第14話:覚悟
夕刻。
低く垂れ込めた雲が空を覆い、公爵邸の庭は鈍い灰色に沈んでいた。
風はない。
それでも、屋敷全体を包む空気だけが妙に張り詰めている。
まるで嵐の訪れを待つような静けさだった。
執務室。
机の上には、一通の書状が置かれている。
皇宮の紋章が刻まれた封蝋は、すでに切られていた。
内容は簡潔だ。
第二皇子からの出頭要請。
文面は礼を尽くしている。だが、それが形式に過ぎないことは誰の目にも明らかだった。
断るという選択肢は、最初から用意されていない。
アロイスは最後まで目を通すと、静かに書状を閉じた。
指先が紙の端を一度だけ押さえる。
(……来るか)
予想はしていた。
むしろ、思っていたより遅かったくらいだ。
その時、控えめなノックが響いた。
「失礼いたします」
ルドルフだった。
「入れ」
扉が開き、ルドルフは一礼して室内へ入る。
机上の書状へ目を向けた瞬間、その内容を察したように表情が引き締まった。
「……皇宮からですか」
「ああ」
短い返答。
それだけで十分だった。
数秒、静かな沈黙が流れる。
やがてルドルフは口を開いた。
「お一人で向かわれますか」
「そうなる」
迷いのない返事だった。
ルドルフはわずかに目を伏せる。
(……答えを取りに来ていますね)
これまでの牽制とは違う。
今回は、最終確認だ。
皇宮は、アロイス自身の口から答えを聞くために呼んでいる。
「護衛の準備を――」
「不要だ」
アロイスは静かに遮った。
「行って、答えるだけだ」
戦いに行くわけではない。
だから剣も鎧も要らない。
必要なのは、自分の意思だけだった。
ルドルフは深く一礼する。
「……承知いたしました」
その声には、ごくわずかな緊張が滲んでいた。
主人を信じていないのではない。
信じているからこそ、この先に待つものの重さが分かるのだ。
*
中庭に面した廊下では、ライナーが木陰に腰を下ろし、大きなパンへかぶりついていた。
アロイスの姿を見つけると、片手をひらひらと上げる。
「おう」
パンを一口飲み込み、じっと顔を眺める。
「……顔やべぇな」
相変わらず遠慮がない。
アロイスは立ったまま見下ろした。
「そうか」
「そうだよ」
ライナーは笑う。
「今から殴り込みに行く奴の顔してる」
妙に的確だった。
アロイスは否定しない。
「呼ばれた」
その一言で、ライナーの表情が少しだけ真面目になる。
「あー……」
納得したように頷くと、パンを飲み込み立ち上がった。
「で」
視線を合わせる。
「どうすんだ」
問いは短い。
だが核心だった。
アロイスはしばらく黙っていた。
そして静かに答える。
「……決めている」
その声に迷いはない。
ライナーは鼻で笑った。
「だろうな」
肩を回しながら苦笑する。
「顔見りゃ分かる」
昔からそうだった。
迷っている時のアロイスと、覚悟を決めたアロイスでは、立ち方が違う。
「止めても無駄だろ」
「そうだな」
「なら」
ライナーは豪快に笑う。
「せめて派手にやれ」
その言葉に、アロイスも小さく口元を緩めた。
「努力する」
「違う違う」
ライナーは首を振る。
「勝ってこいって意味じゃねぇ」
少しだけ真顔になる。
「胸張って帰ってこい」
短い言葉だった。
けれど、その方がずっとライナーらしかった。
アロイスはゆっくり頷く。
「ああ」
その一言だけで十分だった。
*
廊下の曲がり角で、一人の男が壁にもたれていた。
エドガーである。
目を閉じていたが、足音に気付くと静かに瞼を開いた。
「……おや」
わざとらしい笑みを浮かべる。
「偶然ですね」
「待っていたな」
アロイスが言うと、エドガーは肩をすくめた。
「さて、どうでしょう」
否定はしない。
そのまま主の顔を眺め、小さく笑う。
「顔色がよろしくありませんね」
「用件は」
無駄話を切る。
エドガーは苦笑した。
「察しておられるでしょう」
一歩前へ出る。
「皇宮へ向かわれるとか」
「ああ」
「止めませんよ」
即答だった。
「止めても行かれるでしょうし」
少し間を置き、
「何より、止める理由がありません」
そう続けた。
アロイスは黙って聞いている。
エドガーは目を細めた。
「閣下らしい選択です」
評価とも、呆れともつかない声音だった。
そして少しだけ声を落とす。
「ですが、無傷では済まないでしょう」
「分かっている」
「でしょうね」
再び沈黙が流れる。
やがてエドガーは、少しだけ口元を緩めた。
「一つだけ」
視線が鋭くなる。
「今回の件……"それ"が理由ですか」
