↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
PR
68/144

第10話:最善手

朝の公爵邸は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

磨き上げられた廊下を、使用人たちが規則正しく行き交う。

足音は揃い、無駄な物音は一つもない。

何も変わらない朝。

――少なくとも、表面上は。

執務室では、アロイスが机に積まれた書類へ目を通していた。

視線は正確に文字を追い、手元のペンも止まることはない。

それでも、いつもより僅かに遅い。

読み終えるまでの時間が、ほんの少しだけ長くなっていた。

本人だけが気付いていない、小さな変化だった。

その時、扉が静かに叩かれる。

「失礼いたします」

聞き慣れた声だった。

「入れ」

短く返すと、扉が開き、ミレイユが入室する。

姿勢も所作も、いつもと変わらない。

だが、纏う空気が違っていた。

昨日までのように、意識して距離を取ろうとする硬さはない。

かといって、以前のように自然に近づけるわけでもない。

まだ少しぎこちない。

それでも、その距離は少しだけ柔らかくなっていた。

「本日の報告です」

ミレイユが書類を差し出す。

アロイスはそれを受け取ろうと手を伸ばした。

指先が、そっと触れる。

ほんの一瞬。

それだけのことだった。

だが、二人とも気付いてしまう。

ミレイユは小さく息を呑み、自然な動作を装って手を離した。

アロイスも何も言わない。

ただ、指先に残った微かな温もりだけが、不思議と意識に残る。

「……以上です」

ミレイユは静かに頭を下げた。

視線は伏せられている。

それでも、もう逃げるようには逸らさない。

アロイスは報告書へ目を落とした。

内容は頭へ入ってくる。

それなのに、思考のどこかが先ほどの感触を引きずっていた。

「……ああ」

返事はそれだけだった。

ミレイユも余計な言葉は重ねず、一礼して執務室を後にする。

昨日のようなぎこちなさはない。

かといって以前と同じでもない。

ほんの少しだけ。

二人の距離は、昨日より自然になっていた。

その小さな変化に、公爵邸で働く者たちは敏感だった。

誰も口にはしない。

けれど、どこか張り詰めていた空気が、少しだけ和らいでいることを皆が感じていた。

*

午前。

応接室には、静かな緊張感が漂っていた。

余計な装飾はなく、置かれている調度品も質実剛健なものばかり。

その中央で、アロイスとアンネリーゼが向かい合って座っている。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

アンネリーゼがゆるやかに一礼する。

金色の髪は乱れず、その所作には一切の無駄がない。

そこにいるだけで、その場の空気が自然と整っていく。

「用件は分かっている」

アロイスが簡潔に返す。

前置きは不要だった。

アンネリーゼも静かに頷く。

「先日の夜会以降、周囲の認識はほぼ固まりつつあります」

穏やかな口調で事実を並べる。

感情は一切乗せない。

「『お二人は釣り合っている』と」

「『いずれ結ばれるのではないか』と」

静かな声だった。

だからこそ重い。

それは脅しではなく、貴族社会の現実を淡々と説明しているだけだった。

アロイスは表情を変えない。

「噂は噂だ」

短く返す。

アンネリーゼは素直に頷いた。

「ええ、その通りです」

否定はしない。

「ですが、人は噂に従って行動します」

「認識は、やがて現実へ影響を及ぼします」

「それが貴族社会というものです」

逃げ道を塞ぐための言葉ではない。

事実を、一つずつ机へ並べているだけだった。

アロイスは数秒考え、静かに口を開く。

「だからといって、決断する理由にはならない」

アンネリーゼは微笑んだ。

ほんの少しだけ。

「ええ」

「ですから本日は、判断材料をお持ちしました」

その言葉に、アロイスの視線がわずかに鋭くなる。

アンネリーゼはまったく動じなかった。

挿絵(By みてみん)

「本件の利点は三つございます」

淡々と指を折る。

「第一に、アダルベルト家との結びつき」

「第二に、皇宮内の均衡維持」

「第三に、第二皇子殿下との関係に生じる誤解を、公的な婚約という形で制御できること」

一つ一つが理路整然としている。

反論の余地はほとんどない。

「いずれも、公爵家にとって不利益ではございません」

アロイスは静かに問い返した。

「欠点は」

アンネリーゼは即座に答える。

「誤解です」

「閣下が、第二皇子殿下のお立場へ近づいたと見られることでしょう」

「ですが、それも時間をかければ調整可能です」

言い切る。

迷いはなかった。

その理屈は、どこまでも正しかった。

*

応接室の外。

ミレイユは廊下を歩いていた。

アロイスから頼まれていた書類を届けるためだ。

急ぐほどの用件ではない。

それでも自然と足は応接室へ向かっていた。

扉の前まで来たところで、中から話し声が聞こえる。

聞くつもりはなかった。

だが、静かな室内だからこそ、言葉だけが廊下へ届いてしまう。

「結論を急ぐ必要はございません」

アンネリーゼの落ち着いた声だった。

「ですが、時間は有限です」

穏やかで、柔らかい。

それなのに、不思議と逃げ道がない。

理屈として正しいからだ。

ミレイユは小さく息を呑む。

(……そうですね)

