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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第7話:触れてしまった心

翌朝。

シュタルク公爵邸は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。

使用人たちはそれぞれの持ち場で忙しく動き、執務室には今日も書類が積まれ、規則正しく一日が動き始めていた。

何も変わらない。

――そう見えるだけだった。

屋敷を包む空気だけが、昨日までとは明らかに違っている。

原因は、一人しかいない。

ミレイユだった。

姿は見える。

仕事もしている。

報告は正確で、判断にも迷いはない。

与えられた役目を、いつも通り淡々とこなしている。

だからこそ異様だった。

「……以上です」

報告を終え、静かに一礼する。

視線は合わせない。

必要なことだけを伝え、それ以上は何も言わない。

「ああ」

アロイスも短く頷いた。

返事はいつも通りだった。

だが、その先の言葉が続かない。

ミレイユは踵を返し、そのまま部屋を後にする。

扉が静かに閉まった。

アロイスはしばらく、その扉を見つめていた。

(……遠い)

昨日まで感じていた違和感が、はっきりと言葉になる。

距離を置かれている。

それも意図的に。

理由は分からない。

何をきっかけに、ここまで変わってしまったのかも分からない。

それでも一つだけ確かなことがあった。

このままでは、いけない。

その思いだけが、胸の奥で静かに膨らんでいく。

*

朝食の席も、静かなものだった。

普段ならライナーが何かしら賑やかな話題を持ち出す。

エドガーが呆れ、ルドルフがため息をつき、マルガレーテが穏やかに場を収める。

それがいつもの食卓だった。

だが、この日は違う。

誰もが、言葉を選んでいた。

食器の触れ合う音だけが、小さく響く。

エドガーはときおりミレイユへ視線を向けている。

ライナーでさえ、口数が少ない。

そんな中、マルガレーテだけは、いつもと何ひとつ変わらない様子で給仕をしていた。

「ミレイユ様、スープをお持ちしました」

穏やかな声だった。

「……ありがとうございます」

ミレイユは小さく微笑み、器を受け取る。

その笑顔は美しかった。

けれど、あまりにも薄い。

口元だけが笑っている。

そう取り繕っていることが、見守ってきた者たちには痛いほど分かった。

向かい側では、アロイスが黙ってその様子を見ていた。

昨日から積み重なっていく違和感。

ミレイユは確かに笑っている。

仕事もしている。

食事も摂っている。

なのに、どこか空っぽだった。

その姿を見るたび、胸の奥へ説明のつかない焦燥だけが積もっていく。

(……何を見落としている)

自問する。

答えは出ない。

出ないまま、一日だけが静かに過ぎていった。

*

夜。

屋敷は静まり返っていた。

廊下の灯りも落とされ、人の気配はほとんどない。

アロイスは一人、長い廊下を歩いていた。

向かう先は決まっていた。

ミレイユの部屋。

扉の前で立ち止まる。

脳裏へ浮かぶのは、数日前の出来事だった。

ノックもせず扉を開けたこと。

驚いたミレイユと目が合ったこと。

そして、自分が見てしまったもの。

(……)

