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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第13話:資格

朝の公爵邸は、澄んだ空気に包まれていた。

磨き上げられた廊下には朝の光が差し込み、使用人たちの足音だけが規則正しく響いている。

何一つ乱れてはいない。

――少なくとも、表面上は。

ミレイユは静かに執務室へ向かっていた。

歩幅は一定で、姿勢も乱れていない。

けれど胸の奥には、昨夜知ったばかりの感情が、まだ静かに残っていた。

これまで何度も感じてきた痛みも、安堵も、戸惑いも。

その理由を、今は知っている。

だからといって、何かが変わったわけではない。

アロイスとの関係も。

自分の立場も。

今日すべきことも。

何一つ変わらない。

ただ、自分の心を知らなかった昨日までには、もう戻れなかった。

執務室の前で足を止め、小さく息を整える。

そして、控えめに扉を叩いた。

「失礼いたします」

「入れ」

低く落ち着いた声が返る。

扉を開けると、アロイスはいつものように机へ向かっていた。

姿勢も、書類へ向ける視線も変わらない。

ミレイユもまた、いつものように机へ歩み寄る。

「本日の報告です」

書類を差し出す。

アロイスはそれを受け取り、簡単に目を通した。

何も変わらない朝だった。

けれど、その静けさにミレイユは少しだけ救われた。

昨夜、自分の気持ちを知ったからといって、すぐに何かを求めたいわけではない。

マルガレーテの言葉を思い出す。

――今はただ、ご自分のお心から逃げないことです。

それでいい。

今はまだ、それだけで。

「ミレイユ」

不意に名を呼ばれ、顔を上げる。

アロイスが書類から視線を外し、こちらを見ていた。

「はい」

「昨日のことだが」

胸の奥がわずかに揺れた。

アロイスは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「皇宮からの通達について、お前が気に病む必要はない」

ミレイユは黙って彼を見る。

昨日も、同じことを言われた。

――俺が決めたことだ。

あの言葉を、今度は疑わずに受け取ろうと思った。

「……はい」

静かに頷く。

「分かっています」

アロイスの目がわずかに細められた。

昨日とは違う返事だったからかもしれない。

「アロイス様がお決めになったことを、私が勝手に自分の責任にしてはいけないと」

アロイスは何も言わなかった。

ただ、しばらくミレイユを見つめている。

やがて手にしていた書類を机へ置いた。

「一つ聞く」

低い声が、静かな部屋に響く。

ミレイユはわずかに姿勢を正した。

「それでも、離れるつもりはあるか」

問いは短かった。

けれど、その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの胸の奥に、あの夜の記憶が蘇った。

――離れるな。

泣きながら聞いた、アロイスの声。

あの時は、ただ嬉しかった。

なぜ嬉しいのかも、なぜその一言に縋りたくなったのかも分からなかった。

けれど今は、その理由を知っている。

ミレイユは静かに息を吸った。

怖くないわけではない。

この先、何が待っているのかも分からない。

アロイスが縁談を断ったことで、すでに皇宮は動き始めている。

それでも昨夜、自分で決めた。

もう、自分の心から逃げないと。

ゆっくりと顔を上げ、まっすぐアロイスを見つめ返す。

「……いいえ」

声には、わずかな震えが残っていた。

それでも、その瞳は揺れない。

「離れません」

誰かに求められたからではない。

あの夜の「離れるな」に、ただ従うためでもない。

今度は、自分で選んだ答えだった。

アロイスは静かに目を細めた。

その表情はほとんど変わらない。

けれど、張り詰めていた何かが、ほんのわずかに緩んだように見えた。

「……そうか」

短い返事だった。

それだけで十分だった。

ミレイユも、それ以上は何も言わない。

想いを伝えるつもりはなかった。

今はまだ、自分の胸の内にあるだけでいい。

ただ一つ。

ここにいることだけは、自分の意思で選べる。

窓から差し込む朝の光が、二人の足元へ静かに落ちていた。

影はまだ重なり切らない。

それでも、以前よりずっと近く、同じ方向を向いていた。

二人はもう、それぞれの意思で前へ進み始めていた。

*

午後。

執務室には新たな封書が積み上げられていた。

皇宮の紋章が押された封筒は、すべて開封済みである。

挿絵(By みてみん)

