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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第12話:自覚

翌朝。

公爵邸はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。

東向きの窓から柔らかな光が差し込み、磨き上げられた床へ細長い帯を作っている。

使用人たちはそれぞれの持ち場へ向かい、厨房からは朝食の準備をする音が微かに聞こえていた。

穏やかな朝だった。

昨日、屋敷の主が一つの大きな決断を下したことなど、外から見れば分からないほどに。

執務室でも、表面上は何も変わらない。

アロイスはいつもの席に座り、届いた書類へ目を通していた。

その机上には、一通だけ他とは異なる封書が置かれている。

皇宮の紋章。

赤い封蝋は、すでに割られていた。

アロイスは最後の一文まで読み終えると、静かに紙を机へ戻した。

任務の再編。

一部権限の停止。

管轄区域の変更。

いずれも、形式上は正当なものだった。

そこには処罰という言葉もなければ、縁談の件に触れる記述もない。

だからこそ分かりやすい。

「……来たか」

小さく呟く。

想定していた。

むしろ、何も起こらない方が不自然だった。

第二皇子は、自らの道を阻む者を退けると言った。

そしてその翌朝に、この通達。

偶然だと思うほど、アロイスは楽観的ではない。

ノックが響いた。

「失礼いたします」

ルドルフが入室する。

机上の封書を見るだけで、すぐ状況を察したらしい。

「皇宮からですか」

「ああ」

書面を渡す。

ルドルフは黙って目を通した。

読み終えるにつれて、その表情が僅かに硬くなる。

「……思っていたより早いですね」

「そうだな」

「それに、随分と巧妙です」

ルドルフは書面を戻す。

明確な制裁ではない。

だから抗議する理由もない。

だが確実に、アロイスがこれまで持っていた権限の一部を削いでいる。

「対処はいかがなさいますか」

「受ける」

答えは早かった。

「今は反発する必要はない」

「ですが」

ルドルフが一瞬だけ言葉を止める。

「よろしいのですか」

問いの意味は、政治的な判断だけではない。

この処遇を受け入れる覚悟まで含めて尋ねている。

アロイスは窓の外へ目を向けた。

朝の庭では、庭師たちが作業を始めている。

何も変わらない。

世界は、自分が何を選ぼうと進んでいく。

「俺が選んだことだ」

静かに答えた。

「代償があることくらい、最初から分かっている」

ルドルフはしばらく主人を見つめる。

やがて深く一礼した。

「承知いたしました」

*

午後。

執務室では、ミレイユが資料を整理していた。

新しい命令に合わせ、今後の予定を修正するためだった。

最初は単なる日程変更だと思っていた。

だが、書類を何枚か確認するうちに違和感が積み重なっていく。

これまでアロイスが担当していた地域が外れている。

決裁権限も、一部が別の部署へ移されている。

会議への出席資格まで減らされていた。

偶然ではない。

昨日の出来事を知っているからこそ、そう思った。

指先が止まる。

昨夜。

玄関ホールで聞いた一言。

――断った。

その時、自分は安心した。

嬉しかった。

胸の奥が軽くなった。

その感情を思い出した瞬間、目の前の書類が急に重く見えた。

「……アロイス様」

思わず声を掛ける。

机の向こうで書類を読んでいたアロイスが顔を上げる。

「何だ」

ミレイユは一枚の書面を手にした。

「この変更なのですが……」

続きが言えない。

これは、縁談を断ったことと関係があるのか。

そう尋ねたい。

けれど、尋ねてしまえば答えを聞かなければならない。

自分が聞いていいことなのかも分からない。

アロイスはミレイユの手元へ視線を向けた。

すぐに察したらしい。

「気にする必要はない」

「ですが」

「想定していた」

淡々とした声だった。

まるで、少し予定が変わった程度の話をしているように聞こえる。

