第12話:自覚
翌朝。
公爵邸はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。
東向きの窓から柔らかな光が差し込み、磨き上げられた床へ細長い帯を作っている。
使用人たちはそれぞれの持ち場へ向かい、厨房からは朝食の準備をする音が微かに聞こえていた。
穏やかな朝だった。
昨日、屋敷の主が一つの大きな決断を下したことなど、外から見れば分からないほどに。
執務室でも、表面上は何も変わらない。
アロイスはいつもの席に座り、届いた書類へ目を通していた。
その机上には、一通だけ他とは異なる封書が置かれている。
皇宮の紋章。
赤い封蝋は、すでに割られていた。
アロイスは最後の一文まで読み終えると、静かに紙を机へ戻した。
任務の再編。
一部権限の停止。
管轄区域の変更。
いずれも、形式上は正当なものだった。
そこには処罰という言葉もなければ、縁談の件に触れる記述もない。
だからこそ分かりやすい。
「……来たか」
小さく呟く。
想定していた。
むしろ、何も起こらない方が不自然だった。
第二皇子は、自らの道を阻む者を退けると言った。
そしてその翌朝に、この通達。
偶然だと思うほど、アロイスは楽観的ではない。
ノックが響いた。
「失礼いたします」
ルドルフが入室する。
机上の封書を見るだけで、すぐ状況を察したらしい。
「皇宮からですか」
「ああ」
書面を渡す。
ルドルフは黙って目を通した。
読み終えるにつれて、その表情が僅かに硬くなる。
「……思っていたより早いですね」
「そうだな」
「それに、随分と巧妙です」
ルドルフは書面を戻す。
明確な制裁ではない。
だから抗議する理由もない。
だが確実に、アロイスがこれまで持っていた権限の一部を削いでいる。
「対処はいかがなさいますか」
「受ける」
答えは早かった。
「今は反発する必要はない」
「ですが」
ルドルフが一瞬だけ言葉を止める。
「よろしいのですか」
問いの意味は、政治的な判断だけではない。
この処遇を受け入れる覚悟まで含めて尋ねている。
アロイスは窓の外へ目を向けた。
朝の庭では、庭師たちが作業を始めている。
何も変わらない。
世界は、自分が何を選ぼうと進んでいく。
「俺が選んだことだ」
静かに答えた。
「代償があることくらい、最初から分かっている」
ルドルフはしばらく主人を見つめる。
やがて深く一礼した。
「承知いたしました」
*
午後。
執務室では、ミレイユが資料を整理していた。
新しい命令に合わせ、今後の予定を修正するためだった。
最初は単なる日程変更だと思っていた。
だが、書類を何枚か確認するうちに違和感が積み重なっていく。
これまでアロイスが担当していた地域が外れている。
決裁権限も、一部が別の部署へ移されている。
会議への出席資格まで減らされていた。
偶然ではない。
昨日の出来事を知っているからこそ、そう思った。
指先が止まる。
昨夜。
玄関ホールで聞いた一言。
――断った。
その時、自分は安心した。
嬉しかった。
胸の奥が軽くなった。
その感情を思い出した瞬間、目の前の書類が急に重く見えた。
「……アロイス様」
思わず声を掛ける。
机の向こうで書類を読んでいたアロイスが顔を上げる。
「何だ」
ミレイユは一枚の書面を手にした。
「この変更なのですが……」
続きが言えない。
これは、縁談を断ったことと関係があるのか。
そう尋ねたい。
けれど、尋ねてしまえば答えを聞かなければならない。
自分が聞いていいことなのかも分からない。
アロイスはミレイユの手元へ視線を向けた。
すぐに察したらしい。
「気にする必要はない」
「ですが」
「想定していた」
淡々とした声だった。
まるで、少し予定が変わった程度の話をしているように聞こえる。
ミレイユは書類を握る指へ力を入れた。
「……昨日のことと、関係があるのでしょうか」
とうとう聞いた。
短い沈黙が落ちる。
アロイスは否定しなかった。
「おそらくな」
胸が痛んだ。
予想していた答えなのに。
「でしたら……」
言葉が出ない。
