第5話:あるべき形
その日の夕刻。
窓の外には、夕陽が沈みきる前の曖昧な光が残っていた。
昼とも夜ともつかない色が、静かに部屋を染めている。
ミレイユは一人、自室に立っていた。
時間は確実に近づいている。
今夜の夜会。
行かなければならない。
王国から派遣された共同研究員として。
そして、シュタルク公爵家の被後見人として。
皇宮からの正式な招待状だった。
しかも今回は、「同伴」を求める意図があまりにも露骨だった。
逃げ道はない。
鏡の前へ立つ。
仕立てられたドレス。
丁寧に結い上げられた髪。
選び抜かれた装飾品。
どこにも隙はなく、誰が見ても完璧だった。
それでも。
鏡の中に映る自分は、どこか他人のように見える。
(……似合っている)
そう思う。
客観的には。
けれど同時に、胸の奥では別の声が囁いていた。
(ここにいるべきではない)
視線を落とす。
そっと触れたのは、小さな包みだった。
開けば、中には街で買ってもらった髪飾りが収められている。
あの日、何気ない調子で差し出された贈り物。
理由は、今も分からない。
(……業務の一環)
そう結論づけたはずだった。
保護対象への配慮。
後見人としての気遣い。
それ以上の意味はない。
そう思えば済む話なのに、髪飾りへ触れた指先だけが、わずかに熱を帯びる。
ミレイユは慌てて手を離した。
考えない。
考えるべきではない。
脳裏に浮かぶのは、あの日の夕暮れだった。
開いた扉。
止まった時間。
着替えの途中だったアロイスの姿。
鍛えられた肩。
戦場を生き抜いてきた者だけが持つ、無駄のない身体。
「……違う」
小さく呟く。
思考を振り払うように首を横へ振った。
違う。
私は保護されている立場で。
公爵家の監督のもとに置かれているだけ。
だから――
そこで言葉が止まる。
その先だけは、どうしても口にできなかった。
コン、コン。
扉が静かに叩かれる。
「時間だ」
アロイスの声だった。
短く、いつもと変わらない声音。
ミレイユは一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を整える。
「……はい」
扉を開く。
視線が合った。
ほんの一瞬。
二人とも、わずかに動きを止める。
理由は分からない。
けれど胸の奥に、小さな何かが引っ掛かった。
アロイスは何事もなかったように腕を差し出す。
ミレイユも黙ってその腕を取った。
触れた瞬間、鼓動がほんの少しだけ速くなる。
それでも二人は何も言わない。
言葉の代わりに、静かな足音だけが廊下へ響いていた。
*
馬車は静かに石畳を進んでいた。
規則正しい揺れだけが、車内に穏やかな時間を刻んでいく。
窓の外では、街の灯りが一つ、また一つと流れていった。
向かいにはアロイスが座っている。
いつもと変わらない姿勢。
いつもと変わらない表情。
会話はない。
けれど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
これまで何度も、こうして同じ馬車に揺られてきた。
任務へ向かう時も。
視察へ赴く時も。
必要なことだけを話し、それ以外は静かに過ごす。
それが二人にとって、ごく自然な時間だった。
(……これでいい)
ミレイユはそっと視線を窓へ向ける。
これが正しい距離だ。
後見人と、その庇護下に置かれた共同研究員。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせるたび、胸の奥には小さな違和感だけが残った。
アロイスは何気なく視線を上げる。
向かいに座るミレイユと目が合いそうになり、ほんの僅かに逸らした。
自分でも理由は分からない。
ここ数日、彼女を前にすると、妙に調子が狂う。
それが、あの日の出来事のせいなのか。
それとも別の理由なのか。
答えは見つからないままだった。
やがて馬車は皇宮へ到着する。
御者が扉を開き、二人は静かに降り立った。
*
皇宮の大広間は、今夜も眩い光に包まれていた。
高く吊るされた燭台が柔らかな光を落とし、磨き上げられた床には無数の人影が映り込む。
流れる音楽。
抑えられた笑い声。
交わされる挨拶。
そのどれもが洗練され、この帝国の繁栄を映し出しているようだった。
その空間へ、アロイスとミレイユが足を踏み入れる。
一瞬。
広間の空気が静かに揺れた。
シュタルク公爵。
そして、その隣に寄り添う王国の少女。
噂はすでに社交界を巡っている。
