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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第6話:正しい痛み

間違えて昼に2話分アップしていた!最近ミス多いなぁ…反省。

夜会からの帰り道、馬車の中は静かだった。

規則正しく車輪が石畳を叩く音だけが、夜の街へ小さく響いている。

窓の外では灯りがゆっくりと流れていたが、その景色さえ、ミレイユにはどこか霞んで見えた。

俯いたまま、膝の上へ視線を落とす。

何かを見ているわけではない。

脳裏では、さきほどの光景だけが何度も繰り返されていた。

アンネリーゼとアロイス。

寄り添う二人の姿。

ぴたりと重なる呼吸に、無駄のない足運び。

そして、美しく噛み合う舞踏。

(……綺麗だった)

その事実だけは、否定できなかった。

アンネリーゼは、公爵の隣へ立つにふさわしい女性だった。

侯爵家の令嬢という家格に加え、幼い頃から積み重ねられた教養、社交界で磨かれた所作、そして政治の場へ立つ覚悟。

そのどれもが、アロイスと釣り合っている。

誰が見ても納得する。

誰も異を唱えない。

あれこそが、誰もが思い描く理想の姿なのだろう。

(……あれが)

胸の奥で、小さく言葉が形になる。

(正しい形)

そう思った瞬間、胸の奥が静かに軋んだ。

痛い。

けれど、その痛みさえも否定する。

(当然のこと)

自分へ言い聞かせる。

公爵には、公爵にふさわしい相手がいる。

それだけのことだ。何も間違ってはいない。

だから、この胸の痛みだけが間違っている。

ミレイユは膝の上で指先を握り締めた。

震えが伝わらないように、誰にも気づかれないように、ただ静かに息だけを整える。

向かいに座るアロイスは、そんなミレイユの様子を黙って見ていた。

何度か声を掛けようとはした。

「疲れたか」

その一言くらいなら言えたはずだった。

けれど、口を開きかけるたびに躊躇してしまう。

今のミレイユは、どこか遠い。

触れてはいけないものを抱えているようにも見えた。

(……何かがおかしい)

