第7話:触れてしまった心
翌朝。
シュタルク公爵邸は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。
使用人たちはそれぞれの持ち場で忙しく動き、執務室には今日も書類が積まれ、規則正しく一日が動き始めていた。
何も変わらない。
――そう見えるだけだった。
屋敷を包む空気だけが、昨日までとは明らかに違っている。
原因は、一人しかいない。
ミレイユだった。
姿は見える。
仕事もしている。
報告は正確で、判断にも迷いはない。
与えられた役目を、いつも通り淡々とこなしている。
だからこそ異様だった。
「……以上です」
報告を終え、静かに一礼する。
視線は合わせない。
必要なことだけを伝え、それ以上は何も言わない。
「ああ」
アロイスも短く頷いた。
返事はいつも通りだった。
だが、その先の言葉が続かない。
ミレイユは踵を返し、そのまま部屋を後にする。
扉が静かに閉まった。
アロイスはしばらく、その扉を見つめていた。
(……遠い)
昨日まで感じていた違和感が、はっきりと言葉になる。
距離を置かれている。
それも意図的に。
理由は分からない。
何をきっかけに、ここまで変わってしまったのかも分からない。
それでも一つだけ確かなことがあった。
このままでは、いけない。
その思いだけが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
*
朝食の席も、静かなものだった。
普段ならライナーが何かしら賑やかな話題を持ち出す。
エドガーが呆れ、ルドルフがため息をつき、マルガレーテが穏やかに場を収める。
それがいつもの食卓だった。
だが、この日は違う。
誰もが、言葉を選んでいた。
食器の触れ合う音だけが、小さく響く。
エドガーはときおりミレイユへ視線を向けている。
ライナーでさえ、口数が少ない。
そんな中、マルガレーテだけは、いつもと何ひとつ変わらない様子で給仕をしていた。
「ミレイユ様、スープをお持ちしました」
穏やかな声だった。
「……ありがとうございます」
ミレイユは小さく微笑み、器を受け取る。
その笑顔は美しかった。
けれど、あまりにも薄い。
口元だけが笑っている。
そう取り繕っていることが、見守ってきた者たちには痛いほど分かった。
向かい側では、アロイスが黙ってその様子を見ていた。
昨日から積み重なっていく違和感。
ミレイユは確かに笑っている。
仕事もしている。
食事も摂っている。
なのに、どこか空っぽだった。
その姿を見るたび、胸の奥へ説明のつかない焦燥だけが積もっていく。
(……何を見落としている)
自問する。
答えは出ない。
出ないまま、一日だけが静かに過ぎていった。
*
夜。
屋敷は静まり返っていた。
廊下の灯りも落とされ、人の気配はほとんどない。
アロイスは一人、長い廊下を歩いていた。
向かう先は決まっていた。
ミレイユの部屋。
扉の前で立ち止まる。
脳裏へ浮かぶのは、数日前の出来事だった。
ノックもせず扉を開けたこと。
驚いたミレイユと目が合ったこと。
そして、自分が見てしまったもの。
(……)
同じ失敗は繰り返さない。
今度は、ゆっくりと扉を叩いた。
コン、コン。
静かな音が廊下へ響く。
「ミレイユ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
少し待つ。
それでも返事は返ってこなかった。
「……入る」
短く告げ、ゆっくりと扉を開く。
部屋の中は薄暗かった。
窓から差し込む月明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと照らしている。
その中で、ミレイユは椅子へ腰掛けたまま俯いていた。
身じろぎ一つしない。
まるで時間だけが止まってしまったようだった。
アロイスは静かに部屋へ入り、扉を閉める。
「……話がある」
その声に、ミレイユはゆっくりと顔を上げた。
「……何でしょうか」
アロイスは一瞬だけ言葉を選ぶ。
「その前に、一つ確認する」
静かな声が部屋に落ちる。
「また無理をしているんじゃないのか」
ミレイユはわずかに目を伏せ、小さく首を横へ振った。
「……私なら、大丈夫です」
弱々しい声だった。
