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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第8話:合理ではないもの

皇宮。

第一皇子の執務室には、朝の光が静かに差し込んでいた。

大きく取られた窓から見える庭園は美しく整えられているが、室内へ流れ込む空気はどこか冷たい。

執務机の上には、一通の報告書が置かれていた。

昨夜の夜会について記されたものだ。

内容は簡潔だった。

シュタルク公爵アロイスと、アダルベルト侯爵令嬢アンネリーゼが舞踏を披露したこと。

その姿は「まるで以前から婚約していたかのようだ」と賞賛され、会場では二人の縁談が瞬く間に噂として広がったこと。

余計な感想は一切ない。

事実だけが淡々と並べられている。

それで十分だった。

「……先手を打たれたか」

報告書から目を離さぬまま、第一皇子が静かに呟く。

低く抑えた声だった。

その傍らには、特務捜査官ヴァルターが控えている。

彼もまた書面へ目を落とし、静かに口を開いた。

「見事な一手です」

感情を交えない声音だった。

「こちらに否定する余地を与えませんでした」

第一皇子は机を指先で軽く叩く。

規則正しい音だけが室内へ響いた。

「シュタルクを取り込むためか……あるいは、動きを縛るためか」

どちらでも成立する。

だからこそ厄介だった。

ヴァルターは静かに頷く。

「狙いは、その両方でしょう」

「重要なのは、実際に婚約したかどうかではありません」

「夜会という公の場で、誰もがそう見たことです」

事実よりも認識。

貴族社会では、それが時として現実になる。

「周囲が『お似合いだ』と受け止めれば、それだけで盤面は動きます」

第一皇子は答えない。

報告書へ視線を落としたまま、一文だけを静かに見つめていた。

――完璧な組み合わせ。

その短い一文が、この夜会の全てを物語っている。

しばらく沈黙が流れた。

やがて第一皇子は書面を閉じる。

「……呼べ」

短い一言だった。

ヴァルターは一礼する。

「かしこまりました」

*

しばらくして、執務室の扉が静かに叩かれた。

「失礼いたします」

低く落ち着いた声とともに、アロイスが姿を現す。

一礼し、部屋へ入る。

歩みはいつもと変わらない。

背筋も伸びている。

表情にも乱れはない。

それでも、室内の空気は僅かに重くなった。

「来たか」

第一皇子が穏やかに声を掛ける。

「お呼びと伺い、参上いたしました」

簡潔な返答だった。

第一皇子は椅子へ腰掛けたまま、真正面からアロイスを見る。

その視線は穏やかでありながら鋭い。

相手の心の動きさえ見逃さない、そんな眼差しだった。

挿絵(By みてみん)

