第9話:駒
皇宮。
第一皇子の執務室には、夜の静けさが満ちていた。
灯りは最低限しか残されておらず、広い室内は淡い橙色の光に照らされている。
執務机の上には、いくつもの報告書が積み重なっていた。
第二皇子派の動向。
北方諸侯の情勢。
宗教国家との外交。
そして、各地で発見されつつある古代装置。
一見すると無関係に思える情報が、帝国という盤上で複雑に絡み合っている。
第一皇子は静かに書類へ目を走らせた。
そこには、何度も同じ名前が現れる。
ヴァルター。
報告を上げた者として。
情報を仲介した者として。
あるいは、情報源として。
「……便利すぎる」
誰へともなく呟く。
その声は、ほとんど独り言だった。
「褒め言葉として受け取ってよろしいでしょうか」
執務室の扉前から穏やかな声が返る。
第一皇子は目を上げすらしない。
気配だけで誰なのか理解していた。
「入室許可を待つ気はないのか」
呆れ半分の問いだった。
「待っておりますよ」
ヴァルターは穏やかに答える。
「心の中では」
第一皇子は小さく息を吐いた。
ようやく書類から目を離し、前方へ視線を向ける。
そこには、いつものように微笑むヴァルターが立っていた。
肩の力が抜けた立ち姿。
柔らかな物腰。
誰に対しても礼を欠かない笑み。
だが、その奥だけは決して読めない。
「第二皇子側の動きは」
第一皇子が切り出す。
ヴァルターは軽く肩をすくめた。
「活発ですね」
あまりにも曖昧な返事だった。
「質問の範囲が広すぎます」
第一皇子は苦笑する。
「ならば絞ろう」
静かに書類を閉じる。
「お前は、どこまで知っている」
室内の空気が変わった。
静かに。
けれど確実に。
ヴァルターは笑みを崩さない。
「難しい質問ですね」
少しだけ考えるように目を伏せる。
「情報というものは、『知っている』『知らない』で区切れるほど単純ではありません」
「どこまで知っているかではなく、どこまで繋がっているか」
「私は、その繋がりを眺めているだけです」
第一皇子は目を細めた。
「相変わらず煙に巻く」
「煙は立てておりません」
ヴァルターは首を横へ振る。
「見えているものを、そのまま申し上げているだけです」
「ただ……」
一度言葉を切る。
「盤上の全てを見渡せる者など、おりません」
「私も例外ではありません」
その答えは、はぐらかしているようでいて、本音でもあった。
ヴァルターは未来を知っているわけではない。
誰より多くの情報を持っている。
だから、少しだけ遠くまで見える。
それだけだった。
「……やはり面倒な男だ」
第一皇子は素直な感想を口にする。
ヴァルターは小さく笑った。
「信用されておりませんね」
「当然だ」
間を置かず返ってくる。
その即答に、ヴァルターは肩を震わせた。
「ええ」
「私も、その方が安心できます」
その返答に、第一皇子はわずかに眉を動かす。
「どういう意味だ」
「盲信ほど危ういものはありません」
ヴァルターは穏やかな口調のまま続ける。
「信じることと、疑わないことは別です」
「殿下は、その違いを理解しておられる」
「だからこそ、お仕えしやすい」
第一皇子はしばらく黙っていた。
やがて静かに立ち上がる。
机を回り込み、ヴァルターの前まで歩み寄った。
二人の距離は、手を伸ばせば届くほど近い。
「お前は帝国のために動いている」
低く、静かな声だった。
「だが、誰か一人のためには動いていない」
その言葉に、ヴァルターは初めて少しだけ目を細めた。
否定はしない。
「ええ」
穏やかに頷く。
「私は、帝国という盤そのものには興味があります」
「ですが」
「盤上の駒へ肩入れする趣味はありません」
第一皇子はじっとヴァルターを見つめる。
「第一皇子殿下も」
「第二皇子殿下も」
「私から見れば、等しく盤上の一枚です」
不敬とも取れる言葉だった。
だが、不思議と不快ではない。
この男は、本当にそう思っている。
「では、お前自身は何だ」
第一皇子が問う。
ヴァルターは少しだけ考えた。
そして、小さく笑う。
「観客……でしょうか」
首を横へ振る。
「いいえ」
「観客では近すぎます」
「盤面を覗き込む棋士、とでも申しましょうか」
「勝敗そのものよりも」
「どう指せば、その一手が生まれたのか」
「どうして、その局面になったのか」
「それを考える方が、ずっと面白い」
穏やかに語るその姿は、まるで趣味の話でもしているかのようだった。
第一皇子は呆れたように息を吐く。
「……遊び人め」
吐き捨てるように言う。
ヴァルターは一礼した。
「光栄です」
その声音に、皮肉は一切含まれていなかった。
*
第一皇子は机へ戻り、静かに地図を広げた。
帝国全土を描いた一枚の地図には、古代装置の推定位置や各地の情勢が細かく書き込まれている。
宗教国家。
北方諸侯。
第二皇子派。
そして、シュタルク公爵家。
一本の線では結べない情報が、複雑に絡み合っていた。
その盤面を、ヴァルターは黙って眺める。
「……いざとなれば、お前も切る」
第一皇子が不意に口を開いた。
脅しではない。
確認でもない。
それは統治者として当然の覚悟だった。
ヴァルターは静かに一礼する。
「存じております」
その返答に迷いはない。
