第3話:盤面の変化
20時過ぎに投稿したと思ったら、しきれていなかった…がーん。
それは、一通の封書から始まった。
午前の公爵邸。窓から差し込む光は穏やかで、いつもと変わらない朝だった。
けれど、ルドルフによって運ばれてきた一通の書状だけが、妙に重い空気をまとっている。
封蝋には、帝国皇室の紋章が刻まれていた。
誰の目にも、それが皇宮から届けられた正式な書簡であることは明らかだった。
「……皇宮からです」
ルドルフが静かに告げ、卓上へ書状を置く。
アロイスはそれを手に取ると、封を切り、中身へ目を通した。
しばらく何も言わずに文字を追っていたが、やがて書状を畳む。
「内容は?」
エドガーに促され、アロイスは淡々と答えた。
「縁談だ」
その一言だけで、十分だった。
意味が全員に浸透するまで、ほんの数秒の沈黙が落ちる。
「……は?」
素で声を漏らしたのはライナーだった。
「誰とだよ」
「アダルベルト侯爵家長女、アンネリーゼ・フォン・アダルベルト」
その名を聞いた瞬間、エドガーの視線がわずかに動いた。
「……“完璧な淑女”ですか」
誰もが知る名だった。
容姿、教養、知性、社交性。
そのどれを取っても申し分なく、帝国貴族社会が理想とする女性像を、そのまま体現したような令嬢である。
“帝国の華”。
そう呼ばれる女性だった。
ルドルフがわずかに眉を寄せる。
「……政治的な意図が強すぎますな」
「第二皇子側でしょうね」
エドガーも淡々と続けた。
「公爵家を取り込む意図か、あるいは別の思惑があるのか。いずれにせよ、単なる縁談とは考えにくいでしょう」
その視線が、ほんの一瞬だけミレイユへ向いた。
すぐに外れる。
ミレイユは何も言わず、静かに話を聞いていた。
けれど、頭の中には先ほどの言葉だけが残っている。
(……縁談)
ただの一言なのに、妙に胸へ引っかかった。
一方のアロイスは、何事もなかったような顔をしていた。
だが、その頭の中では複数の可能性が素早く整理されている。
そして、しばらく考えた末に口を開いた。
「……保留だ」
「即答する必要はない」
それだけ告げると、誰も異を唱えなかった。
正しい判断だった。
ミレイユにも、それは分かっている。
(……当然です)
年齢は二十六。
この年齢で、これまで縁談が一つもなかった方が異常だった。
ただ、“鉄血公爵”という異名が、これまで多くの女性を遠ざけていただけなのだ。
だから今回の話は、むしろ自然な流れだった。
そう思う。
そう思うはずなのに、胸の奥がわずかに軋んだ。
理由なら、分かっている。
だからこそ、認めたくなかった。
(私は……)
一瞬だけ、思考が止まる。
(ただ、保護されている立場で)
自分へ言い聞かせるように続けた。
(監督下に置かれているだけ)
だから、この件に自分の感情が入り込む余地などない。
そう整理すれば、何もおかしくない。
完全に正しい。
それなのに、呼吸がほんの少しだけ浅くなった。
ミレイユは誰にも気づかれないよう視線を落とし、指先へわずかに力を込める。
それ以上は、何も出さなかった。
出してはいけなかった。
*
数日後、公爵邸の正門に一台の馬車が静かに停まった。
扉が開くと、最初に白い手袋が現れ、続いてドレスの裾が姿を見せる。
そして、アンネリーゼ・フォン・アダルベルトがゆっくりと馬車から降り立った。
金色の髪は一筋の乱れもなく整えられ、歩幅から視線の運び方、背筋の伸ばし方に至るまで、すべてが洗練されている。
動作の一つひとつに無駄がなく、彼女が地面へ足をつけた瞬間、不思議なほどその場の空気まで整ったように感じられた。
威圧しているわけではない。
誰かを従わせようとしているわけでもない。
ただ、そこに立っているだけで周囲が自然と姿勢を正してしまう。
使用人たちが無意識に背筋を伸ばし、メイドたちですら思わず息を呑んだ。
「……すご」
誰かが小さく漏らす。
「すげぇ別嬪だな」
ライナーはいつも通り、空気を読まない。
そんな中、マルガレーテだけは腕を組み、険しい顔でアンネリーゼを見つめていた。
「……強敵ですわね」
ぼそりと呟く。
完全に戦闘態勢だった。
*
応接室では、アロイスがアンネリーゼを待っていた。
二人が向かい合う。