名前は出さない。
出す必要もない。
沈黙。
アロイスは答えなかった。
否定もしない。
それだけで十分だった。
エドガーは小さく笑う。
「……ようやくですか」
その笑みには、皮肉はなかった。
むしろ、どこか安堵しているようにも見える。
「人は理屈だけでは動けません」
静かに言う。
「閣下も、ようやくその側へ来られたということでしょう」
アロイスは何も返さない。
けれど、否定もしなかった。
エドガーは道を空ける。
「では」
軽く頭を下げる。
「ご武運を」
その一礼は、参謀としてではなく、一人の部下としてのものだった。
*
その頃、屋敷の廊下では、使用人たちが小声で話していた。
「出頭って本当?」
「ええ……」
「怖いわね」
沈んだ空気が流れる。
その中で、一人がぽつりと呟いた。
「でも……閣下、本当に断られたのね」
沈黙。
別の誰かが、小さく笑う。
「……閣下、やるぅ!」
「漢を見せたわね!」
「声、大きい!」
慌てて小突かれる。
それでも、誰一人その言葉を否定しなかった。
少し離れた場所で、その会話を聞いてしまったミレイユは、静かに足を止める。
全部ではない。
けれど十分だった。
――出頭。
胸が重く沈む。
理由も、その先に待つものも、想像できてしまう。
気が付けば、足は執務室へ向かっていた。
扉の前で一度深く息を吸う。
ノック。
「……入れ」
中から低い声が返る。
扉を開けると、アロイスはすでに外套を羽織り、出発の支度を終えていた。
視線が重なる。
短い沈黙。
ミレイユは一歩だけ近づく。
「……お出かけになりますか」
分かっていて尋ねる。
「ああ」
短く頷く。
それだけだった。
ミレイユは指先を小さく握りしめる。
何か言わなければ。
けれど、ありきたりな言葉しか浮かばない。
「……どうか、ご無事で」
まず、その一言がこぼれた。
それだけでは終われなかった。
勇気を振り絞るように顔を上げる。
「……お戻りを、お待ちしております」
静かな声だった。
けれど、その一言には彼女自身も気付かぬ願いが込められていた。
アロイスはほんのわずかに目を見開く。
数秒、何も言わない。
やがて静かに頷いた。
「……ああ」
そして。
「戻る」
たった二文字。
けれど、それは命令でも慰めでもない。
約束だった。
ミレイユは小さく微笑む。
その笑みを見届けると、アロイスは踵を返した。
開かれた扉は、静かに閉まる
その背中が見えなくなるまで、ミレイユは一度も目を逸らさなかった。
*
夜。
皇宮の回廊は静まり返っていた。
長く敷かれた赤い絨毯を踏みしめながら、アロイスは一人歩いていく。
足音だけが規則正しく響き、やがて重厚な扉の前で止まった。
近衛騎士が静かに扉を開く。
「どうぞ」
低く告げられ、アロイスは一礼して中へ入った。
室内は灯りが落とされ、昼間よりもずっと静かだった。
窓際のソファに、第二皇子が腰掛けている。
アロイスを見ると、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。
「来たか」
「お呼びと伺い、参上いたしました」
アロイスは一定の距離を保ったまま一礼する。
第二皇子は向かいへ座るよう勧めることもなく、しばらく黙って彼を眺めていた。
やがて、ふっと笑う。
「ずいぶん平気そうだね」
アロイスの表情は動かない。
「何のお話でしょうか」
「分かっているだろう?」
第二皇子は頬杖をついた。
「任務を減らした。権限を削った。会議からもいくつか外した」
まるで今日の天気でも語るような口調だった。
「それでも君は、抗議一つしてこない」
「正当な手続きを経た命令です」
「そういうところ、本当に嫌いじゃないよ」
楽しそうに笑う。
「私がやったと分かっているくせに」
アロイスは否定しなかった。
その沈黙を、第二皇子は肯定として受け取ったらしい。
「安心しろ」
ゆっくりと脚を組む。
「今日は、もう一度返事を聞くために呼んだわけじゃない」
アロイスの視線が僅かに動いた。
第二皇子はそれを見て、ますます楽しそうに目を細める。
「返事なら、あの夜に聞いた」
声から笑みが少しだけ薄れた。
「君は私の側には来ない。それも承知した」
静寂が落ちる。
「だから、この数日は試してみた」
アロイスは黙って聞いている。
「少し立場を削れば、考え直すのか」
一本、指を立てる。
「公爵家へ負担が掛かれば、後悔するのか」
もう一本。
「周囲まで巻き込み始めれば、自分の選択を疑うのか」
三本目。
そこで第二皇子は小さく肩をすくめた。
