこちらで整える」
どれも現実的な処置だった。
恩情ではない。
盤面の修正である。
アロイスは静かに頭を下げた。
「……ご配慮に感謝いたします」
第一皇子は即座に首を横へ振る。
「感謝は不要だ」
その声には一切の揺らぎがなかった。
「これは国のためだ、お前のためではない」
はっきりと線を引く。
だが、その線引きこそが第一皇子らしかった。
情に流されない。
だからこそ信用できる。
アロイスもまた、その言葉に異論はなかった。
「承知しております」
静かな返答に、第一皇子は小さく頷く。
再び沈黙が訪れた。
やがて第一皇子はゆっくりと息を吐き、少しだけ表情を和らげる。
「一つだけ聞く」
その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
統治者ではなく、一人の人間として尋ねている。
「なぜ選んだ」
責めるためではない。
確かめるための問いだった。
アロイスはすぐには答えなかった。
視線を落とすこともなく、ただ静かに考える。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……分かりません」
偽りのない答えだった。
第一皇子は目を細める。
「ですが」
アロイスは続けた。
「無視はできませんでした」
低く、しかし確かな声だった。
それだけだった。
理由としてはあまりにも曖昧だ。
理屈になっていない。
それでも第一皇子は、それ以上問い詰めなかった。
数秒間、アロイスを見つめ続ける。
そして静かに頷いた。
「……そうか」
その一言で十分だった。
理屈ではなく、自ら選んだという事実だけが重要なのだ。
第一皇子は一歩身を引く。
「ならば尚更だ」
静かな声が夜気へ溶ける。
「中途半端は許さん」
その視線は真っ直ぐだった。
「選んだ以上、最後までやり通せ」
命令ではない。
だが、皇太子としての覚悟を託す言葉だった。
アロイスは深く一礼する。
「承知いたしました」
第一皇子は満足そうに頷くことも、笑うこともない。
ただ踵を返し、歩き出した。
数歩進んだところで、不意に足を止める。
振り返りはしない。
それでも静かな声だけが残された。
「……足元を見誤るな」
それだけ言い残し、第一皇子は闇の向こうへ消えていく。
足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
アロイスはその場に立ったまま、ゆっくりと息を吐く。
胸に残るのは重圧だった。
だが、それは迷いではない。
自分が選んだ道を、もう一度確かめるような重さだった。
*
第一皇子と別れたあと、アロイスは静かな回廊を一人歩いていた。
足音だけが、夜の皇宮に規則正しく響いている。
先ほど交わした言葉を思い返すことはなかった。
必要なことは、すでに胸へ収まっている。
あとは前を向くだけだった。
その頃、別室では第二皇子が執務机へ頬杖をつき、何枚かの書類を漫然と眺めていた。
扉のそばに控える側近が、静かに問いかける。
「……よろしかったのですか」
第二皇子は書類から目を上げない。
「何が」
穏やかな返事だった。
「シュタルク公爵を、あのままお帰しになって」
少し間を置いて、側近は続ける。
「もっと強く縛ることもできたはずです」
その言葉に、第二皇子は小さく笑った。
「縛る?」
肩を揺らしながら、楽しそうに首を傾げる。
「もう無理だよ」
その一言に、側近はわずかに目を見開いた。
第二皇子は椅子へ深く身を預ける。
「……振られたな」
ぽつりと漏らした声は、どこか苦笑混じりだった。
もちろん本気で落ち込んでいるわけではない。
だが、自分の描いた最善手が届かなかったことを、彼は素直に認めていた。
「惜しかったんだけどな」
小さく息を吐く。
「こちらへ来れば、帝国はもっと早く強くなれた」
それは偽りのない本音だった。
アロイスという男を高く評価していたからこそ、最後まで誘い続けたのである。
側近は静かに問い返す。
「それでも、ご執着はおありなのですね」
第二皇子は笑みを消した。
「執着とは少し違う」
穏やかな声だった。
「期待かな」
一拍置いて続ける。
「理屈だけで生きてきた男が、初めて理屈を捨てた」