ミレイユは書類を握る指へ力を入れた。

「……昨日のことと、関係があるのでしょうか」

とうとう聞いた。

短い沈黙が落ちる。

アロイスは否定しなかった。

「おそらくな」

胸が痛んだ。

予想していた答えなのに。

「でしたら……」

言葉が出ない。

自分があの夜、泣かなければ。

苦しいなどと言わなければ。

この人は違う選択をしたのではないか。

そんな考えが頭をよぎる。

「ミレイユ」

低い声に顔を上げる。

アロイスはまっすぐこちらを見ていた。

「俺が決めたことだ」

責める色はない。

慰めるような響きもない。

ただ、揺るがない事実を伝えている。

「お前が背負うことではない」

息が止まった。

何も言っていないのに、考えていたことを見抜かれたようだった。

ミレイユは小さく頭を下げる。

「……失礼いたしました」

アロイスはそれ以上何も言わない。

再び書類へ視線を戻した。

ミレイユも仕事へ戻る。

けれど、その後は何度同じ文章を読んでも、ほとんど頭へ入ってこなかった。

*

夜。

自室へ戻ったミレイユは、椅子に腰掛けていた。

膝の上には一冊の本が開かれている。

けれど、もう随分前からページは動いていない。

時計の針が小さく時を刻む。

窓の外では夜風が木々を揺らし、葉擦れの音が時折部屋まで届いた。

静かだった。

静かだからこそ、頭の中の声がよく聞こえる。

嬉しかった。

昨夜。

アロイスが縁談を断ったと聞いた瞬間。

考えるより早く、胸が軽くなった。

あんなにも苦しかったものが、一瞬だけ消えた。

それなのに。

今日知った。

アロイスはその選択の代償を支払っている。

権限を減らされ。

立場を削られ。

それでも何も言わずに受け入れている。

――俺が決めたことだ。

その言葉が何度も蘇る。

ミレイユは膝の上で手を握った。

もし。

自分があの夜泣かなければ。

苦しいと訴えなければ。

アロイスは縁談を受けていたのだろうか。

そう思うと、胸が締めつけられる。

その一方で。

もし本当に縁談を受けていたら。

想像する。

アンネリーゼがこの屋敷へ来る。

アロイスの隣に立つ。

やがて、この屋敷の女主人になる。

その光景を思い浮かべた瞬間。

胸の奥から、はっきりとした拒絶が湧き上がった。

嫌だ。

そう思った。

自分でも驚くほど強く。

ミレイユは目を閉じる。

何なのだろう。

この感情は。

安堵して。

罪悪感を抱いて。

心配して。

それでも彼が誰かを選ばなかったことを喜んでいる。

そんな自分が、ひどく身勝手に思えた。

その時、静かなノックが響いた。

「……はい」

扉が開く。

現れたのはマルガレーテだった。

手には香草茶の載った盆を持っている。

いつもと変わらない穏やかな顔。

それを見た途端、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。

「少し、お邪魔してもよろしいでしょうか」

「もちろんです」

マルガレーテは盆を机へ置いた。

湯気がゆっくりと立ち上り、柔らかな香りが部屋へ広がる。

彼女は向かいの椅子ではなく、ミレイユの隣へ腰を下ろした。

何も尋ねない。

何があったのかとも。

泣いているのかとも。

ただ静かに、同じ場所にいる。

その沈黙が優しかった。

やがてミレイユは、自分から口を開いた。

「……マルガレーテさん」

「はい」

「私……嬉しかったんです」

掠れた声だった。

「昨日、アロイス様が縁談を断られたと聞いて」

マルガレーテは何も言わない。

続きを待つ。

「安心しました……本当に」

言葉にした途端、胸が痛んだ。

「でも今日、皇宮からの通達を見て」

膝の上で握った手が震える。

「あの方は、それで不利益を受けているんです」

視界がじわりと滲む。

「私が、あんなことを言ったからでしょうか」

マルガレーテの表情は変わらない。

「私が、苦しいなんて言わなければ……」

声が詰まる。

「アロイス様は、もっと正しい選択をなさったんでしょうか」

挿絵(By みてみん)