誰が聞いても、それが嘘だと分かるほどに。
アロイスは一歩だけ距離を詰める。
「大丈夫ではない」
静かな声だった。
だが、迷いはなかった。
その一言に、ミレイユの肩がかすかに震える。
それでも彼女は俯いたまま、小さく首を横へ振った。
「……問題ありません」
同じ言葉を繰り返す。
それは説明ではなく、壁だった。
自分を守るための、脆い壁。
アロイスは、その壁の向こうに何があるのかを知らない。
それでも、このまま引き下がってはいけないことだけは、はっきりと分かっていた。
短く息をつき、静かに口を開く。
「……本題だ」
もう一歩だけ距離を詰める。
「最近、俺を避けている」
責めるような響きはない。
ただ、事実を確かめようとしているだけだった。
ミレイユは俯いたまま、小さく息を呑む。
「……そんなことは」
「ある」
間を置かず、アロイスは言った。
「報告は最低限」
「仕事以外では話そうともしない」
「視線も合わせない」
一つずつ。
逃げ道を塞ぐようにではなく、事実を積み重ねるように言葉を重ねる。
「理由は何だ」
静かな問いだった。
部屋には沈黙だけが落ちる。
答えられない。
答えた瞬間、何かが壊れてしまう気がした。
ミレイユは小さく唇を噛み締める。
「……必要な距離です」
ようやく絞り出した声は、ひどく頼りなかった。
その一言が、アロイスの胸を強く締めつける。
理由は分からない。
だが、その言葉だけは受け入れられなかった。
「違う」
低く言う。
ミレイユの肩が震える。
「離れるな」
短い一言だった。
命令するような声音ではない。
むしろ、自分でも理由の分からない焦りが滲んでいた。
ミレイユは息を止める。
ゆっくりと顔を上げた。
月明かりの中で視線が重なる。
もう隠しきれなかった。
瞳の奥に張り詰めていたものが、小さく揺れる。
「……どうして」
震えた声だった。
「どうして、そんなことを仰るんですか……」
アロイスは答えられない。
答えを、自分でも持っていなかった。
「縁談があるのに」
その一言に、胸の奥が小さく軋む。
「昨日だって……」
ミレイユは目を閉じる。
脳裏へ浮かぶのは、夜会の光景だった。
アンネリーゼ。
アロイス。
重なる呼吸。
美しく揃う足取り。
誰もが見惚れるほど完璧な舞踏。
「……あんな風に」
言葉が詰まる。
息が苦しい。
それでも止まれない。
「綺麗で」
ぽつりと零れる。
「完璧で」
もう一つ。
「誰が見ても、お似合いで……」
そこで声が震えた。
「それが正しいって……分かっているのに」
両手が震える。
必死に握り締めても止まらない。
「分かっているのに……!」
堪えていた感情が、そこで堰を切った。
「どうして……!」
声が裏返る。
「どうして、こんなに苦しいんですか……!」
初めてだった。
こんなふうに感情をぶつけたことは。
泣き乱したことも。
誰かへ弱さを見せたことも。
涙が頬を伝う。
止めようとしても止まらない。
「私は……」
言葉を探す。
必死に探す。
「私は、ただ保護されているだけで……」
それでもなお、逃げようとする。
立場を理由に。
役目を理由に。
自分へ言い聞かせるように。
「だから……」
続かない。
その先だけは。
もう、嘘になる。
「なのに……」
小さく首を振る。
「どうして……」
膝から力が抜けた。
身体がゆっくりと崩れ落ちる。
椅子から滑るように床へ座り込み、顔を覆う。
堪えていた嗚咽が漏れた。
肩が震える。
息が乱れる。
涙は次から次へと溢れ続けた。
もう取り繕うことはできない。
何も隠せない。
長い間、胸の奥へ押し込め続けてきた想いが、ようやく涙となって溢れ出していた。
アロイスは動かなかった。
いや、動けなかった。
目の前で泣き崩れるミレイユを見つめたまま、時間だけが止まる。
胸の奥が痛む。
こんな痛みは知らなかった。
何が正解なのかも分からない。
何を言えばいいのかも分からない。
それでも。
このまま立っていることだけは、違うと思った。
アロイスはゆっくりと膝をつく。
床へ座り込んだミレイユと、同じ目線になるように。
逃げ道を塞ぐためではない。
一人にしないために。
「……ミレイユ」
静かに名前を呼ぶ。
返事はない。
嗚咽だけが、小さく部屋へ響いている。
アロイスは息を吐いた。
初めてだった。
言葉が、こんなにも見つからないのは。