自分があの夜、泣かなければ。
苦しいなどと言わなければ。
この人は違う選択をしたのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
「ミレイユ」
低い声に顔を上げる。
アロイスはまっすぐこちらを見ていた。
「俺が決めたことだ」
責める色はない。
慰めるような響きもない。
ただ、揺るがない事実を伝えている。
「お前が背負うことではない」
息が止まった。
何も言っていないのに、考えていたことを見抜かれたようだった。
ミレイユは小さく頭を下げる。
「……失礼いたしました」
アロイスはそれ以上何も言わない。
再び書類へ視線を戻した。
ミレイユも仕事へ戻る。
けれど、その後は何度同じ文章を読んでも、ほとんど頭へ入ってこなかった。
*
夜。
自室へ戻ったミレイユは、椅子に腰掛けていた。
膝の上には一冊の本が開かれている。
けれど、もう随分前からページは動いていない。
時計の針が小さく時を刻む。
窓の外では夜風が木々を揺らし、葉擦れの音が時折部屋まで届いた。
静かだった。
静かだからこそ、頭の中の声がよく聞こえる。
嬉しかった。
昨夜。
アロイスが縁談を断ったと聞いた瞬間。
考えるより早く、胸が軽くなった。
あんなにも苦しかったものが、一瞬だけ消えた。
それなのに。
今日知った。
アロイスはその選択の代償を支払っている。
権限を減らされ。
立場を削られ。
それでも何も言わずに受け入れている。
――俺が決めたことだ。
その言葉が何度も蘇る。
ミレイユは膝の上で手を握った。
もし。
自分があの夜泣かなければ。
苦しいと訴えなければ。
アロイスは縁談を受けていたのだろうか。
そう思うと、胸が締めつけられる。
その一方で。
もし本当に縁談を受けていたら。
想像する。
アンネリーゼがこの屋敷へ来る。
アロイスの隣に立つ。
やがて、この屋敷の女主人になる。
その光景を思い浮かべた瞬間。
胸の奥から、はっきりとした拒絶が湧き上がった。
嫌だ。
そう思った。
自分でも驚くほど強く。
ミレイユは目を閉じる。
何なのだろう。
この感情は。
安堵して。
罪悪感を抱いて。
心配して。
それでも彼が誰かを選ばなかったことを喜んでいる。
そんな自分が、ひどく身勝手に思えた。
その時、静かなノックが響いた。
「……はい」
扉が開く。
現れたのはマルガレーテだった。
手には香草茶の載った盆を持っている。
いつもと変わらない穏やかな顔。
それを見た途端、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。
「少し、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
マルガレーテは盆を机へ置いた。
湯気がゆっくりと立ち上り、柔らかな香りが部屋へ広がる。
彼女は向かいの椅子ではなく、ミレイユの隣へ腰を下ろした。
何も尋ねない。
何があったのかとも。
泣いているのかとも。
ただ静かに、同じ場所にいる。
その沈黙が優しかった。
やがてミレイユは、自分から口を開いた。
「……マルガレーテさん」
「はい」
「私……嬉しかったんです」
掠れた声だった。
「昨日、アロイス様が縁談を断られたと聞いて」
マルガレーテは何も言わない。
続きを待つ。
「安心しました……本当に」
言葉にした途端、胸が痛んだ。
「でも今日、皇宮からの通達を見て」
膝の上で握った手が震える。
「あの方は、それで不利益を受けているんです」
視界がじわりと滲む。
「私が、あんなことを言ったからでしょうか」
マルガレーテの表情は変わらない。
「私が、苦しいなんて言わなければ……」
声が詰まる。
「アロイス様は、もっと正しい選択をなさったんでしょうか」
少しの沈黙のあと、マルガレーテが静かに尋ねた。
「ミレイユ様」
「はい」
「坊ちゃんは、誰かに泣かれたからというだけで、ご自身の進む道を変えるようなお方でしょうか」
ミレイユは目を瞬いた。
そんなはずはない。
誰より頑固で。
誰より自分で考える人だ。
