第11話:戻れない選択
夕暮れの公爵邸は、不思議なほど静かだった。
西へ傾いた陽が長い廊下へ差し込み、磨き上げられた床を橙色に染めている。
窓枠の影は等間隔に伸び、時折そこを使用人が横切るたび、細長い影が静かに揺れた。
一日の仕事を終えつつある屋敷には、普段ならどこか安堵した空気が漂う。
だが今日は違う。
誰も口にはしないものの、何かを待っているような落ち着かなさがあった。
執務室では、アロイスが机に向かっていた。
手元には今日一日の報告書が積まれている。
北方から届いた輸送状況。
領地の収支。
皇宮から回された政務に関する書簡。
どれも、いつもなら迷うことなく処理できるものばかりだった。
それでも今日は、何度もペンが止まる。
ほんの数秒。
その程度のことだった。
けれど、普段の彼を知る者が見れば、それだけで異常だと気付いただろう。
視線が書面から離れる。
脳裏へ浮かんだのは、屋敷を訪れたアンネリーゼの姿だった。
落ち着いた声。
一切の無駄がない説明。
縁談によって得られるものを、彼女は明確に示した。
アダルベルト侯爵家との結びつき。
皇宮内での立場。
帝国貴族社会への影響。
政治的な不利益はほとんどない。
むしろ、公爵として考えるならば、受けるべき話だった。
そこには感情が入り込む余地などない。
少なくとも、これまでの自分ならそう判断したはずだ。
アロイスは椅子へ深く腰掛けた。
窓の外へ視線を向ける。
庭園の木々が夕陽を受け、長い影を落としている。
風が吹いた。
枝葉が揺れ、その影もまた形を変える。
以前なら。
そんな言葉が胸に浮かぶ。
以前の自分なら、どうしただろう。
おそらく迷わなかった。
公爵家にとって何が最善か。
帝国にとって何が利益になるか。
必要ならば自分自身の感情など、最初から計算に入れなかった。
それで困ったことはない。
むしろ、そうやって生きてきた。
だから公爵家を守ってこれた。
だから今、この場所にいる。
その選び方が間違っていたとは思わない。
だが。
目を閉じる。
浮かんだのは、夜会の華やかな光景ではなかった。
床へ座り込み、顔を覆って泣く少女だった。
震える肩。
途切れる声。
涙で濡れた瞳。
――どうして、こんなに苦しいんですか……!
胸の奥がわずかに軋む。
あの時の自分は、答えを持っていなかった。
何を言えばいいのか分からず。
どう慰めればいいのかも分からず。
それでも、一つだけ分かった。
離れてほしくなかった。
だから言った。
――それだけではない。
――だから、離れるな。
あの言葉は、考えて出したものではなかった。
公爵としてでも。
保護者としてでもない。
もっと個人的で、もっと身勝手な何かだった。
そして今になっても、その気持ちは消えていない。
むしろ、はっきりとしている。
ミレイユがまた自分から離れようとするところを想像すると、胸の内へ強い拒絶が生まれる。
彼女がこの屋敷からいなくなることも。
誰かのもとへ行くことも。
受け入れられる気がしない。
ならば。
この縁談を受けた先に、何がある。
政略結婚だとしても、婚約は婚約だ。
夫婦になる以上、責任が生じる。
相手へ対する礼儀も必要になる。
その隣にミレイユを置いたまま、自分だけ別の女と婚姻する。
そんなものを平然と受け入れられるほど、自分は器用ではない。
そして何より。
あの涙を知ってしまった。
知らなければ選べた道も、知ったあとでは同じではない。
机の上で、ペンを握っていた指がわずかに緩んだ。
その時、扉が静かに叩かれる。
「閣下」
ルドルフの声だった。
「皇宮より伝達がございます」
アロイスは目を開いた。
しばらく机上の書類を見つめたあと、ペンを置く。
「入れ」
扉が開き、ルドルフが一礼して室内へ入った。
いつも通り落ち着いた表情だったが、その手には皇宮の紋章が入った封書がある。
「第二皇子殿下より、本日中に皇宮へお越しいただきたいとのことです」
アロイスは無言で受け取った。
封を切り、短い文面へ目を走らせる。
内容は口頭で聞いたものと変わらない。
そして最後には、返答を求める一文が記されていた。
もう時間はない。
ルドルフが黙ったまま待っている。
アロイスは文面を折り戻した。
「……馬車を用意しろ」
「かしこまりました」
ルドルフは一礼する。
それでもすぐには退室せず、わずかに視線を上げた。
「閣下」
「何だ」
「お決めになりましたか」
普段の彼なら、主人の判断へ踏み込むような問いはしない。
だからこそ、その一言が重かった。
アロイスはしばらくルドルフを見る。
長く自分を支えてきた男だった。
自分が何を選ぶとしても、彼はおそらく従う。
だからこそ、曖昧なことは言いたくなかった。
「ああ」
短く答える。
「決めた」
それ以上は何も言わなかった。
ルドルフも尋ねない。
ただ静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
扉が閉じる。
再び一人になった執務室で、アロイスはゆっくり立ち上がった。
窓の外では、夕陽がほとんど沈みかけている。
昼と夜の境目。
一度暗くなれば、同じ今日には戻れない。
そんな当たり前のことを、なぜか意識した。
*
夜。
皇宮の一室は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
高い窓の向こうには帝都の灯が広がり、室内には大きな燭台が柔らかな光を落としている。
重厚な扉が閉じられると、外の音はほとんど聞こえなくなった。
アロイスは一人、部屋の中央に立っていた。
