第13話:資格
朝の公爵邸は、澄んだ空気に包まれていた。
磨き上げられた廊下には朝の光が差し込み、使用人たちの足音だけが規則正しく響いている。
何一つ乱れてはいない。
――少なくとも、表面上は。
ミレイユは静かに執務室へ向かっていた。
歩幅は一定で、姿勢も乱れていない。
けれど胸の奥には、昨夜知ったばかりの感情が、まだ静かに残っていた。
これまで何度も感じてきた痛みも、安堵も、戸惑いも。
その理由を、今は知っている。
だからといって、何かが変わったわけではない。
アロイスとの関係も。
自分の立場も。
今日すべきことも。
何一つ変わらない。
ただ、自分の心を知らなかった昨日までには、もう戻れなかった。
執務室の前で足を止め、小さく息を整える。
そして、控えめに扉を叩いた。
「失礼いたします」
「入れ」
低く落ち着いた声が返る。
扉を開けると、アロイスはいつものように机へ向かっていた。
姿勢も、書類へ向ける視線も変わらない。
ミレイユもまた、いつものように机へ歩み寄る。
「本日の報告です」
書類を差し出す。
アロイスはそれを受け取り、簡単に目を通した。
何も変わらない朝だった。
けれど、その静けさにミレイユは少しだけ救われた。
昨夜、自分の気持ちを知ったからといって、すぐに何かを求めたいわけではない。
マルガレーテの言葉を思い出す。
――今はただ、ご自分のお心から逃げないことです。
それでいい。
今はまだ、それだけで。
「ミレイユ」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
アロイスが書類から視線を外し、こちらを見ていた。
「はい」
「昨日のことだが」
胸の奥がわずかに揺れた。
アロイスは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「皇宮からの通達について、お前が気に病む必要はない」
ミレイユは黙って彼を見る。
昨日も、同じことを言われた。
――俺が決めたことだ。
あの言葉を、今度は疑わずに受け取ろうと思った。
「……はい」
静かに頷く。
「分かっています」
アロイスの目がわずかに細められた。
昨日とは違う返事だったからかもしれない。
「アロイス様がお決めになったことを、私が勝手に自分の責任にしてはいけないと」
アロイスは何も言わなかった。
ただ、しばらくミレイユを見つめている。
やがて手にしていた書類を机へ置いた。
「一つ聞く」
低い声が、静かな部屋に響く。
ミレイユはわずかに姿勢を正した。
「それでも、離れるつもりはあるか」
問いは短かった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの胸の奥に、あの夜の記憶が蘇った。
――離れるな。
泣きながら聞いた、アロイスの声。
あの時は、ただ嬉しかった。
なぜ嬉しいのかも、なぜその一言に縋りたくなったのかも分からなかった。
けれど今は、その理由を知っている。
ミレイユは静かに息を吸った。
怖くないわけではない。
この先、何が待っているのかも分からない。
アロイスが縁談を断ったことで、すでに皇宮は動き始めている。
それでも昨夜、自分で決めた。
もう、自分の心から逃げないと。
ゆっくりと顔を上げ、まっすぐアロイスを見つめ返す。
「……いいえ」
声には、わずかな震えが残っていた。
それでも、その瞳は揺れない。
「離れません」
誰かに求められたからではない。
あの夜の「離れるな」に、ただ従うためでもない。
今度は、自分で選んだ答えだった。
アロイスは静かに目を細めた。
その表情はほとんど変わらない。
けれど、張り詰めていた何かが、ほんのわずかに緩んだように見えた。
「……そうか」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
ミレイユも、それ以上は何も言わない。
想いを伝えるつもりはなかった。
今はまだ、自分の胸の内にあるだけでいい。
ただ一つ。
ここにいることだけは、自分の意思で選べる。
窓から差し込む朝の光が、二人の足元へ静かに落ちていた。
影はまだ重なり切らない。
それでも、以前よりずっと近く、同じ方向を向いていた。
二人はもう、それぞれの意思で前へ進み始めていた。
*
午後。
執務室には新たな封書が積み上げられていた。
皇宮の紋章が押された封筒は、すべて開封済みである。
アロイスは最後の一通を閉じると、静かに机へ置いた。
任務の再編。
権限の停止。
指揮権の移譲。
どれも形式上は正当だった。
だからこそ、意図は隠しようもない。
少しずつ、確実に。
シュタルク公爵という存在を削ろうとしている。
その時、静かなノックが響いた。
「失礼いたします」
ルドルフだった。
ルドルフは机上へ積まれた封書を一瞥し、小さく息を吐いた。
「……追加ですか」
「ああ」
アロイスは淡々と答える。
「段階的に来る」
短い言葉だったが、それだけで十分だった。
一度に奪えば反発を招く。
だから少しずつ削る。
皇宮らしいやり方だった。
「対処は」
「受ける」
間を置かず返す。
「無用な衝突は避ける」
ルドルフは静かに頷いた。
その判断が現時点で最善であることを、誰より理解している。
今は耐えるしかない。
耐えた先で、次の一手を打つ。
政治とはそういうものだった。
*
昼下がり。
中庭では乾いた音が規則正しく響いていた。
ライナーが木剣を振っている。
鋭い一撃。
踏み込み。
返し。
いつもより少しだけ力が入っている。
アロイスはその様子を眺めながら歩み寄った。
気配に気づいたライナーは剣を止め、肩へ担ぐ。
「聞いたぜ」
開口一番だった。
「また削られたんだってな」
「ああ」
「まったく」
ライナーは鼻で笑う。