「俺は……」
口を開く。
何度も言葉を選び直す。
「お前を守る立場にある」
ようやく出てきたのは、その言葉だった。
「それは変わらない」
一度区切る。
違う。
それだけではない。
もう、自分でも分かっていた。
夜会で感じた違和感も。
離れようとするミレイユを許せなかった理由も。
全部、一つに繋がっている。
「……だが」
ゆっくりと息を吐く。
「それだけではない」
その一言は、小さかった。
けれど紛れもない本音だった。
ミレイユの肩が震える。
泣き止んではいない。
それでも、少しだけ顔を上げた。
涙で滲んだ瞳が、恐る恐るアロイスを見る。
アロイスは視線を逸らさない。
逃げない。
「だから、離れるな」
今度は命令ではなかった。
縋るような声だった。
失いたくない。
その想いだけが、飾ることなく滲んでいた。
ミレイユは答えられない。
涙だけが、静かに零れ落ちる。
それでも、もう逃げようとはしなかった。
泣きながら、小さく頷く。
それだけで十分だった。
二人の間に流れる沈黙は、もう昨日までのものとは違っていた。
まだ名前はない。
答えも出ていない。
けれど、初めて二人は、同じ痛みを見つめていた。
*
その頃。
公爵邸の一室には、まだ灯りがともっていた。
卓を囲むのは、ルドルフ、エドガー、ライナー、そしてマルガレーテ。
夜も更けているというのに、誰一人として席を立とうとはしなかった。
卓上には一通の報告書が置かれている。
夜会の様子をまとめた、簡潔な報告だった。
内容は決して多くない。
――シュタルク公爵とアダルベルト侯爵令嬢が舞踏。
――見事な組み合わせだった。
――周囲から称賛の声が上がっていた。
それだけだった。
それだけで十分だった。
部屋には重い沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは、エドガーだった。
「……ある程度は予想していました」
静かな声だった。
「ですが、想像以上に"完成されていた"ようですね」
その言葉の意味は、この場にいる誰もが理解していた。
ライナーが舌打ちをする。
「……クソが」
拳を握り締める。
「目の前で見せられたんだぞ」
怒りというより、やり切れなさが滲んでいた。
「平気でいられるわけねぇだろうが」
ルドルフは何も言わない。
ただ静かに目を閉じる。
夜会で何が起きたのか。
細かなやり取りまでは分からない。
それでも、ミレイユが帰ってきた時の表情だけは忘れられなかった。
沈黙が続く。
やがて、マルガレーテが小さく息を吐いた。
「……そう」
その一言だけだった。
けれど、その声には様々な想いが滲んでいた。
誰よりも近くで見守ってきた。
少しずつ縮まっていく二人の距離も。
互いを気遣いながら、本人たちだけが気付いていなかった想いも。
全部、知っている。
だからこそ、昨夜の光景がどれほど残酷だったかも分かっていた。
「ですが、まだ終わったわけではありません」
エドガーが静かに続ける。
ライナーが顔を上げる。
「……どういう意味だ」
「閣下は、今日一日ずっと落ち着きがありませんでした」
エドガーは淡々と言う。
「ご本人は気付いておられませんでしたが」
思い返せば、報告の最中も。
朝食の席でも、執務中でさえ。
アロイスの視線は、無意識のうちにミレイユを追っていた。
「あれほど感情を表へ出さない方が、あそこまで分かりやすいのです」
エドガーは小さく笑う。
「案外、時間の問題だったのかもしれません」
ライナーも苦笑した。
「あいつだけが気付いてなかったってわけか」
「そのようですね」
ルドルフはようやく表情を緩める。
「……では」
「はい」
エドガーは頷いた。
「後は、お二人の問題です」
マルガレーテは窓の外へ目を向けた。
夜空には、雲の切れ間から月が覗いている。
静かな夜だった。
「私たちにできることは、一つだけですね」
誰へともなく呟く。
「信じて、お待ちしましょう」
その言葉に、三人は静かに頷いた。
誰も口にはしない。
けれど、思いは同じだった。
あの二人なら、大丈夫だ。
遠回りをしても、傷ついても。
きっと、自分たちなりの答えへ辿り着く。
そう信じられた。
夜は、まだ明けない。
けれど、二人の止まっていた時間は、ゆっくりと動き始めていた。