同じ失敗は繰り返さない。

今度は、ゆっくりと扉を叩いた。

コン、コン。

静かな音が廊下へ響く。

「ミレイユ」

名前を呼ぶ。

返事はない。

少し待つ。

それでも返事は返ってこなかった。

「……入る」

短く告げ、ゆっくりと扉を開く。

部屋の中は薄暗かった。

窓から差し込む月明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと照らしている。

その中で、ミレイユは椅子へ腰掛けたまま俯いていた。

身じろぎ一つしない。

まるで時間だけが止まってしまったようだった。

アロイスは静かに部屋へ入り、扉を閉める。

「……話がある」

その声に、ミレイユはゆっくりと顔を上げた。

「……何でしょうか」

アロイスは一瞬だけ言葉を選ぶ。

「その前に、一つ確認する」

静かな声が部屋に落ちる。

「また無理をしているんじゃないのか」

ミレイユはわずかに目を伏せ、小さく首を横へ振った。

「……私なら、大丈夫です」

弱々しい声だった。

誰が聞いても、それが嘘だと分かるほどに。

アロイスは一歩だけ距離を詰める。

「大丈夫ではない」

静かな声だった。

だが、迷いはなかった。

その一言に、ミレイユの肩がかすかに震える。

それでも彼女は俯いたまま、小さく首を横へ振った。

「……問題ありません」

同じ言葉を繰り返す。

それは説明ではなく、壁だった。

自分を守るための、脆い壁。

アロイスは、その壁の向こうに何があるのかを知らない。

それでも、このまま引き下がってはいけないことだけは、はっきりと分かっていた。

短く息をつき、静かに口を開く。

「……本題だ」

もう一歩だけ距離を詰める。

「最近、俺を避けている」

責めるような響きはない。

ただ、事実を確かめようとしているだけだった。

ミレイユは俯いたまま、小さく息を呑む。

「……そんなことは」

「ある」

間を置かず、アロイスは言った。

「報告は最低限」

「仕事以外では話そうともしない」

「視線も合わせない」

一つずつ。

逃げ道を塞ぐようにではなく、事実を積み重ねるように言葉を重ねる。

「理由は何だ」

静かな問いだった。

部屋には沈黙だけが落ちる。

答えられない。

答えた瞬間、何かが壊れてしまう気がした。

ミレイユは小さく唇を噛み締める。

「……必要な距離です」

ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。

その一言が、アロイスの胸を強く締めつける。

理由は分からない。

だが、その言葉だけは受け入れられなかった。

「違う」

低く言う。

ミレイユの肩が震える。

「離れるな」

短い一言だった。

命令するような声音ではない。

むしろ、自分でも理由の分からない焦りが滲んでいた。

ミレイユは息を止める。

ゆっくりと顔を上げた。

月明かりの中で視線が重なる。

もう隠しきれなかった。

瞳の奥に張り詰めていたものが、小さく揺れる。

「……どうして」

震えた声だった。

「どうして、そんなことを仰るんですか……」

アロイスは答えられない。

答えを、自分でも持っていなかった。

「縁談があるのに」

その一言に、胸の奥が小さく軋む。

「昨日だって……」

ミレイユは目を閉じる。

脳裏へ浮かぶのは、夜会の光景だった。

アンネリーゼ。

アロイス。

重なる呼吸。

美しく揃う足取り。

誰もが見惚れるほど完璧な舞踏。

「……あんな風に」

言葉が詰まる。

息が苦しい。

それでも止まれない。

「綺麗で」

ぽつりと零れる。

「完璧で」

もう一つ。

「誰が見ても、お似合いで……」

そこで声が震えた。

「それが正しいって……分かっているのに」

両手が震える。

必死に握り締めても止まらない。

「分かっているのに……!」

堪えていた感情が、そこで堰を切った。

「どうして……!」

声が裏返る。

「どうして、こんなに苦しいんですか……!」

初めてだった。

こんなふうに感情をぶつけたことは。

泣き乱したことも。

誰かへ弱さを見せたことも。

涙が頬を伝う。

止めようとしても止まらない。

「私は……」

言葉を探す。

必死に探す。

「私は、ただ保護されているだけで……」

それでもなお、逃げようとする。

立場を理由に。

役目を理由に。

自分へ言い聞かせるように。

「だから……」

続かない。

その先だけは。

もう、嘘になる。

「なのに……」

小さく首を振る。

「どうして……」

膝から力が抜けた。

身体がゆっくりと崩れ落ちる。

椅子から滑るように床へ座り込み、顔を覆う。

堪えていた嗚咽が漏れた。

肩が震える。

息が乱れる。

涙は次から次へと溢れ続けた。

もう取り繕うことはできない。

何も隠せない。

長い間、胸の奥へ押し込め続けてきた想いが、ようやく涙となって溢れ出していた。

アロイスは動かなかった。

いや、動けなかった。

目の前で泣き崩れるミレイユを見つめたまま、時間だけが止まる。