恐れもなかった。
第一皇子は小さく息を吐く。
「そういうところだ」
「お前は、自分が切られることまで盤面の一つとして受け入れている」
ヴァルターは少しだけ微笑む。
「駒は、いつか盤上から消えます」
「私も例外ではありません」
「ただ」
穏やかに続ける。
「その一手が、どのような局面を生むのかには興味があります」
第一皇子は苦笑した。
「本当に面倒な男だ」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「承知しております」
そんなやり取りを交わしながらも、二人の間には奇妙な信頼があった。
決して盲信ではない。
互いに相手を完全には信用していない。
それでも、その能力だけは認めている。
だから、この関係は成立していた。
第一皇子は地図から目を離さず問いかける。
「シュタルクはどう見る」
話題が変わる。
ヴァルターの表情から笑みが少しだけ薄れた。
「難しい局面ですね」
静かな声だった。
「彼は、これまで合理で生きてきた人です」
「利益と損失を量り、最善を選び続けてきた」
「だからこそ、公爵でいられたのでしょう」
第一皇子も頷く。
異論はなかった。
「ですが」
ヴァルターは続ける。
「合理だけでは割り切れないものが、一つ生まれてしまいました」
第一皇子が目を細める。
「……ミレイユ嬢か」
ヴァルターは首を横にも縦にも振らない。
ただ、小さく笑った。
「人の心とは、不思議なものです」
「一度そこへ重心が移ると、それまで揺るがなかった均衡まで動き始める」
「それは、とても興味深い変化です」
第一皇子はしばらく黙っていた。
「その先は読めるか」
短い問い。
ヴァルターは少し考える。
そして、静かに首を振った。
「いいえ」
「読めません」
その答えは、意外なほどあっさりしていた。
「読めないからこそ、面白いのです」
その一言に、第一皇子は思わず笑みを漏らす。
「やはり、お前は変わっている」
「よく言われます」
*
同じ頃。
第二皇子の私室は、第一皇子の執務室とはまるで違う空気に包まれていた。
暖かな灯り。
ほのかに香る茶葉。
柔らかな調度品。
客人を迎えるための部屋らしい穏やかさがある。
第二皇子はソファへ腰掛け、ゆっくりと紅茶を味わっていた。
その前には、ヴァルターが静かに立っている。
「第一皇子殿下は、変わりなかったか」
穏やかな問いだった。
「ええ」
ヴァルターは微笑む。
「とてもお元気でした」
嘘ではない。
だからこそ、本心も分からない。
第二皇子は小さく笑った。
「君は本当に器用だ」
悪意はない。
純粋な感想だった。
ヴァルターは軽く頭を下げる。
「生き残るための技術です」
「それだけかな」
第二皇子はカップを置く。
「君は、この状況を楽しんでいる」
核心だった。
ヴァルターは少しだけ考え、やがて穏やかに頷いた。
「否定はいたしません」
「人が何を選ぶのか」
「その選択が、どんな未来を生むのか」
「私は、それを見るのが好きなのです」
第二皇子は目を細める。
「君は、誰にも忠誠を誓わない」
「だが、帝国そのものは嫌いではない」
ヴァルターは答えない。
沈黙だけが残る。
それが何より雄弁だった。
第二皇子は微笑む。
「だから私は、君を嫌いじゃない」
その言葉にも、ヴァルターは微笑み返すだけだった。
信じもしない。
疑いもしない。
ただ、一つの言葉として受け取る。
その距離感は、第一皇子と接するときと何も変わらなかった。
その時、扉が静かに叩かれる。
「失礼いたします」
澄んだ女性の声だった。
入室してきたのは、アンネリーゼだった。
一礼する姿は、夜会で見せたときと変わらず美しい。
第二皇子が穏やかに尋ねる。
「どうだった」
「滞りなく」
短い返答。
「シュタルク公爵は、慎重に状況を見極めておられます」
「そうだろうね」
第二皇子は自然に頷いた。
「彼は、簡単に結論を出す人ではない」
ヴァルターは二人のやり取りを黙って聞いていた。
政治の話だった。
誰も感情論では語らない。
それでも、この部屋には確かに人の思惑が流れている。
アンネリーゼはそれを理解したうえで、静かに立っていた。
空気を乱さず。
それでいて、場の重心を自然と握っている。
ヴァルターは思わず小さく笑う。
アンネリーゼが視線を向けた。
「何か?」
「いえ」
ヴァルターは肩をすくめる。
「帝国も、まだ捨てたものではないと思いまして」
第二皇子が楽しそうに笑う。
アンネリーゼも穏やかに微笑む。
誰も違和感を覚えない、美しい笑みだった。
けれどヴァルターだけは知っている。
彼女もまた、盤面を読む側の人間だということを。
その夜。
皇宮の長い回廊を、ヴァルターは一人歩いていた。
窓の外には帝都の灯が揺れている。
静かな夜だった。
「……面白くなってきましたね」
誰へともなく呟く。
第一皇子。
第二皇子。
アロイス。
ミレイユ。
アンネリーゼ。
誰もが、自分の意思で盤上を歩いている。
駒でありながら、駒ではない。
思いどおりになど、決してならない。
だからこそ、盤面は美しい。
「……面白い。」
誰へともなく呟く。
夜風だけが、その声を静かにさらっていった。