窓際では第二皇子が帝都を眺めている。
「来たか」
振り返った顔には、いつもと変わらぬ穏やかな笑みが浮かんでいた。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
アロイスが一礼する。
「そんなに堅くならなくていい」
第二皇子は軽く笑い、ソファへ腰を下ろした。
向かいの席を勧めることはしない。
アロイスも座ろうとはしなかった。
それだけで、これは親しい会話ではなく、互いの立場を確認する場なのだと分かる。
第二皇子はしばらくアロイスを眺めた。
そして、余計な前置きを一切せずに尋ねる。
「答えを聞こう」
静かな声だった。
アロイスは一度だけ息を吐いた。
最後に頭へ浮かんだのは、政治でも公爵家でもなかった。
泣きながら、それでも自分から逃げなかった少女だった。
「……お受けできません」
言葉は驚くほど静かに出た。
迷いはなかった。
室内へ沈黙が落ちる。
第二皇子は表情を変えない。
怒りも。
落胆も。
しばらくは何も見えなかった。
やがて、ごく小さく息を吐いた。
「……そうか」
その一言のあと、視線を窓の外へ戻す。
「残念だ」
それだけは、本心に聞こえた。
「お前ほどの男なら、私の理想を実現する力になってくれると思っていた」
アロイスは黙って聞いている。
「アダルベルト侯爵家と結ばれれば、お前はこちら側へ引き寄せやすくなる」
第二皇子は窓の外へ視線を向けた。眼下には、夜の帝都に無数の灯りが瞬いている。
「侯爵家にも利益がある。お前にとっても悪い話ではない」
そこで一度言葉を切り、再びアロイスを見る。
「帝国全体を見ても、理にかなった縁談だった」
「承知しております」
「だろうね」
第二皇子は苦笑する。
「それを理解していて、断った」
視線が再び向けられる。
「ずいぶん変わったな、シュタルク公爵」
一瞬だけ、アロイスの目が揺れる。
変わった。
自分では、まだそう思っていなかった。
ただ、以前と同じ選択ができなくなっただけだ。
第二皇子はそれ以上追及しなかった。
「理由を聞いてもいいが」
ゆっくりと立ち上がる。
「聞いたところで、答えが変わるわけでもあるまい」
アロイスは何も答えない。
第二皇子も答えを求めてはいなかった。
「ならば私は、私の道を進む」
声から、先ほどまでの柔らかさが少しだけ薄れる。
「私の理想とする帝国のために」
一歩。
窓辺から離れる。
「その道を阻む者は、誰であろうと退ける」
さらに一歩。
二人の距離が縮まる。
「それがお前でも、例外ではない」
脅しではない。
感情をぶつけているわけでもない。
それが、この男の信念なのだ。
だからこそアロイスも真正面から受け止めた。
「承知しております」
第二皇子は数秒、彼の顔を見つめる。
やがて口元を緩めた。
「それでいい」
穏やかな笑みが戻る。
「簡単に折れてくれるなよ」
その言葉に、アロイスはわずかに眉を上げた。
「私が見込んだ男なのだから」
敵対するかもしれない相手へ向ける言葉としては、奇妙なものだった。
それでも、第二皇子らしいとも思う。
アロイスは深く一礼した。
「ご期待には添えるよう、努めます」
「期待しているよ、公爵」
その声音は最後まで穏やかだった。
けれど。
この瞬間。
互いに戻れない場所まで進んだのだと、二人とも理解していた。
*
公爵邸へ戻った頃には、夜も更けていた。
玄関ホールには灯りが残っている。
ルドルフ。
エドガー。
ライナー。
そしてマルガレーテ。
誰も迎えに出るよう命じられたわけではない。
それでも全員がそこにいた。
扉が開く。
アロイスが入ってくる。
マルガレーテが静かに歩み寄り、外套を受け取った。
誰もすぐには尋ねなかった。
アロイスも余計な説明をしない。
ただ一言。
「断った」
広い玄関ホールへ、その声が落ちる。
数秒の沈黙。
やがてエドガーがゆっくり息を吐いた。
「……そうですか」
ルドルフは目を閉じ、一度だけ頷く。
ライナーはしばらくアロイスを見つめたあと、口元を緩めた。
「いいじゃねぇか」
軽い言葉だった。
けれど、その目は真っ直ぐだった。
マルガレーテも何も言わなかった。
ただ、外套を抱えたまま、ほんの少しだけ目元を和らげる。
その時、廊下の奥から小さな物音がした。
アロイスが顔を上げる。
そこにミレイユが立っていた。
何か用があって通りかかったのだろう。
だが、足を止めたまま動かない。
聞こえた。
――断った。
胸の奥へ、その言葉が落ちる。
最初に湧いたのは安堵だった。
次に、嬉しさ。
そしてすぐ、その感情に戸惑う。
喜んでいいはずがない。
政治的には、受ける方が正しかった。
アンネリーゼの言葉は一つも間違っていない。
それでも。
嬉しい。
その気持ちだけは、どれほど否定しようとしても消えなかった。
アロイスが歩いてくる。
数歩の距離を残して、二人は立ち止まった。
言いたいことはいくつもある気がする。
それなのに、何一つ言葉にならない。
ミレイユは小さく息を吸い、いつものように頭を下げた。
「……おかえりなさいませ」
声が、少しだけ震えた。
アロイスはその変化に気付いたのか、それとも気付かなかったのか。
静かに頷く。
「戻った」
それだけだった。
けれど、以前とは違う。
言葉の少なさが、距離には感じられない。
アロイスは自分で選んだ。
その先に何が待っているのか分からなくても。
もう、選ばなかった道へは戻らない。
そしてミレイユもまた。
その選択を、ただ遠くから見ていることはできなくなっていた。