否定できなかった。

時間は限られている。

アロイスは公爵であり、帝国を支える柱の一人だ。

いつまでも返答を先送りにはできない。

そのことは、ミレイユにもよく分かっていた。

だからこそ、胸の奥が静かに痛む。

自分が苦しいからといって、現実が変わるわけではない。

扉の向こうでは、しばらく沈黙が続いていた。

アロイスは考えているのだろう。

理性と責任、そのどちらも捨てられない人だから。

やがて、椅子を引く音がした。

「……本日は以上です」

アンネリーゼの声が静かに響く。

ミレイユは慌てて姿勢を正した。

扉が開く。

目の前へ、アンネリーゼが現れた。

二人の距離は、ほんの数歩。

互いの表情がはっきり見える近さだった。

アンネリーゼは一瞬だけ歩みを止める。

驚いたからではない。

確認するためだった。

ミレイユもまた、その場を動けなかった。

以前、公爵邸で顔を合わせた時とは違う。

夜会で遠くから見た時とも違う。

今、目の前に立つミレイユは、あの時よりずっと多くを物語っていた。

少し痩せたようにも見える。

瞳の奥には、眠れぬ夜を越えた者だけが持つ静かな揺らぎがあった。

アンネリーゼは、その変化を静かに受け止める。

(……そういうことでしたか)

胸の内でだけ、小さく呟く。

ようやく盤面が繋がった。

シュタルク公爵が答えを急がない理由。

合理だけでは動かなくなった理由。

その答えは、ずっと目の前にあったのだ。

それを理解したからといって、アンネリーゼの表情は変わらない。

悔しさもない。

嫉妬もない。

あるのは、一つの局面を読み切った者の静かな納得だけだった。

「……なるほど」

小さく漏れた声は、誰へ向けたものでもない。

ミレイユは意味を測れず、わずかに目を伏せる。

アンネリーゼは穏やかに微笑んだ。

「興味深い方ですね」

その一言だけを残す。

評価でもない、皮肉でもない。

ただ、事実として。

ミレイユは返す言葉を持たなかった。

アンネリーゼはそれ以上何も言わず、一礼すると静かに歩き去っていく。

背筋は最後まで乱れない。

歩幅も一定。

その姿は、去っていくというより、一枚の絵画がゆっくり遠ざかっていくようだった。

*

屋敷の正面には馬車が待っていた。

従者が扉を開く。

アンネリーゼは迷いなく歩み寄る。

振り返らない。

最後まで、その姿勢は美しかった。

その背中を、少し離れた場所からライナーが眺めていた。

腕を組み、数秒黙って見送る。

やがて、大きく息を吐いた。

「……やっぱり別嬪だな」

思わず漏れた本音だった。

「ありゃ勝てる気がしねぇわ」

感心したように頷く。

次の瞬間。

――バシィッ!

乾いた音が響いた。

「いってぇ!!」

頭を押さえながら振り返ると、そこには木製のおたまを手にしたマルガレーテが立っている。

その表情は穏やかだった。

穏やかなまま、目だけが据わっていた。

「誰が、そのような話をしてよいと言いましたか」

静かな声だった。

怒鳴ってはいない。

それなのに、ライナーは思わず背筋を伸ばす。

「いや、でも事実だろ?」

恐る恐る反論する。

「すげぇいい女だったじゃねぇか」

――ゴツン。

二発目だった。

「痛っ!」

「事実であっても、口にする必要はありません」

きっぱりと言い切る。

ライナーは頭をさすりながら、小さく唸った。

「理不尽だ……」

「何か?」

「……何でもありません」

即座に訂正する。

その様子に、少し離れた場所で見ていたエドガーが小さく肩を震わせた。

ルドルフは静かに咳払いを一つする。

誰も笑わない。

笑えなかった。

遠ざかる馬車を見つめながら、マルガレーテは静かに目を細める。

(本当に、お美しい方)

そう思う。

だからこそ分かる。

アンネリーゼ・フォン・アダルベルトは、誰かを押し退けようとしているのではない。

帝国にとって最も正しい道を、迷いなく歩いているだけなのだ。

その正しさは、美しく、そして、とても残酷だった。

馬車がゆっくりと門を抜けていく。

誰も言葉を発しない。

ただ、それぞれが同じ現実を胸に刻んでいた。

正しいことが、いつも人を幸せにするとは限らない。

その事実だけが、公爵邸の静かな朝に、重く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。