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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第9話:駒

皇宮。

第一皇子の執務室には、夜の静けさが満ちていた。

灯りは最低限しか残されておらず、広い室内は淡い橙色の光に照らされている。

執務机の上には、いくつもの報告書が積み重なっていた。

第二皇子派の動向。

北方諸侯の情勢。

宗教国家との外交。

そして、各地で発見されつつある古代装置。

一見すると無関係に思える情報が、帝国という盤上で複雑に絡み合っている。

第一皇子は静かに書類へ目を走らせた。

そこには、何度も同じ名前が現れる。

ヴァルター。

報告を上げた者として。

情報を仲介した者として。

あるいは、情報源として。

「……便利すぎる」

誰へともなく呟く。

その声は、ほとんど独り言だった。

「褒め言葉として受け取ってよろしいでしょうか」

執務室の扉前から穏やかな声が返る。

第一皇子は目を上げすらしない。

気配だけで誰なのか理解していた。

「入室許可を待つ気はないのか」

呆れ半分の問いだった。

「待っておりますよ」

ヴァルターは穏やかに答える。

「心の中では」

第一皇子は小さく息を吐いた。

ようやく書類から目を離し、前方へ視線を向ける。

そこには、いつものように微笑むヴァルターが立っていた。

肩の力が抜けた立ち姿。

柔らかな物腰。

誰に対しても礼を欠かない笑み。

だが、その奥だけは決して読めない。

「第二皇子側の動きは」

第一皇子が切り出す。

ヴァルターは軽く肩をすくめた。

「活発ですね」

あまりにも曖昧な返事だった。

「質問の範囲が広すぎます」

第一皇子は苦笑する。

「ならば絞ろう」

静かに書類を閉じる。

「お前は、どこまで知っている」

室内の空気が変わった。

静かに。

けれど確実に。

ヴァルターは笑みを崩さない。

「難しい質問ですね」

少しだけ考えるように目を伏せる。

「情報というものは、『知っている』『知らない』で区切れるほど単純ではありません」

「どこまで知っているかではなく、どこまで繋がっているか」

「私は、その繋がりを眺めているだけです」

第一皇子は目を細めた。

「相変わらず煙に巻く」

「煙は立てておりません」

ヴァルターは首を横へ振る。

「見えているものを、そのまま申し上げているだけです」

「ただ……」

一度言葉を切る。

「盤上の全てを見渡せる者など、おりません」

「私も例外ではありません」

その答えは、はぐらかしているようでいて、本音でもあった。

ヴァルターは未来を知っているわけではない。

誰より多くの情報を持っている。

だから、少しだけ遠くまで見える。

それだけだった。

「……やはり面倒な男だ」

第一皇子は素直な感想を口にする。

ヴァルターは小さく笑った。

「信用されておりませんね」

「当然だ」

間を置かず返ってくる。

その即答に、ヴァルターは肩を震わせた。

「ええ」

「私も、その方が安心できます」

その返答に、第一皇子はわずかに眉を動かす。

「どういう意味だ」

「盲信ほど危ういものはありません」

ヴァルターは穏やかな口調のまま続ける。

「信じることと、疑わないことは別です」

「殿下は、その違いを理解しておられる」

「だからこそ、お仕えしやすい」

第一皇子はしばらく黙っていた。

やがて静かに立ち上がる。

机を回り込み、ヴァルターの前まで歩み寄った。

二人の距離は、手を伸ばせば届くほど近い。

「お前は帝国のために動いている」

低く、静かな声だった。

「だが、誰か一人のためには動いていない」

その言葉に、ヴァルターは初めて少しだけ目を細めた。

否定はしない。

「ええ」

穏やかに頷く。

「私は、帝国という盤そのものには興味があります」

「ですが」

「盤上の駒へ肩入れする趣味はありません」

第一皇子はじっとヴァルターを見つめる。

「第一皇子殿下も」

「第二皇子殿下も」

「私から見れば、等しく盤上の一枚です」

挿絵(By みてみん)

