第8話:合理ではないもの
皇宮。
第一皇子の執務室には、朝の光が静かに差し込んでいた。
大きく取られた窓から見える庭園は美しく整えられているが、室内へ流れ込む空気はどこか冷たい。
執務机の上には、一通の報告書が置かれていた。
昨夜の夜会について記されたものだ。
内容は簡潔だった。
シュタルク公爵アロイスと、アダルベルト侯爵令嬢アンネリーゼが舞踏を披露したこと。
その姿は「まるで以前から婚約していたかのようだ」と賞賛され、会場では二人の縁談が瞬く間に噂として広がったこと。
余計な感想は一切ない。
事実だけが淡々と並べられている。
それで十分だった。
「……先手を打たれたか」
報告書から目を離さぬまま、第一皇子が静かに呟く。
低く抑えた声だった。
その傍らには、特務捜査官ヴァルターが控えている。
彼もまた書面へ目を落とし、静かに口を開いた。
「見事な一手です」
感情を交えない声音だった。
「こちらに否定する余地を与えませんでした」
第一皇子は机を指先で軽く叩く。
規則正しい音だけが室内へ響いた。
「シュタルクを取り込むためか……あるいは、動きを縛るためか」
どちらでも成立する。
だからこそ厄介だった。
ヴァルターは静かに頷く。
「狙いは、その両方でしょう」
「重要なのは、実際に婚約したかどうかではありません」
「夜会という公の場で、誰もがそう見たことです」
事実よりも認識。
貴族社会では、それが時として現実になる。
「周囲が『お似合いだ』と受け止めれば、それだけで盤面は動きます」
第一皇子は答えない。
報告書へ視線を落としたまま、一文だけを静かに見つめていた。
――完璧な組み合わせ。
その短い一文が、この夜会の全てを物語っている。
しばらく沈黙が流れた。
やがて第一皇子は書面を閉じる。
「……呼べ」
短い一言だった。
ヴァルターは一礼する。
「かしこまりました」
*
しばらくして、執務室の扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
低く落ち着いた声とともに、アロイスが姿を現す。
一礼し、部屋へ入る。
歩みはいつもと変わらない。
背筋も伸びている。
表情にも乱れはない。
それでも、室内の空気は僅かに重くなった。
「来たか」
第一皇子が穏やかに声を掛ける。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
簡潔な返答だった。
第一皇子は椅子へ腰掛けたまま、真正面からアロイスを見る。
その視線は穏やかでありながら鋭い。
相手の心の動きさえ見逃さない、そんな眼差しだった。
「夜会の件は聞いている」
前置きはない。
アロイスも動じない。
「そうですか」
短く返す。
その一言だけで会話は止まる。
第一皇子はゆっくりと組んだ手をほどいた。
「どうするつもりだ」
問いは率直だった。
逃げ道はない。
アロイスは少しだけ考えるように目を伏せる。
「……返答は保留としております」
事実だけを答えた。
第一皇子は僅かに口元を緩める。
「時間を稼いでいるか」
否定ではない。
確認でもない。
ほとんど確信だった。
アロイスは沈黙する。
それが答えになっていた。
「第二皇子も、その程度は織り込み済みだろう」
第一皇子は淡々と続ける。
「お前が即断しないことも、すべて計算のうちだ」
アロイスの視線が僅かに揺れる。
ほんの一瞬だけ。
それだけだった。
「問題はそこではない」
第一皇子は静かに言った。
「お前自身が、どう考えている」
部屋の空気が少しだけ張り詰める。
「その縁談を」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
アロイスは答えない。
答えられない。
頭の中では、幾つもの可能性が整理されている。
公爵家にとっての利益。
帝国貴族社会への影響。
第一皇子派と第二皇子派、その均衡。
どれも理解している。
理解しているからこそ、簡単には答えが出ない。
「……利はあります」
ようやく口を開いた。
「アダルベルト侯爵家との結びつきは、公爵家にとっても帝国にとっても利益が大きい」
「国内の均衡にも寄与するでしょう」
理性的な答えだった。
第一皇子は迷いなく頷く。
「その通りだ」
そこまでは、何の問題もない。
だが。
「お前は、それだけで決断する男ではない」
静かな一言だった。
しかし、その言葉はまっすぐアロイスの胸へ届く。
アロイスは何も答えない。
答えられない。
第一皇子はその沈黙を見つめながら、ゆっくりと言葉を重ねた。
「何が引っかかっている」
低く、静かな問いだった。
その一言に、アロイスは初めて言葉を失う。
自分でも分からない。
何が引っかかっているのか。