胸の奥が痛む。

こんな痛みは知らなかった。

何が正解なのかも分からない。

何を言えばいいのかも分からない。

それでも。

このまま立っていることだけは、違うと思った。

アロイスはゆっくりと膝をつく。

床へ座り込んだミレイユと、同じ目線になるように。

逃げ道を塞ぐためではない。

一人にしないために。

「……ミレイユ」

静かに名前を呼ぶ。

返事はない。

嗚咽だけが、小さく部屋へ響いている。

アロイスは息を吐いた。

初めてだった。

言葉が、こんなにも見つからないのは。

「俺は……」

口を開く。

何度も言葉を選び直す。

「お前を守る立場にある」

ようやく出てきたのは、その言葉だった。

「それは変わらない」

一度区切る。

違う。

それだけではない。

もう、自分でも分かっていた。

夜会で感じた違和感も。

離れようとするミレイユを許せなかった理由も。

全部、一つに繋がっている。

「……だが」

ゆっくりと息を吐く。

「それだけではない」

その一言は、小さかった。

けれど紛れもない本音だった。

ミレイユの肩が震える。

泣き止んではいない。

それでも、少しだけ顔を上げた。

涙で滲んだ瞳が、恐る恐るアロイスを見る。

アロイスは視線を逸らさない。

逃げない。

「だから、離れるな」

今度は命令ではなかった。

縋るような声だった。

失いたくない。

その想いだけが、飾ることなく滲んでいた。

挿絵(By みてみん)

ミレイユは答えられない。

涙だけが、静かに零れ落ちる。

それでも、もう逃げようとはしなかった。

泣きながら、小さく頷く。

それだけで十分だった。

二人の間に流れる沈黙は、もう昨日までのものとは違っていた。

まだ名前はない。

答えも出ていない。

けれど、初めて二人は、同じ痛みを見つめていた。

*

その頃。

公爵邸の一室には、まだ灯りがともっていた。

卓を囲むのは、ルドルフ、エドガー、ライナー、そしてマルガレーテ。

夜も更けているというのに、誰一人として席を立とうとはしなかった。

卓上には一通の報告書が置かれている。

夜会の様子をまとめた、簡潔な報告だった。

内容は決して多くない。

――シュタルク公爵とアダルベルト侯爵令嬢が舞踏。

――見事な組み合わせだった。

――周囲から称賛の声が上がっていた。

それだけだった。

それだけで十分だった。

部屋には重い沈黙が流れる。

最初に口を開いたのは、エドガーだった。

「……ある程度は予想していました」

静かな声だった。

「ですが、想像以上に"完成されていた"ようですね」

その言葉の意味は、この場にいる誰もが理解していた。

ライナーが舌打ちをする。

「……クソが」

拳を握り締める。

「目の前で見せられたんだぞ」

怒りというより、やり切れなさが滲んでいた。

「平気でいられるわけねぇだろうが」

ルドルフは何も言わない。

ただ静かに目を閉じる。

夜会で何が起きたのか。

細かなやり取りまでは分からない。

それでも、ミレイユが帰ってきた時の表情だけは忘れられなかった。

沈黙が続く。

やがて、マルガレーテが小さく息を吐いた。

「……そう」

その一言だけだった。

けれど、その声には様々な想いが滲んでいた。

誰よりも近くで見守ってきた。

少しずつ縮まっていく二人の距離も。

互いを気遣いながら、本人たちだけが気付いていなかった想いも。

全部、知っている。

だからこそ、昨夜の光景がどれほど残酷だったかも分かっていた。

「ですが、まだ終わったわけではありません」

エドガーが静かに続ける。

ライナーが顔を上げる。

「……どういう意味だ」

「閣下は、今日一日ずっと落ち着きがありませんでした」

エドガーは淡々と言う。

「ご本人は気付いておられませんでしたが」

思い返せば、報告の最中も。

朝食の席でも、執務中でさえ。

アロイスの視線は、無意識のうちにミレイユを追っていた。

「あれほど感情を表へ出さない方が、あそこまで分かりやすいのです」

エドガーは小さく笑う。

「案外、時間の問題だったのかもしれません」

ライナーも苦笑した。

「あいつだけが気付いてなかったってわけか」

「そのようですね」

ルドルフはようやく表情を緩める。

「……では」

「はい」

エドガーは頷いた。

「後は、お二人の問題です」

マルガレーテは窓の外へ目を向けた。

夜空には、雲の切れ間から月が覗いている。

静かな夜だった。

「私たちにできることは、一つだけですね」

誰へともなく呟く。

「信じて、お待ちしましょう」

その言葉に、三人は静かに頷いた。

誰も口にはしない。

けれど、思いは同じだった。

あの二人なら、大丈夫だ。

遠回りをしても、傷ついても。

きっと、自分たちなりの答えへ辿り着く。

そう信じられた。

夜は、まだ明けない。

けれど、二人の止まっていた時間は、ゆっくりと動き始めていた。

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