精神干渉の能力を持つ王国の魔術師。
共同研究のため帝国へ招かれ、公爵家で保護されている存在。
興味。
警戒。
好奇心。
幾つもの感情が視線となって二人へ集まる。
ミレイユは表情を変えなかった。
背筋を伸ばし、ただ静かに周囲を見渡す。
視線を向けられていることも。
その意味も、理解していた。
(……違う)
ここは、自分の立つ場所ではない。
そう思ってしまう自分がいる。
アロイスは周囲を一瞥する。
警備。
出席者。
警戒すべき人物。
長年の癖で状況を確認しながら歩く。
その意識が、ほんの一瞬だけ隣へ向いた。
ミレイユは何も言わない。
いつもと変わらない。
変わらないはずなのに、どこか遠い。
その違和感だけが胸に残る。
「来たか」
低く落ち着いた声が響いた。
第二皇子だった。
穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
柔和な物腰とは裏腹に、相手へ逃げ道を与えない距離で足を止めた。
「今夜はよく来てくれた」
「お招きいただき、光栄に存じます」
形式通りの挨拶を返す。
第二皇子は満足そうに頷いた。
「せっかくだ、一曲踊ってくれ」
柔らかな口調。
だが、それは願いではない。
断る理由を与えない命令だった。
周囲の貴族たちも、さりげなく様子を窺っている。
ここで断れば、それ自体が一つの意思表示になる。
受けてもまた、意味を持つ。
アロイスは一瞬だけ考え、静かに答えた。
「……承知いたしました」
その返答を待っていたかのように、第二皇子が口を開く。
「アンネリーゼ」
呼ばれた女性が、人波の向こうから静かに歩み出てくる。
金糸のような髪。
気品に満ちた立ち姿。
一歩進むたびに視線を集めながら、それを少しも意識していないような自然さがあった。
アロイスの前で優雅に一礼する。
隙のない、美しい所作だった。
アロイスも一礼を返し、静かに手を差し出す。
アンネリーゼは迷うことなく、その手を取った。
二人はゆっくりと舞踏の輪へ入っていく。
音楽が変わる。
穏やかな旋律に合わせ、自然と足が動き始めた。
息が合っている。
合わせようとしているのではない。
幼い頃から社交界で磨き上げられた者同士だからこそ、最初から噛み合っていた。
その姿は、美しかった。
「……お似合いですわ」
誰かが小さく呟く。
「まるで最初から決まっていたようだ」
「婚約のお話も、本当なのかもしれませんね」
囁きは静かに広がっていく。
誰も悪意を持ってはいない。
ただ、目の前にある光景を見て、自然な感想を口にしているだけだった。
ミレイユはその場を動かなかった。
ただ静かに、二人を見つめる。
美しいと思った。
否定できないほどに。
アンネリーゼは完璧な淑女だった。
アロイスの隣に立つ姿も、何一つ違和感がない。
(……綺麗)
その一言が、胸へ静かに落ちる。
(あれが、正しい形)
その瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
痛みと呼ぶには静かすぎる。
けれど確かに、何かが音を立てた。
ミレイユは息を整える。
表情は変えない。
変えてはいけない。
視線だけは、最後まで逸らさなかった。
その横では、何人かの貴婦人たちがミレイユへ目を向けていた。
同情、あるいは安堵。
――やはり、そういう関係ではなかったのね。
そんな空気すら、ミレイユには読み取れてしまう。
一方、舞踏の輪の中心で。
アロイスはアンネリーゼと歩調を合わせながらも、拭えない違和感を抱いていた。
動きは正確だった。
呼吸も合っている。
相手に不足は何一つない。
それなのに。
(……違う)
心のどこかが、静かにそう告げる。
何が違うのか、何が足りないのか。
答えは分からない。
気づけば視線が人波を越え、一人の少女を探していた。
ミレイユ。
その姿を見つけた瞬間、胸の奥が僅かに締めつけられる。
表情は変わらない。
微笑みも崩れていない。
それでも――何かが、少しだけ削れてしまったように見えた。
音楽が終わり、拍手が広間を満たす。
称賛の声が重なり、誰もがこの光景を祝福していた。
アロイスは静かに手を離す。
アンネリーゼも優雅に一礼を返す。
完璧だった。
誰もが納得する、美しい一曲。
その場は、それで終わる。
けれど、終わっていないものが一つだけあった。
ミレイユの胸の奥で。
まだ名前のつかない想いだけが、静かに形を変え始めていた。




