第6話:正しい痛み
間違えて昼に2話分アップしていた!最近ミス多いなぁ…反省。
夜会からの帰り道、馬車の中は静かだった。
規則正しく車輪が石畳を叩く音だけが、夜の街へ小さく響いている。
窓の外では灯りがゆっくりと流れていたが、その景色さえ、ミレイユにはどこか霞んで見えた。
俯いたまま、膝の上へ視線を落とす。
何かを見ているわけではない。
脳裏では、さきほどの光景だけが何度も繰り返されていた。
アンネリーゼとアロイス。
寄り添う二人の姿。
ぴたりと重なる呼吸に、無駄のない足運び。
そして、美しく噛み合う舞踏。
(……綺麗だった)
その事実だけは、否定できなかった。
アンネリーゼは、公爵の隣へ立つにふさわしい女性だった。
侯爵家の令嬢という家格に加え、幼い頃から積み重ねられた教養、社交界で磨かれた所作、そして政治の場へ立つ覚悟。
そのどれもが、アロイスと釣り合っている。
誰が見ても納得する。
誰も異を唱えない。
あれこそが、誰もが思い描く理想の姿なのだろう。
(……あれが)
胸の奥で、小さく言葉が形になる。
(正しい形)
そう思った瞬間、胸の奥が静かに軋んだ。
痛い。
けれど、その痛みさえも否定する。
(当然のこと)
自分へ言い聞かせる。
公爵には、公爵にふさわしい相手がいる。
それだけのことだ。何も間違ってはいない。
だから、この胸の痛みだけが間違っている。
ミレイユは膝の上で指先を握り締めた。
震えが伝わらないように、誰にも気づかれないように、ただ静かに息だけを整える。
向かいに座るアロイスは、そんなミレイユの様子を黙って見ていた。
何度か声を掛けようとはした。
「疲れたか」
その一言くらいなら言えたはずだった。
けれど、口を開きかけるたびに躊躇してしまう。
今のミレイユは、どこか遠い。
触れてはいけないものを抱えているようにも見えた。
(……何かがおかしい)
胸に残るのは、理由の分からない違和感だけだった。
何を間違えたのかも分からない。
それでも、何かを間違えてしまったことだけは、はっきりと感じていた。
やがて馬車は静かに公爵邸へ滑り込んだ。
御者が扉を開くと、夜気がひやりと流れ込んでくる。
アロイスは先に降り、いつものように手を差し出した。
ミレイユも黙ってその手を取る。
力はほとんど込められていない。
それでも、その細い指先がひどく冷たく感じられた。
「……足元を」
思わず漏れた声に、ミレイユは小さく頷く。
「ありがとうございます」
それだけを告げて馬車を降りる。
歩き方は乱れていないし、姿勢も崩れていない。
けれど、どこか中身だけが抜け落ちてしまったような、そんな危うさがあった。
玄関ホールの灯りが二人を迎える。
最初に気づいたのはルドルフだった。
続いてエドガーが顔を上げ、少し遅れてマルガレーテとライナーも視線を向ける。
誰も口には出さない。
けれど、その場の空気がわずかに変わった。
ミレイユの顔からは血の気が引いている。
感情を押し殺しているのではない。
削り取られている。
彼女を見てきた者だからこそ、それが分かった。
これは単なる「疲れている」では済まされない。
何かがあった。
それも、相当に深い何かが。
ミレイユは静かに一礼した。
「……ただいま戻りました」
声は震えていない。いつもの落ち着いた声音だった。
それでも、どこか薄い。
無理に形だけを保っているような響きだった。
マルガレーテは何も尋ねなかった。
ただ一歩だけ近づいて外套を受け取る。
その動きはいつもと何も変わらない。
距離も、温度も、表情も。
「お疲れでしょう」
優しく声を掛ける。
「お部屋の準備は整っております」
ミレイユは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
それ以上、何も言わない。
聞かない。
マルガレーテは、それが今のミレイユに必要な優しさだと知っていた。
静かに一礼すると、ミレイユはそのまま奥へ歩いていく。
小さな足音だけが廊下へ響き、やがて静寂へ溶けていった。
*
足音が遠ざかり、やがて完全な静寂が玄関ホールを包む。
アロイスは、その場を動かなかった。
視線だけが、ミレイユの消えた廊下の奥へ向いている。
追い掛けることはしない。
呼び止めもしない。
今は休ませるべきだと、それだけは分かっていた。
「……疲れている」
低く呟いてから、マルガレーテへ視線を向ける。
「休ませてやれ」
短い言葉だったが、公爵としての明確な指示だった。
「承知いたしました」
マルガレーテは静かに一礼する。
声も表情も変わらない。
けれど、その瞳だけがわずかに細められていた。
数秒、誰も口を開かなかった。
その重たい沈黙を破ったのは、ライナーだった。