不敬とも取れる言葉だった。

だが、不思議と不快ではない。

この男は、本当にそう思っている。

「では、お前自身は何だ」

第一皇子が問う。

ヴァルターは少しだけ考えた。

そして、小さく笑う。

「観客……でしょうか」

首を横へ振る。

「いいえ」

「観客では近すぎます」

「盤面を覗き込む棋士、とでも申しましょうか」

「勝敗そのものよりも」

「どう指せば、その一手が生まれたのか」

「どうして、その局面になったのか」

「それを考える方が、ずっと面白い」

穏やかに語るその姿は、まるで趣味の話でもしているかのようだった。

第一皇子は呆れたように息を吐く。

「……遊び人め」

吐き捨てるように言う。

ヴァルターは一礼した。

「光栄です」

その声音に、皮肉は一切含まれていなかった。

*

第一皇子は机へ戻り、静かに地図を広げた。

帝国全土を描いた一枚の地図には、古代装置の推定位置や各地の情勢が細かく書き込まれている。

宗教国家。

北方諸侯。

第二皇子派。

そして、シュタルク公爵家。

一本の線では結べない情報が、複雑に絡み合っていた。

その盤面を、ヴァルターは黙って眺める。

「……いざとなれば、お前も切る」

第一皇子が不意に口を開いた。

脅しではない。

確認でもない。

それは統治者として当然の覚悟だった。

ヴァルターは静かに一礼する。

「存じております」

その返答に迷いはない。

恐れもなかった。

第一皇子は小さく息を吐く。

「そういうところだ」

「お前は、自分が切られることまで盤面の一つとして受け入れている」

ヴァルターは少しだけ微笑む。

「駒は、いつか盤上から消えます」

「私も例外ではありません」

「ただ」

穏やかに続ける。

「その一手が、どのような局面を生むのかには興味があります」

第一皇子は苦笑した。

「本当に面倒な男だ」

「ありがとうございます」

「褒めてはいない」

「承知しております」

そんなやり取りを交わしながらも、二人の間には奇妙な信頼があった。

決して盲信ではない。

互いに相手を完全には信用していない。

それでも、その能力だけは認めている。

だから、この関係は成立していた。

第一皇子は地図から目を離さず問いかける。

「シュタルクはどう見る」

話題が変わる。

ヴァルターの表情から笑みが少しだけ薄れた。

「難しい局面ですね」

静かな声だった。

「彼は、これまで合理で生きてきた人です」

「利益と損失を量り、最善を選び続けてきた」

「だからこそ、公爵でいられたのでしょう」

第一皇子も頷く。

異論はなかった。

「ですが」

ヴァルターは続ける。

「合理だけでは割り切れないものが、一つ生まれてしまいました」

第一皇子が目を細める。

「……ミレイユ嬢か」

ヴァルターは首を横にも縦にも振らない。

ただ、小さく笑った。

「人の心とは、不思議なものです」

「一度そこへ重心が移ると、それまで揺るがなかった均衡まで動き始める」

「それは、とても興味深い変化です」

第一皇子はしばらく黙っていた。

「その先は読めるか」

短い問い。

ヴァルターは少し考える。

そして、静かに首を振った。

「いいえ」

「読めません」

その答えは、意外なほどあっさりしていた。

「読めないからこそ、面白いのです」

その一言に、第一皇子は思わず笑みを漏らす。

「やはり、お前は変わっている」

「よく言われます」

*

同じ頃。

第二皇子の私室は、第一皇子の執務室とはまるで違う空気に包まれていた。

暖かな灯り。

ほのかに香る茶葉。

柔らかな調度品。

客人を迎えるための部屋らしい穏やかさがある。

第二皇子はソファへ腰掛け、ゆっくりと紅茶を味わっていた。

その前には、ヴァルターが静かに立っている。

「第一皇子殿下は、変わりなかったか」

穏やかな問いだった。

「ええ」

ヴァルターは微笑む。

「とてもお元気でした」

嘘ではない。

だからこそ、本心も分からない。

第二皇子は小さく笑った。

「君は本当に器用だ」

悪意はない。

純粋な感想だった。

ヴァルターは軽く頭を下げる。

「生き残るための技術です」

「それだけかな」

第二皇子はカップを置く。

「君は、この状況を楽しんでいる」

核心だった。

ヴァルターは少しだけ考え、やがて穏やかに頷いた。

「否定はいたしません」

「人が何を選ぶのか」

「その選択が、どんな未来を生むのか」

「私は、それを見るのが好きなのです」

第二皇子は目を細める。

「君は、誰にも忠誠を誓わない」

「だが、帝国そのものは嫌いではない」

ヴァルターは答えない。

沈黙だけが残る。

それが何より雄弁だった。

第二皇子は微笑む。

「だから私は、君を嫌いじゃない」

その言葉にも、ヴァルターは微笑み返すだけだった。

信じもしない。

疑いもしない。

ただ、一つの言葉として受け取る。

その距離感は、第一皇子と接するときと何も変わらなかった。

その時、扉が静かに叩かれる。

「失礼いたします」

澄んだ女性の声だった。

入室してきたのは、アンネリーゼだった。

一礼する姿は、夜会で見せたときと変わらず美しい。

第二皇子が穏やかに尋ねる。

「どうだった」

「滞りなく」

短い返答。

「シュタルク公爵は、慎重に状況を見極めておられます」

「そうだろうね」

第二皇子は自然に頷いた。

「彼は、簡単に結論を出す人ではない」

ヴァルターは二人のやり取りを黙って聞いていた。

政治の話だった。

誰も感情論では語らない。

それでも、この部屋には確かに人の思惑が流れている。

アンネリーゼはそれを理解したうえで、静かに立っていた。

空気を乱さず。

それでいて、場の重心を自然と握っている。

ヴァルターは思わず小さく笑う。

アンネリーゼが視線を向けた。

「何か?」

「いえ」

ヴァルターは肩をすくめる。

「帝国も、まだ捨てたものではないと思いまして」

第二皇子が楽しそうに笑う。

アンネリーゼも穏やかに微笑む。

誰も違和感を覚えない、美しい笑みだった。

けれどヴァルターだけは知っている。

彼女もまた、盤面を読む側の人間だということを。

その夜。

皇宮の長い回廊を、ヴァルターは一人歩いていた。

窓の外には帝都の灯が揺れている。

静かな夜だった。

「……面白くなってきましたね」

誰へともなく呟く。

第一皇子。

第二皇子。

アロイス。

ミレイユ。

アンネリーゼ。

誰もが、自分の意思で盤上を歩いている。

駒でありながら、駒ではない。

思いどおりになど、決してならない。

だからこそ、盤面は美しい。

「……面白い。」

誰へともなく呟く。

夜風だけが、その声を静かにさらっていった。

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