「……いいえ」
「でしたら」
マルガレーテの手が、そっとミレイユの肩へ触れる。
「それは、坊ちゃんがお選びになった道です」
優しい声だった。
「ご自分で考え、覚悟をなさって選ばれたのでしょう」
「でも……」
「ミレイユ様がすべてをご自分のせいになさってしまったら、坊ちゃんのご決断まで奪うことになってしまいますわ」
思いがけない言葉だった。
ミレイユは何も返せない。
確かに。
アロイスは言った。
――俺が決めたことだ。
それなのに自分が勝手に「私のせいだ」と決めてしまうのは、あの言葉を信じていないことになる。
「……そう、ですね」
小さく息を吐く。
少しだけ、胸を締めつけていたものが緩んだ。
それでも、別の苦しさは残っている。
ミレイユは俯いた。
「でも」
声がまた震える。
「それでも……嬉しかったんです」
涙が一粒、膝へ落ちた。
「アロイス様が、アンネリーゼ様を選ばなかったことが」
もう一粒。
「喜んではいけないのに」
「なぜです?」
穏やかな問いだった。
ミレイユは顔を上げる。
「……え?」
「なぜ、喜んではいけないのでしょう」
答えが出ない。
マルガレーテは急かさない。
ただ、そこにいる。
ミレイユはゆっくりと自分の胸へ手を当てた。
夜会。
二人が踊っていた。
苦しかった。
見たくなかった。
アロイスに離れるなと言われた。
嬉しかった。
縁談を断ったと聞いた。
安心した。
今日、彼が不利益を受けたと知った。
自分のことより苦しかった。
ひとつ。
またひとつ。
ばらばらだった感情が、ゆっくり一本の線へ繋がっていく。
「あ……」
小さな声が漏れた。
今まで分からなかったことが。
あまりにも簡単な答えになって、目の前へ現れる。
どうして思いつかなかったのだろう。
いや。
思いつきたくなかったのかもしれない。
身分も。
立場も。
何もかも違う。
だから無意識に、自分には関係のない感情だと思おうとしていた。
けれど。
心はそんな理屈に従ってくれなかった。
「私……」
声が震える。
「アロイス様のことを……」
続かない。
言葉にしてしまえば、もう戻れない。
けれど。
すでに戻れないところまで来ている。
ミレイユは目を閉じた。
そして、自分自身へ聞かせるように静かに言った。
「……お慕いしているんですね」
その瞬間。
涙が溢れた。
悲しいわけではない。
苦しいだけでもない。
長い間、胸の奥にあった何かに、ようやく名前がついた。
ただ、それだけだった。
マルガレーテは何も驚かなかった。
「そうでしたか」
静かに答え、ミレイユの背へ腕を回す。
そして、幼い子どもをあやすように、ゆっくり背中を撫でた。
知っていましたとも。
やはりそうでしたかとも。
そんなことは、一言も言わない。
今この想いを見つけたのは、ミレイユ自身だから。
しばらくして。
涙が少し落ち着いた頃、ミレイユは困ったように笑った。
「……どうしたらいいんでしょう」
その問いに、マルガレーテも穏やかに笑う。
「何もしなくてよろしいのではありませんか?」
「……え?」
「今日お気持ちに気付かれたからといって、明日には何かを決めなければならないわけではございません」
香草茶から立ち上っていた湯気は、いつの間にか薄くなっている。
「今はただ、ご自分のお心から逃げないことです」
ミレイユはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷く。
「……はい」
もう否定しない。
夜会で感じた痛みも。
離れるなと言われた時の喜びも。
縁談を断ったと聞いて安心したことも。
この人が傷つくことを、自分のことより苦しいと思ったことも。
全部。
自分の心だった。
窓の外には淡い月が浮かんでいる。
何かが解決したわけではない。
二人の関係も、明日から急に変わるわけではない。
アロイスが自分をどう思っているのかも、まだ分からない。
それでも。
ミレイユはこの夜、初めて知った。
ずっと胸の奥に宿っていた想いの名前を。
そしてもう、その想いから目を逸らさないと。
静かに決めた。