「面倒くせぇ連中だ」
アロイスも小さく笑った。
「否定はしない」
短い返事だった。
ライナーはしばらく黙っていたが、不意に真顔になる。
「で」
視線を合わせる。
「後悔してるか」
遠回しな言い方はしない。
昔からそういう男だった。
アロイスは少しだけ空を見上げる。
朝よりも、答えははっきりしていた。
「……していない」
静かに言う。
「そうか」
ライナーは口元を緩めた。
「顔見りゃ分かる」
剣を肩で軽く叩きながら笑う。
「前のお前なら、そんな顔しねぇ」
「そうか」
「そうだ」
ライナーは即答した。
「今のお前は、ちゃんと自分で選んだ顔してる」
その言葉に、アロイスは何も返さない。
けれど否定もしなかった。
ライナーは満足そうに頷く。
「ならいい」
剣を肩へ担ぎ直す。
「面倒なのは嫌いだが」
にやりと笑う。
「退屈よりはマシだ」
その豪快な笑い声に、中庭の空気が少しだけ軽くなった。
*
同じ頃。
玄関ホールでは重厚な扉が静かに開いていた。
差し込む白い光の中から、一人の女性が姿を現す。
アンネリーゼ・フォン・アダルベルト。
無駄のない歩幅。
乱れのない所作。
歩くだけで空気が整っていくようだった。
使用人たちが一斉に頭を下げる。
「ご機嫌よう」
穏やかな挨拶を残し、彼女は迷うことなく廊下を進む。
まるで、この屋敷の流れを初めから知っているかのように。
その途中。
向こうから歩いてきたミレイユが足を止めた。
二人の距離が静かに縮まる。
やがて数歩の距離で止まった。
「お久しぶりです、ミレイユ様」
丁寧な一礼。
完璧だった。
ミレイユも静かに頭を下げる。
「……ご機嫌よう」
アンネリーゼは穏やかに微笑む。
「少し、お時間をいただけますか」
断られるとは思っていない。
だが、強制でもない。
ミレイユは少しだけ迷い、それでも頷いた。
「……構いません」
二人は近くの応接室へ入る。
扉が閉まり、静寂だけが残った。
向かい合って腰掛ける。
アンネリーゼは紅茶へ手を伸ばすこともなく、静かに口を開いた。
「単刀直入に申し上げます」
前置きは、それだけだった。
「貴女は、これからもシュタルク公爵の傍にいらっしゃるおつもりですか」
ミレイユは僅かに目を見開いた。
思いがけない問いだった。
「……それは」
「今回の縁談をお断りになったことで、閣下を取り巻く状況は変わりました」
アンネリーゼの声は穏やかだった。
責める響きも、咎める色もない。
ただ、すでに起きている事実を一つずつ並べていく。
「任務の再編。一部権限の停止。管轄の変更」
ミレイユの指先が僅かに強張った。
どれも、昨日から目にしてきたものだった。
「おそらく、これで終わりではないでしょう」
「……はい」
「閣下も、それを承知の上でお断りになったのでしょう」
アンネリーゼはそこで一度言葉を切った。
「ですから、そのご決断について、わたくしが申し上げることはありません」
ミレイユは顔を上げる。
アンネリーゼは静かにこちらを見ていた。
「ですが、貴女は別です」
「私……ですか?」
「ええ」
小さく頷く。
「閣下がどのような道を選ばれようと、貴女まで同じ道を選ばなければならない理由はありません」
ミレイユは何も答えられなかった。
「これまでとは状況が違います。今後、公爵のお立場がさらに難しいものになる可能性もあるでしょう」
アンネリーゼの言葉は、どこまでも冷静だった。
「それでもなお、貴女はあの方の傍にいるおつもりですか」
静寂が落ちる。
ミレイユは膝の上で手を握った。
怖くないわけではない。
この先、何が起きるのかも分からない。
自分に何ができるのかも分からない。
それでも。
同じことを問われた。
――それでも、離れるつもりはあるか。
あの時の答えは、今も変わっていない。
けれど、同じ言葉を繰り返す必要はないと思った。
ミレイユはゆっくりと顔を上げる。
「……この先のことは、分かりません」
正直に答えた。
「私に何ができるのかも、どこまでお力になれるのかも……まだ分かりません」
アンネリーゼは黙って聞いている。
「ですが」
ミレイユは一度だけ息を吸った。
「今、ここを去る理由もありません」
アンネリーゼの瞳が、ほんの僅かに細められた。
「あの方がご自分でお決めになったように、私も……自分で選びたいと思っています」
声は静かだった。
大きな覚悟を語れるほど、自分は強くない。
何があっても支えるなどと、無責任なことも言えない。
ただ。
「今の私は、ここにいたいと思っています」
それだけは、自分の気持ちだった。
しばらく、アンネリーゼは何も言わなかった。
やがて小さく頷く。
「……そうですか」
それ以上の感想はなかった。
安心したとも、正しいとも言わない。
ただ、ミレイユの答えを静かに受け止める。
やがてアンネリーゼは立ち上がった。
「突然このようなことをお尋ねして、申し訳ありませんでした」
「いえ……」
「ただ、確かめておきたかったのです」
ミレイユは僅かに首を傾げる。
「何を、でしょうか」
アンネリーゼは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの穏やかな微笑を浮かべる。
「貴女ご自身のお考えを、です」
それ以上は語らなかった。
アンネリーゼは静かに一礼し、応接室を後にする。
扉が閉まる。
一人残されたミレイユは、しばらくその扉を見つめていた。
結局、なぜアンネリーゼがわざわざ自分の意思を確かめに来たのかは、よく分からなかった。
けれど。
問いかけられたことで、一つだけはっきりしたことがある。
アロイスに「離れません」と答えたのは、求められたからではない。
誰かの決断に引きずられたからでもない。
自分が、ここにいたいと思ったからだ。
その気持ちだけは、もう疑わなかった。