その瞳が細められる。
「その先に何があるのか、少し見てみたくなった」
柔らかな声音だった。
けれど、その奥に宿る光は冷静だった。
「壊れるか」
「貫くか」
書類を閉じる。
「どちらでも構わない」
静かな笑みが戻る。
「まだまだ、楽しませてほしいものだ」
その言葉には、敵意も友情もなかった。
ただ、一人の統治者が、一人の男の行く末を見届けようとしているだけだった。
*
夜更けの公爵邸は静かだった。
使用人たちも持ち場へ戻り、長い廊下には灯火だけが淡く揺れている。
その一室で、ミレイユは窓辺へ腰掛けていた。
本は開いたまま。
けれど、同じページから少しも進んでいない。
何度も時計へ目を向ける。
まだ帰らない。
また少し時間が過ぎる。
それでも帰らない。
(……遅い)
胸の奥が静かにざわめく。
相手は皇族だ。
話が長引くことくらい分かっている。
それでも、不安だけは理屈では抑えられなかった。
もし。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸が締めつけられる。
ミレイユは小さく首を振った。
(違う)
否定する。
何度も。
それでも、不安は消えてくれない。
その時だった。
屋敷の正面玄関が開く音が、遠くから聞こえた。
続いて、廊下を歩く足音。
規則正しい。
聞き慣れた歩幅。
近づいてくる。
やがて、自室の扉が静かに叩かれた。
「……はい」
返事をすると、扉の向こうから低い声が届く。
「……俺だ」
その一言だけで、全身から力が抜けた。
安心したのだと、自分でも分かる。
ミレイユは急いで立ち上がり、扉を開いた。
そこには、いつもと変わらぬ表情のアロイスが立っていた。
傷一つない。
それだけで十分だった。
「……お帰りなさいませ」
自然に言葉が零れる。
アロイスは静かに頷いた。
その何気ない一言が、不思議なほど胸へ染みた。
「……話がある」
短く告げる。
「はい」
ミレイユは身体を半歩引き、部屋へ招き入れた。
扉が閉まる。
静かな部屋に、二人だけの時間が流れる。
アロイスはしばらく黙っていた。
何から話すべきか考えている。
戦場では一瞬で判断を下す男が、今は言葉を選んでいた。
やがて口を開く。
「……言われた」
低い声だった。
「お前を巻き込んでいる、と」
ミレイユの瞳が揺れる。
第二皇子の言葉だとすぐに分かった。
アロイスは続ける。
「否定はできなかった」
静かに。
「事実だからだ」
一歩だけ近づく。
その距離に、もう警戒はなかった。
「それでも」
息を整える。
「俺は選んだ」
その言葉に迷いはない。
「戻るつもりはない」
ミレイユは真っ直ぐその瞳を見つめ返した。
恐れはある。
不安もある。
けれど、それ以上に答えは決まっていた。
「……はい」
小さく頷く。
そして静かに微笑んだ。
「私は」
一呼吸置いて続ける。
「離れません」
その声は、もう震えていなかった。
覚悟を宿した、穏やかな声だった。
その瞬間、アロイスの肩からわずかに力が抜ける。
張りつめていた何かが、ようやくほどけたようだった。
ゆっくりと一歩だけ近づく。
互いの息遣いが分かる距離。
それ以上は踏み込まない。
アロイスは静かに右手を持ち上げる。
途中で一瞬だけ止まった。
触れていいのか。
そんな迷いが、ほんのわずかに指先をためらわせる。
ミレイユは動かなかった。
逃げない。
逸らさない。
その姿を見て、アロイスはゆっくりと手を伸ばした。
指先が、そっと頬へ触れる。
温度を確かめるように。
壊れものへ触れるように。
ミレイユは息を呑む。
心臓が強く鳴る。
けれど、不思議と怖くはなかった。
アロイスは何も言わない。
ただ、その瞳に映る少女を静かに見つめている。
やがて親指が、ごくわずかに頬をなぞった。
それだけだった。
それだけで十分だった。
互いに何かを確かめ合うには、それ以上の言葉はいらなかった。
ゆっくりと手が離れる。
名残を惜しむようでもなく、けれど以前のような距離へ戻ることもなく。
二人の間には静かな沈黙が流れていた。
その沈黙は、もう気まずさではない。
同じ未来を見始めた者だけが共有できる、穏やかな静けさだった。