「夜会の件は聞いている」

前置きはない。

アロイスも動じない。

「そうですか」

短く返す。

その一言だけで会話は止まる。

第一皇子はゆっくりと組んだ手をほどいた。

「どうするつもりだ」

問いは率直だった。

逃げ道はない。

アロイスは少しだけ考えるように目を伏せる。

「……返答は保留としております」

事実だけを答えた。

第一皇子は僅かに口元を緩める。

「時間を稼いでいるか」

否定ではない。

確認でもない。

ほとんど確信だった。

アロイスは沈黙する。

それが答えになっていた。

「第二皇子も、その程度は織り込み済みだろう」

第一皇子は淡々と続ける。

「お前が即断しないことも、すべて計算のうちだ」

アロイスの視線が僅かに揺れる。

ほんの一瞬だけ。

それだけだった。

「問題はそこではない」

第一皇子は静かに言った。

「お前自身が、どう考えている」

部屋の空気が少しだけ張り詰める。

「その縁談を」

沈黙が落ちた。

長い沈黙だった。

アロイスは答えない。

答えられない。

頭の中では、幾つもの可能性が整理されている。

公爵家にとっての利益。

帝国貴族社会への影響。

第一皇子派と第二皇子派、その均衡。

どれも理解している。

理解しているからこそ、簡単には答えが出ない。

「……利はあります」

ようやく口を開いた。

「アダルベルト侯爵家との結びつきは、公爵家にとっても帝国にとっても利益が大きい」

「国内の均衡にも寄与するでしょう」

理性的な答えだった。

第一皇子は迷いなく頷く。

「その通りだ」

そこまでは、何の問題もない。

だが。

「お前は、それだけで決断する男ではない」

静かな一言だった。

しかし、その言葉はまっすぐアロイスの胸へ届く。

アロイスは何も答えない。

答えられない。

第一皇子はその沈黙を見つめながら、ゆっくりと言葉を重ねた。

「何が引っかかっている」

低く、静かな問いだった。

その一言に、アロイスは初めて言葉を失う。

自分でも分からない。

何が引っかかっているのか。

なぜ決断できないのか。

理由だけが、見つからなかった。

「……面倒なことになったな」

長い沈黙のあと、第一皇子は静かに呟いた。

責めるような口調ではない。

状況をそのまま評しただけの一言だった。

「少なくとも、お前はもう単純な政略だけでは動けない」

アロイスは視線を上げる。

否定しようとして、言葉が出なかった。

その沈黙が、何より雄弁だった。

第一皇子はゆっくりと立ち上がる。

机を回り込み、アロイスの前まで歩み寄った。

「判断を誤るな」

低い声が静かに響く。

「これは、お前一人の問題ではない」

その言葉には、公爵としての責任も、帝国の均衡も含まれていた。

「シュタルク公爵家は、もはや帝国の柱の一つだ」

「お前の決断一つで、多くの者が動く」

「それを忘れるな」

重い言葉だった。

アロイスも、それは十分に理解している。

だからこそ苦しかった。

「……承知しております」

ようやく返した声は、いつもよりわずかに低かった。

第一皇子は小さく頷く。

「以上だ」

それ以上は何も言わない。

答えを急がせることもしない。

アロイスは静かに一礼すると、踵を返した。

扉へ向かい、そのまま部屋を出ていく。

静かに扉が閉まる。

部屋へ残ったのは、第一皇子とヴァルターだけだった。

しばらく誰も口を開かない。

やがてヴァルターが静かに言う。

「揺れておりますね」

第一皇子は窓の外を見つめたまま、小さく頷いた。

「……ああ」

「だからこそ厄介だ」

ヴァルターはわずかに首を傾ける。

「いずれにせよ、合理的な選択は一つです」

「縁談を受けるべきでしょう」

迷いのない口調だった。

「アダルベルト侯爵家との婚姻は、公爵家の基盤をより強固にします」

「第一皇子殿下にとっても、決して悪い話ではありません」

「第二皇子派へ利用される懸念はありますが、それは後から十分に調整できます」

淡々とした分析だった。

数字を並べるように正確で、無駄がない。

第一皇子は黙って聞いていた。

反論はしない。

だが、賛同もしない。

しばらくしてから、ぽつりと呟く。

「……本人が、それを選ぶかは別だ」

ヴァルターは即座に頷いた。

「ええ」

「選ばないでしょう」

断言だった。

第一皇子はわずかに眉を上げる。

「理由は」

短く問う。

ヴァルターは静かに答えた。

「合理的ではないからです」

一拍置く。

「少なくとも、今の彼にとっては」

第一皇子は小さく息を吐いた。

「存外、厄介だな」

ヴァルターは目を瞬かせた。

「殿下が、そのようなことを仰るとは思いませんでした」

第一皇子は肩をすくめる。

「私も思っていなかった」

苦笑が漏れる。

「昔なら、お前と同じ答えを出していただろう」

合理性だけを見て。

利益だけを見て。

迷う理由などないと切り捨てていたはずだ。

だが。

「合理だけでは、人は動かん」

静かな声だった。

「国もまた、同じだ」

ヴァルターは何も言わなかった。

ただ、その言葉を静かに受け止める。

第一皇子は再び窓の外へ視線を向けた。

庭園では、近衛騎士たちが訓練を行っている。

規律正しく。

乱れなく。

それは美しい光景だった。

けれど、人の心だけは違う。

どれほど鍛えようと。

どれほど理性で律しようと。

時に、たった一人の存在が、その均衡を崩してしまう。

「……面倒な男だ」

小さく呟く。

その声音には、呆れと、ほんの少しの安堵が混じっていた。

*

一方、その頃。

皇宮の長い回廊を、アロイスは一人歩いていた。

足取りはいつもと変わらない。

姿勢も崩れていない。

誰が見ても、普段通りのシュタルク公爵だった。

だが、その胸の内だけは静かに揺れている。

(……どうするつもりだ)

第一皇子の問いが、何度も頭の中で繰り返される。

(どう考えている)

答えは出ない。

利益は理解している。

縁談が帝国にも公爵家にも有益であることは疑いようがない。

だからこそ、本来なら迷う理由などなかった。

それなのに。

(……違う)

その一言だけが、心の奥へ引っ掛かったまま離れない。

足が止まる。

無意識だった。

回廊の窓から差し込む光が、床へ長い影を落としている。

その影を見つめながら、アロイスはゆっくりと目を閉じた。

脳裏へ浮かぶ。

涙で濡れた瞳。

震える声。

「どうして、こんなに苦しいんですか……!」

胸の奥が、小さく痛んだ。

思考ではない。

理屈でもない。

ただ、その言葉だけが、今も消えずに残っている。

アロイスは静かに息を吐いた。

自分は、何を迷っているのか。

何を選ぼうとしているのか。

まだ答えは見えない。

それでも一つだけ、昨日までとは違うことがあった。

合理だけでは、もう決められない。

その事実だけは、誰よりも自分自身がよく分かっていた。

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