「……おい」
低い声が玄関ホールへ落ちる。
「何があった」
真っ直ぐな問いだった。
アロイスは答えない。
いや、答えられなかった。
何が起きたのか。
何を間違えたのか。
自分でも分からない。
「……問題はない」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど空虚だった。
ライナーが眉を吊り上げる。
「あるだろ」
一歩踏み出し、真っ直ぐアロイスを見る。
「見りゃ分かる」
怒鳴ってはいない。
それでも、怒りは隠しきれていなかった。
マルガレーテも静かに問い掛ける。
「……夜会で、何がございました」
責める口調ではない。
ただ、事実を知ろうとしているだけだった。
アロイスはしばらく黙っていた。
夜会。
ダンス。
周囲の視線。
そして――。
「……アダルベルトの娘がいた」
その一言だけだった。
空気が止まる。
誰もすぐには口を開かなかったが、全員が同じことを理解した。
「……は?」
最初に声を漏らしたのはライナーだった。
「それだけで、ああなるかよ」
アロイスは答えない。答えられない。
何が原因なのかは分からない。
それでも、ミレイユがあんな表情になったきっかけが、あそこにあったことだけは確信していた。
ライナーは拳を強く握る。
「侯爵家へ殴り込みに行く」
静かな声だった。
だからこそ、本気だと分かる。
踵を返そうとしたところで、ルドルフが素早く前へ出た。
「落ち着いてください」
「落ち着けるか」
ライナーは振り返る。
「あんな顔、初めて見たぞ」
その一言に、誰も反論できなかった。
するとマルガレーテが静かに踵を返した。
誰も止めない。
そのまま台所へ入り、しばらくして戻ってくる。
手には一本の包丁。
灯りを受けた刃が、静かに光った。
「暗殺者を雇いなさい」
穏やかな声だった。
内容だけが、まったく穏やかではない。
ルドルフが目を見開く。
「おやめなさい」
マルガレーテは首を横へ振り、包丁を握り直した。
「いや、暗殺者なんて待っていられません。私が参ります」
真顔だった。
冗談ではない。
完全に本気である。
「やめてください!」
ルドルフの声が玄関ホールへ響いた。
エドガーは額へ手を当て、大きくため息を吐く。
「それは、さすがに問題があります」
「いや」
ライナーが真面目な顔で頷いた。
「気持ちは分かる」
マルガレーテも静かに頷く。
「でしょう?」
「頷かないでください」
ルドルフは思わず頭を抱えた。
「どうして皆さん、そちらへ話が進むんですか……」
誰も答えない。
答えられない。
ミレイユを傷つけた相手がいる。
そう思った瞬間、公爵家の面々は全員、同じ方向へ意識が向いてしまったのだ。
ようやくエドガーが咳払いを一つする。
「まずは事実を整理しましょう」
冷静な声だった。
「侯爵令嬢に悪意があったとは限りません」
ライナーは腕を組んだ。
「……まあ、それはそうだ」
「ですが」
エドガーはアロイスへ視線を向ける。
「何かが起きたのも事実です」
その言葉に、アロイスは黙って頷いた。
夜会。
アンネリーゼ。
周囲の視線。
そして、踊りを見つめていたミレイユ。
何かが、決定的に違っていた。
その違和感だけが、胸の奥へ重く残っている。
(……何を見落とした)
考えても答えは出ない。
それでも、初めてだった。
「分からない」ということが、これほど落ち着かないと感じたのは。
*
その頃、浴室には静かな湯気が立ち込めていた。
水音だけが、小さく響いている。
ミレイユは湯船の中で膝を抱えたまま、じっと動かなかった。
温かさは感じる。
それでも、心だけはどこか遠くへ置き去りにされているようだった。
どれほど時間が過ぎただろう。
やがて静かに立ち上がると、身体を拭き、寝衣へ袖を通す。
一つひとつの動作は丁寧だったけれど、そのどれにも感情が伴っていなかった。
部屋へ戻り、扉を閉める。
灯りは点けなかった。
椅子へ腰を下ろし、静かに俯く。
何も考えたくない。
そう思っても、記憶は勝手によみがえる。
舞踏会。
寄り添う二人。
重なる呼吸。
美しく揃う足取り。
(……綺麗だった)
何度打ち消しても、その一言だけは消えなかった。
(あれが)
胸の奥で、また小さく言葉になる。
(正しい)
何度も自分へ言い聞かせる。
これでいい。
これが正しい。
私は最初から、その隣へ立つ人ではなかった。
そう思い込もうとする。
けれど、押し込めた想いは消えなかった。
押し込めるたびに少しずつ形を変え、それでも確かに胸の奥へ沈んでいく。
言葉にはならない。
言葉にしたくもない。
ただ、ただ苦しかった。
それだけが、どうしようもなく本当だった。