アロイスは最後の一通を閉じると、静かに机へ置いた。

任務の再編。

権限の停止。

指揮権の移譲。

どれも形式上は正当だった。

だからこそ、意図は隠しようもない。

少しずつ、確実に。

シュタルク公爵という存在を削ろうとしている。

その時、静かなノックが響いた。

「失礼いたします」

ルドルフだった。

ルドルフは机上へ積まれた封書を一瞥し、小さく息を吐いた。

「……追加ですか」

「ああ」

アロイスは淡々と答える。

「段階的に来る」

短い言葉だったが、それだけで十分だった。

一度に奪えば反発を招く。

だから少しずつ削る。

皇宮らしいやり方だった。

「対処は」

「受ける」

間を置かず返す。

「無用な衝突は避ける」

ルドルフは静かに頷いた。

その判断が現時点で最善であることを、誰より理解している。

今は耐えるしかない。

耐えた先で、次の一手を打つ。

政治とはそういうものだった。

*

昼下がり。

中庭では乾いた音が規則正しく響いていた。

ライナーが木剣を振っている。

鋭い一撃。

踏み込み。

返し。

いつもより少しだけ力が入っている。

アロイスはその様子を眺めながら歩み寄った。

気配に気づいたライナーは剣を止め、肩へ担ぐ。

「聞いたぜ」

開口一番だった。

「また削られたんだってな」

「ああ」

「まったく」

ライナーは鼻で笑う。

「面倒くせぇ連中だ」

アロイスも小さく笑った。

「否定はしない」

短い返事だった。

ライナーはしばらく黙っていたが、不意に真顔になる。

「で」

視線を合わせる。

「後悔してるか」

遠回しな言い方はしない。

昔からそういう男だった。

アロイスは少しだけ空を見上げる。

朝よりも、答えははっきりしていた。

「……していない」

静かに言う。

「そうか」

ライナーは口元を緩めた。

「顔見りゃ分かる」

剣を肩で軽く叩きながら笑う。

「前のお前なら、そんな顔しねぇ」

「そうか」

「そうだ」

ライナーは即答した。

「今のお前は、ちゃんと自分で選んだ顔してる」

その言葉に、アロイスは何も返さない。

けれど否定もしなかった。

ライナーは満足そうに頷く。

「ならいい」

剣を肩へ担ぎ直す。

「面倒なのは嫌いだが」

にやりと笑う。

「退屈よりはマシだ」

その豪快な笑い声に、中庭の空気が少しだけ軽くなった。

*

同じ頃。

玄関ホールでは重厚な扉が静かに開いていた。

差し込む白い光の中から、一人の女性が姿を現す。

アンネリーゼ・フォン・アダルベルト。

無駄のない歩幅。

乱れのない所作。

歩くだけで空気が整っていくようだった。

使用人たちが一斉に頭を下げる。

「ご機嫌よう」

穏やかな挨拶を残し、彼女は迷うことなく廊下を進む。

まるで、この屋敷の流れを初めから知っているかのように。

その途中。

向こうから歩いてきたミレイユが足を止めた。

二人の距離が静かに縮まる。

やがて数歩の距離で止まった。

「お久しぶりです、ミレイユ様」

丁寧な一礼。

完璧だった。

ミレイユも静かに頭を下げる。

「……ご機嫌よう」

アンネリーゼは穏やかに微笑む。

「少し、お時間をいただけますか」

断られるとは思っていない。

だが、強制でもない。

ミレイユは少しだけ迷い、それでも頷いた。

「……構いません」

二人は近くの応接室へ入る。

扉が閉まり、静寂だけが残った。

向かい合って腰掛ける。

アンネリーゼは紅茶へ手を伸ばすこともなく、静かに口を開いた。

「単刀直入に申し上げます」

前置きは、それだけだった。

「貴女は、これからもシュタルク公爵の傍にいらっしゃるおつもりですか」