「どうやら、全部外れたらしい」
その声音には怒りよりも、興味があった。
「正直、少し意外だった」
第二皇子は立ち上がる。
「以前の君なら、こんな選択はしなかった」
ゆっくりと窓辺へ歩いていく。
「公爵家の利益。帝国の利益。自分の立場。周囲へ及ぶ影響」
夜の帝都を見下ろしながら、一つずつ挙げる。
「全部計算して、それでもこちらを選ばない理由などなかったはずだ」
アロイスは何も答えない。
「なのに君は断った」
第二皇子が振り返る。
「そして、これだけ削られても後悔していない」
視線が真正面からぶつかった。
「何を守っている?」
静かな問いだった。
アロイスの表情は変わらない。
「お答えする必要はないかと」
一瞬。
第二皇子が目を丸くした。
そして声を上げて笑った。
「なるほど」
楽しそうだった。
「そういう返しをする時点で、何かあると認めているようなものだよ」
アロイスは沈黙を守る。
第二皇子は気にした様子もなく、再びソファへ腰掛けた。
「まあいい」
軽く手を振る。
「君が何を大事にしようと、私には関係ない」
一拍置く。
「ただし、それが君の弱点になるなら話は別だ」
空気が僅かに張り詰めた。
第二皇子はアロイスを眺めながら、何気ない調子で言葉を続ける。
「公爵家か」
反応はない。
「部下たちか」
変わらない。
「軍での立場?」
アロイスは黙ったままだった。
第二皇子は少し考えるように指先で肘掛けを叩いた。
「……違うな」
そして、ふと思いついたように口にする。
「……あのお姫様かな」
ほんの一瞬だった。
アロイスの瞳が揺れた。
それだけ。
だが、第二皇子は見逃さなかった。
数秒の沈黙のあと、その口元がゆっくりと持ち上がる。
「ああ」
小さな声だった。
「そこだったか」
アロイスは何も言わない。
第二皇子は納得したように何度か頷いた。
「なるほど」
これまで理解できなかったものが、ようやく一つの形になったようだった。
「夜会の時から妙だとは思っていたんだ」
頬杖をつく。
「君が、自分の利益にならないものをあそこまで気に掛けるなんて珍しいからね」
アロイスの視線が僅かに鋭くなる。
それを見て、第二皇子は苦笑した。
「安心しろ」
「私は、彼女をどうこうするつもりはない」
アロイスは答えない。
「彼女を傷つけたところで、君が私のところへ来るわけじゃない。むしろ完全に敵へ回るだけだ」
淡々とした分析だった。
「そんな効率の悪いことはしないよ」
そこで第二皇子は姿勢を起こした。
「狙うなら君だ」
声音から、完全に笑みが消える。
「これまでのものは牽制だ」
静かな声だった。
「だが、これからは違う」
アロイスは真っ直ぐ第二皇子を見る。
「君が自分で選んだ道なら、私はその選択ごと叩く」
政治で。
立場で。
責任で。
一つずつ、逃げ道を塞ぐように。
「君自身が、それでも選び続けられるのかを見る」
第二皇子は立ち上がり、アロイスの前まで歩いてくる。
数歩の距離を残して止まった。
「だから」
その口元へ、再び僅かな笑みが戻った。
「簡単に潰れるなよ」
命令ではなかった。
脅しとも少し違う。
むしろ期待だった。
「せっかく私が見込んだ男なんだ」
肩をすくめる。
「二、三枚書類を送ったくらいで折れられたら、私の見る目まで疑われる」
アロイスは数秒、第二皇子を見つめた。
そして静かに頭を下げる。
「ご心配には及びません」
第二皇子の眉が僅かに上がった。
アロイスは顔を上げる。
「私が選んだことです」
低く、揺るぎのない声だった。
「最後まで、自分で引き受けます」
沈黙。
やがて第二皇子が笑った。
「それでいい」
心底楽しそうな笑みだった。
「次に会う時は、公の場だ」
もう話は終わったのだろう。
第二皇子は再びソファへ腰を下ろした。
「その時は遠慮しない」
アロイスは深く一礼する。
「承知しております」
踵を返す。
重厚な扉が開き、再び静かな回廊が見えた。
背後から、第二皇子の声が飛んでくる。
「シュタルク公爵」
アロイスが足を止める。
「その選択」
振り返らない背中へ、第二皇子は穏やかに告げた。
「私に後悔させてみろ」
アロイスは何も答えなかった。
ただ一度だけ頭を下げ、そのまま部屋を出た。
扉が閉じる。
静かな回廊を歩きながら、アロイスの脳裏には一つの声だけが残っていた。
――お戻りを、お待ちしております。
足は止まらない。
もう迷う必要はなかった。
選択は、とうに終わっている。
今はただ、選んだ道を進むだけだった。