それだけで、室内には張り詰めた空気が生まれた。
アロイスが放つ無言の圧は、普通の人間なら立っているだけで萎縮するほどのものだった。
だが、アンネリーゼは微動だにしない。
正面からその視線を受け止めたまま、わずかに微笑んだ。
「お初にお目にかかります」
完璧な礼。
そこには一分の隙もない。
アロイスは短く頷いた。
「来訪の意図は理解している」
余計な前置きはなかった。
アンネリーゼもまた、穏やかに微笑む。
「では、お話は早いですね」
そう言って、ほんの一歩だけ踏み込んだ。
普通なら、その圧を前にして自然に距離を詰めることなどできない。
だが彼女は、それを当然のようにやってのける。
「では、本件について伺っても?」
わずかに首を傾ける。
「なぜ、保留にされたのでしょう」
直球だった。
アロイスは圧を緩めることなく答える。
「即断する案件ではない」
「政治的な影響が大きいからですか」
「そうだ」
アンネリーゼは迷いなく頷いた。
「ええ。ですから、価値があるのです」
その言葉には、一切の躊躇がなかった。
「公爵家とアダルベルト家が結ばれれば、帝国の安定にも寄与するでしょう」
整えられた言葉だった。
正しい。
だからこそ、隙がない。
アロイスは視線を逸らさないまま問う。
「第二皇子の意向か」
アンネリーゼは否定しなかった。
「関係はございます」
濁すことなく認め、それから静かに続ける。
「ですが、それが問題でしょうか」
一歩も引かない。
「利があるか否か。それを判断基準とするなら、十分ではありませんか?」
冷徹なほど合理的な答えだった。
アロイスの目が、わずかに細まる。
「立場が固定される」
短く指摘する。
「第二皇子側についたと見られる」
明確な政治的リスクだった。
だが、アンネリーゼはほんのわずかに微笑む。
「“見られる”だけです」
静かな声で言い切った。
「実際にどう動くかは、別の話でしょう」
その目に鋭さが宿る。
「むしろ、近い立場にいたほうが動かしやすい場合もあります」
そこで、言葉の質が変わった。
ただの淑女ではない。
目の前の女性は、自分の置かれた立場だけではなく、その先にある盤面まで見ている。
アロイスは黙ったまま、アンネリーゼを測っていた。
彼女もまた、アロイスを見ている。
「公爵閣下は、どちらにも属さないことで均衡を保っておられる」
アンネリーゼは穏やかに続けた。
「ですが、それは同時に、どちらの側からも決定的な影響を与えにくいということでもあります」
核心を突かれた。
アロイスの視線が、ほんのわずかに変わる。
それでも表情は崩れない。
「……随分と踏み込む」
低い声だった。
アンネリーゼは微笑む。
「踏み込まなければ、意味がありませんから」
その返答に、室内の空気がさらに張り詰めた。
少し離れた場所で、エドガーは二人のやり取りを静かに見守っていた。
(“完璧な淑女”……か)
そして心の中で、評価を改める。
(厄介だな)
視線が一瞬だけミレイユへ向いた。
(強敵だ)
ミレイユは何も言わない。
ただ、その場に立っている。
けれど会話の意味は、完全に理解していた。
そして、自分がこの駆け引きの外側にいることも。
*
その後、別室に関係者が集まった。
「……第二皇子の差し金であることは、まず間違いないでしょう」
エドガーがそう切り出すと、誰も否定しなかった。
「狙いも明確です」
ルドルフが続ける。
「公爵家を取り込むか、あるいは――切り離す」
重い沈黙が落ちた。
誰もが、それぞれに今回の縁談が持つ意味を考えている。
そんな中、マルガレーテがにこりと笑った。
「では、第二皇子を暗殺なさいませ」
一瞬、部屋の空気が凍りつく。
「おい」
ライナーが即座に突っ込んだ。
「やめてください」
ルドルフは額を押さえる。
エドガーも深々とため息をついた。
「冗談にしては物騒すぎます」
ところがマルガレーテは、笑顔を崩さない。
「冗談ではありませんが?」
「余計に駄目だろうが!」
ライナーの悲鳴が響く。
それから数秒の沈黙を経て、全員が申し合わせたように視線を逸らした。
触れてはいけない話題だった。
ただ一つ、確かなことがある。
――盤面が動いた。
それだけは、誰もが理解していた。