なぜ決断できないのか。
理由だけが、見つからなかった。
「……面倒なことになったな」
長い沈黙のあと、第一皇子は静かに呟いた。
責めるような口調ではない。
状況をそのまま評しただけの一言だった。
「少なくとも、お前はもう単純な政略だけでは動けない」
アロイスは視線を上げる。
否定しようとして、言葉が出なかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
第一皇子はゆっくりと立ち上がる。
机を回り込み、アロイスの前まで歩み寄った。
「判断を誤るな」
低い声が静かに響く。
「これは、お前一人の問題ではない」
その言葉には、公爵としての責任も、帝国の均衡も含まれていた。
「シュタルク公爵家は、もはや帝国の柱の一つだ」
「お前の決断一つで、多くの者が動く」
「それを忘れるな」
重い言葉だった。
アロイスも、それは十分に理解している。
だからこそ苦しかった。
「……承知しております」
ようやく返した声は、いつもよりわずかに低かった。
第一皇子は小さく頷く。
「以上だ」
それ以上は何も言わない。
答えを急がせることもしない。
アロイスは静かに一礼すると、踵を返した。
扉へ向かい、そのまま部屋を出ていく。
静かに扉が閉まる。
部屋へ残ったのは、第一皇子とヴァルターだけだった。
しばらく誰も口を開かない。
やがてヴァルターが静かに言う。
「揺れておりますね」
第一皇子は窓の外を見つめたまま、小さく頷いた。
「……ああ」
「だからこそ厄介だ」
ヴァルターはわずかに首を傾ける。
「いずれにせよ、合理的な選択は一つです」
「縁談を受けるべきでしょう」
迷いのない口調だった。
「アダルベルト侯爵家との婚姻は、公爵家の基盤をより強固にします」
「第一皇子殿下にとっても、決して悪い話ではありません」
「第二皇子派へ利用される懸念はありますが、それは後から十分に調整できます」
淡々とした分析だった。
数字を並べるように正確で、無駄がない。
第一皇子は黙って聞いていた。
反論はしない。
だが、賛同もしない。
しばらくしてから、ぽつりと呟く。
「……本人が、それを選ぶかは別だ」
ヴァルターは即座に頷いた。
「ええ」
「選ばないでしょう」
断言だった。
第一皇子はわずかに眉を上げる。
「理由は」
短く問う。
ヴァルターは静かに答えた。
「合理的ではないからです」
一拍置く。
「少なくとも、今の彼にとっては」
第一皇子は小さく息を吐いた。
「存外、厄介だな」
ヴァルターは目を瞬かせた。
「殿下が、そのようなことを仰るとは思いませんでした」
第一皇子は肩をすくめる。
「私も思っていなかった」
苦笑が漏れる。
「昔なら、お前と同じ答えを出していただろう」
合理性だけを見て。
利益だけを見て。
迷う理由などないと切り捨てていたはずだ。
だが。
「合理だけでは、人は動かん」
静かな声だった。
「国もまた、同じだ」
ヴァルターは何も言わなかった。
ただ、その言葉を静かに受け止める。
第一皇子は再び窓の外へ視線を向けた。
庭園では、近衛騎士たちが訓練を行っている。
規律正しく。
乱れなく。
それは美しい光景だった。
けれど、人の心だけは違う。
どれほど鍛えようと。
どれほど理性で律しようと。
時に、たった一人の存在が、その均衡を崩してしまう。
「……面倒な男だ」
小さく呟く。
その声音には、呆れと、ほんの少しの安堵が混じっていた。
*
一方、その頃。
皇宮の長い回廊を、アロイスは一人歩いていた。
足取りはいつもと変わらない。
姿勢も崩れていない。
誰が見ても、普段通りのシュタルク公爵だった。
だが、その胸の内だけは静かに揺れている。
(……どうするつもりだ)
第一皇子の問いが、何度も頭の中で繰り返される。
(どう考えている)
答えは出ない。
利益は理解している。
縁談が帝国にも公爵家にも有益であることは疑いようがない。
だからこそ、本来なら迷う理由などなかった。
それなのに。
(……違う)
その一言だけが、心の奥へ引っ掛かったまま離れない。
足が止まる。
無意識だった。
回廊の窓から差し込む光が、床へ長い影を落としている。
その影を見つめながら、アロイスはゆっくりと目を閉じた。
脳裏へ浮かぶ。
涙で濡れた瞳。
震える声。
「どうして、こんなに苦しいんですか……!」
胸の奥が、小さく痛んだ。
思考ではない。
理屈でもない。
ただ、その言葉だけが、今も消えずに残っている。
アロイスは静かに息を吐いた。
自分は、何を迷っているのか。
何を選ぼうとしているのか。
まだ答えは見えない。
それでも一つだけ、昨日までとは違うことがあった。
合理だけでは、もう決められない。
その事実だけは、誰よりも自分自身がよく分かっていた。