胸に残るのは、理由の分からない違和感だけだった。

何を間違えたのかも分からない。

それでも、何かを間違えてしまったことだけは、はっきりと感じていた。

やがて馬車は静かに公爵邸へ滑り込んだ。

御者が扉を開くと、夜気がひやりと流れ込んでくる。

アロイスは先に降り、いつものように手を差し出した。

ミレイユも黙ってその手を取る。

力はほとんど込められていない。

それでも、その細い指先がひどく冷たく感じられた。

「……足元を」

思わず漏れた声に、ミレイユは小さく頷く。

「ありがとうございます」

それだけを告げて馬車を降りる。

歩き方は乱れていないし、姿勢も崩れていない。

けれど、どこか中身だけが抜け落ちてしまったような、そんな危うさがあった。

玄関ホールの灯りが二人を迎える。

最初に気づいたのはルドルフだった。

続いてエドガーが顔を上げ、少し遅れてマルガレーテとライナーも視線を向ける。

誰も口には出さない。

けれど、その場の空気がわずかに変わった。

ミレイユの顔からは血の気が引いている。

感情を押し殺しているのではない。

削り取られている。

彼女を見てきた者だからこそ、それが分かった。

これは単なる「疲れている」では済まされない。

何かがあった。

それも、相当に深い何かが。

ミレイユは静かに一礼した。

「……ただいま戻りました」

声は震えていない。いつもの落ち着いた声音だった。

それでも、どこか薄い。

無理に形だけを保っているような響きだった。

マルガレーテは何も尋ねなかった。

ただ一歩だけ近づいて外套を受け取る。

その動きはいつもと何も変わらない。

距離も、温度も、表情も。

「お疲れでしょう」

優しく声を掛ける。

「お部屋の準備は整っております」

ミレイユは小さく頷いた。

「……ありがとうございます」

それ以上、何も言わない。

聞かない。

マルガレーテは、それが今のミレイユに必要な優しさだと知っていた。

静かに一礼すると、ミレイユはそのまま奥へ歩いていく。

小さな足音だけが廊下へ響き、やがて静寂へ溶けていった。

*

足音が遠ざかり、やがて完全な静寂が玄関ホールを包む。

アロイスは、その場を動かなかった。

視線だけが、ミレイユの消えた廊下の奥へ向いている。

追い掛けることはしない。

呼び止めもしない。

今は休ませるべきだと、それだけは分かっていた。

「……疲れている」

低く呟いてから、マルガレーテへ視線を向ける。

「休ませてやれ」

短い言葉だったが、公爵としての明確な指示だった。

「承知いたしました」

マルガレーテは静かに一礼する。

声も表情も変わらない。

けれど、その瞳だけがわずかに細められていた。

数秒、誰も口を開かなかった。

その重たい沈黙を破ったのは、ライナーだった。

「……おい」

低い声が玄関ホールへ落ちる。

「何があった」

真っ直ぐな問いだった。

アロイスは答えない。

いや、答えられなかった。

何が起きたのか。

何を間違えたのか。

自分でも分からない。

「……問題はない」

ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど空虚だった。

ライナーが眉を吊り上げる。

「あるだろ」

一歩踏み出し、真っ直ぐアロイスを見る。

「見りゃ分かる」

怒鳴ってはいない。

それでも、怒りは隠しきれていなかった。

マルガレーテも静かに問い掛ける。

「……夜会で、何がございました」

責める口調ではない。

ただ、事実を知ろうとしているだけだった。

アロイスはしばらく黙っていた。

夜会。

ダンス。

周囲の視線。

そして――。

「……アダルベルトの娘がいた」

その一言だけだった。

空気が止まる。

誰もすぐには口を開かなかったが、全員が同じことを理解した。

「……は?」

最初に声を漏らしたのはライナーだった。

「それだけで、ああなるかよ」

アロイスは答えない。答えられない。

何が原因なのかは分からない。

それでも、ミレイユがあんな表情になったきっかけが、あそこにあったことだけは確信していた。

ライナーは拳を強く握る。

「侯爵家へ殴り込みに行く」

静かな声だった。

だからこそ、本気だと分かる。

踵を返そうとしたところで、ルドルフが素早く前へ出た。

「落ち着いてください」

「落ち着けるか」

ライナーは振り返る。

「あんな顔、初めて見たぞ」

その一言に、誰も反論できなかった。

するとマルガレーテが静かに踵を返した。

誰も止めない。

そのまま台所へ入り、しばらくして戻ってくる。

手には一本の包丁。

灯りを受けた刃が、静かに光った。

「暗殺者を雇いなさい」

穏やかな声だった。

内容だけが、まったく穏やかではない。

ルドルフが目を見開く。

「おやめなさい」

マルガレーテは首を横へ振り、包丁を握り直した。

「いや、暗殺者なんて待っていられません。私が参ります」

真顔だった。

冗談ではない。

完全に本気である。

挿絵(By みてみん)

「やめてください!」

ルドルフの声が玄関ホールへ響いた。

エドガーは額へ手を当て、大きくため息を吐く。

「それは、さすがに問題があります」

「いや」

ライナーが真面目な顔で頷いた。

「気持ちは分かる」

マルガレーテも静かに頷く。

「でしょう?」

「頷かないでください」

ルドルフは思わず頭を抱えた。

「どうして皆さん、そちらへ話が進むんですか……」

誰も答えない。

答えられない。

ミレイユを傷つけた相手がいる。

そう思った瞬間、公爵家の面々は全員、同じ方向へ意識が向いてしまったのだ。

ようやくエドガーが咳払いを一つする。

「まずは事実を整理しましょう」

冷静な声だった。

「侯爵令嬢に悪意があったとは限りません」

ライナーは腕を組んだ。

「……まあ、それはそうだ」

「ですが」

エドガーはアロイスへ視線を向ける。

「何かが起きたのも事実です」

その言葉に、アロイスは黙って頷いた。

夜会。

アンネリーゼ。

周囲の視線。

そして、踊りを見つめていたミレイユ。

何かが、決定的に違っていた。

その違和感だけが、胸の奥へ重く残っている。

(……何を見落とした)

考えても答えは出ない。

それでも、初めてだった。

「分からない」ということが、これほど落ち着かないと感じたのは。

*

その頃、浴室には静かな湯気が立ち込めていた。

水音だけが、小さく響いている。

ミレイユは湯船の中で膝を抱えたまま、じっと動かなかった。

温かさは感じる。

それでも、心だけはどこか遠くへ置き去りにされているようだった。

どれほど時間が過ぎただろう。

やがて静かに立ち上がると、身体を拭き、寝衣へ袖を通す。

一つひとつの動作は丁寧だったけれど、そのどれにも感情が伴っていなかった。

部屋へ戻り、扉を閉める。

灯りは点けなかった。

椅子へ腰を下ろし、静かに俯く。

何も考えたくない。

そう思っても、記憶は勝手によみがえる。

舞踏会。

寄り添う二人。

重なる呼吸。

美しく揃う足取り。

(……綺麗だった)

何度打ち消しても、その一言だけは消えなかった。

(あれが)

胸の奥で、また小さく言葉になる。

(正しい)

何度も自分へ言い聞かせる。

これでいい。

これが正しい。

私は最初から、その隣へ立つ人ではなかった。

そう思い込もうとする。

けれど、押し込めた想いは消えなかった。

押し込めるたびに少しずつ形を変え、それでも確かに胸の奥へ沈んでいく。

言葉にはならない。

言葉にしたくもない。

ただ、ただ苦しかった。

それだけが、どうしようもなく本当だった。

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