少しの沈黙のあと、マルガレーテが静かに尋ねた。

「ミレイユ様」

「はい」

「坊ちゃんは、誰かに泣かれたからというだけで、ご自身の進む道を変えるようなお方でしょうか」

ミレイユは目を瞬いた。

そんなはずはない。

誰より頑固で。

誰より自分で考える人だ。

「……いいえ」

「でしたら」

マルガレーテの手が、そっとミレイユの肩へ触れる。

「それは、坊ちゃんがお選びになった道です」

優しい声だった。

「ご自分で考え、覚悟をなさって選ばれたのでしょう」

「でも……」

「ミレイユ様がすべてをご自分のせいになさってしまったら、坊ちゃんのご決断まで奪うことになってしまいますわ」

思いがけない言葉だった。

ミレイユは何も返せない。

確かに。

アロイスは言った。

――俺が決めたことだ。

それなのに自分が勝手に「私のせいだ」と決めてしまうのは、あの言葉を信じていないことになる。

「……そう、ですね」

小さく息を吐く。

少しだけ、胸を締めつけていたものが緩んだ。

それでも、別の苦しさは残っている。

ミレイユは俯いた。

「でも」

声がまた震える。

「それでも……嬉しかったんです」

涙が一粒、膝へ落ちた。

「アロイス様が、アンネリーゼ様を選ばなかったことが」

もう一粒。

「喜んではいけないのに」

「なぜです?」

穏やかな問いだった。

ミレイユは顔を上げる。

「……え?」

「なぜ、喜んではいけないのでしょう」

答えが出ない。

マルガレーテは急かさない。

ただ、そこにいる。

ミレイユはゆっくりと自分の胸へ手を当てた。

夜会。

二人が踊っていた。

苦しかった。

見たくなかった。

アロイスに離れるなと言われた。

嬉しかった。

縁談を断ったと聞いた。

安心した。

今日、彼が不利益を受けたと知った。

自分のことより苦しかった。

ひとつ。

またひとつ。

ばらばらだった感情が、ゆっくり一本の線へ繋がっていく。

「あ……」

小さな声が漏れた。

今まで分からなかったことが。

あまりにも簡単な答えになって、目の前へ現れる。

どうして思いつかなかったのだろう。

いや。

思いつきたくなかったのかもしれない。

身分も。

立場も。

何もかも違う。

だから無意識に、自分には関係のない感情だと思おうとしていた。

けれど。

心はそんな理屈に従ってくれなかった。

「私……」

声が震える。

「アロイス様のことを……」

続かない。

言葉にしてしまえば、もう戻れない。

けれど。

すでに戻れないところまで来ている。

ミレイユは目を閉じた。

そして、自分自身へ聞かせるように静かに言った。

「……お慕いしているんですね」

その瞬間。

涙が溢れた。

悲しいわけではない。

苦しいだけでもない。

長い間、胸の奥にあった何かに、ようやく名前がついた。

ただ、それだけだった。

マルガレーテは何も驚かなかった。

「そうでしたか」

静かに答え、ミレイユの背へ腕を回す。

そして、幼い子どもをあやすように、ゆっくり背中を撫でた。

知っていましたとも。

やはりそうでしたかとも。

そんなことは、一言も言わない。

今この想いを見つけたのは、ミレイユ自身だから。

しばらくして。

涙が少し落ち着いた頃、ミレイユは困ったように笑った。

「……どうしたらいいんでしょう」

その問いに、マルガレーテも穏やかに笑う。

「何もしなくてよろしいのではありませんか?」

「……え?」

「今日お気持ちに気付かれたからといって、明日には何かを決めなければならないわけではございません」

香草茶から立ち上っていた湯気は、いつの間にか薄くなっている。

「今はただ、ご自分のお心から逃げないことです」

ミレイユはしばらく黙っていた。

そして、ゆっくり頷く。

「……はい」

もう否定しない。

夜会で感じた痛みも。

離れるなと言われた時の喜びも。

縁談を断ったと聞いて安心したことも。

この人が傷つくことを、自分のことより苦しいと思ったことも。

全部。

自分の心だった。

窓の外には淡い月が浮かんでいる。

何かが解決したわけではない。

二人の関係も、明日から急に変わるわけではない。

アロイスが自分をどう思っているのかも、まだ分からない。

それでも。

ミレイユはこの夜、初めて知った。

ずっと胸の奥に宿っていた想いの名前を。

そしてもう、その想いから目を逸らさないと。

静かに決めた。

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