ミレイユは僅かに目を見開いた。

思いがけない問いだった。

「……それは」

「今回の縁談をお断りになったことで、閣下を取り巻く状況は変わりました」

アンネリーゼの声は穏やかだった。

責める響きも、咎める色もない。

ただ、すでに起きている事実を一つずつ並べていく。

「任務の再編。一部権限の停止。管轄の変更」

ミレイユの指先が僅かに強張った。

どれも、昨日から目にしてきたものだった。

「おそらく、これで終わりではないでしょう」

「……はい」

「閣下も、それを承知の上でお断りになったのでしょう」

アンネリーゼはそこで一度言葉を切った。

「ですから、そのご決断について、わたくしが申し上げることはありません」

ミレイユは顔を上げる。

アンネリーゼは静かにこちらを見ていた。

「ですが、貴女は別です」

「私……ですか?」

「ええ」

小さく頷く。

「閣下がどのような道を選ばれようと、貴女まで同じ道を選ばなければならない理由はありません」

ミレイユは何も答えられなかった。

「これまでとは状況が違います。今後、公爵のお立場がさらに難しいものになる可能性もあるでしょう」

アンネリーゼの言葉は、どこまでも冷静だった。

「それでもなお、貴女はあの方の傍にいるおつもりですか」

静寂が落ちる。

ミレイユは膝の上で手を握った。

怖くないわけではない。

この先、何が起きるのかも分からない。

自分に何ができるのかも分からない。

それでも。

同じことを問われた。

――それでも、離れるつもりはあるか。

あの時の答えは、今も変わっていない。

けれど、同じ言葉を繰り返す必要はないと思った。

ミレイユはゆっくりと顔を上げる。

「……この先のことは、分かりません」

正直に答えた。

「私に何ができるのかも、どこまでお力になれるのかも……まだ分かりません」

アンネリーゼは黙って聞いている。

「ですが」

ミレイユは一度だけ息を吸った。

「今、ここを去る理由もありません」

アンネリーゼの瞳が、ほんの僅かに細められた。

「あの方がご自分でお決めになったように、私も……自分で選びたいと思っています」

声は静かだった。

大きな覚悟を語れるほど、自分は強くない。

何があっても支えるなどと、無責任なことも言えない。

ただ。

「今の私は、ここにいたいと思っています」

それだけは、自分の気持ちだった。

しばらく、アンネリーゼは何も言わなかった。

やがて小さく頷く。

「……そうですか」

それ以上の感想はなかった。

安心したとも、正しいとも言わない。

ただ、ミレイユの答えを静かに受け止める。

やがてアンネリーゼは立ち上がった。

「突然このようなことをお尋ねして、申し訳ありませんでした」

「いえ……」

「ただ、確かめておきたかったのです」

ミレイユは僅かに首を傾げる。

「何を、でしょうか」

アンネリーゼは一瞬だけ黙った。

それから、いつもの穏やかな微笑を浮かべる。

「貴女ご自身のお考えを、です」

それ以上は語らなかった。

アンネリーゼは静かに一礼し、応接室を後にする。

扉が閉まる。

一人残されたミレイユは、しばらくその扉を見つめていた。

結局、なぜアンネリーゼがわざわざ自分の意思を確かめに来たのかは、よく分からなかった。

けれど。

問いかけられたことで、一つだけはっきりしたことがある。

アロイスに「離れません」と答えたのは、求められたからではない。

誰かの決断に引きずられたからでもない。

自分が、ここにいたいと思ったからだ。

その気持ちだけは、もう疑わなかった。

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