↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
PR
60/144

第2話:半歩、近づく

始まりは、本当に些細な一言だった。

朝の食堂には柔らかな陽光が差し込み、淹れたばかりの紅茶から立ち上る香りが穏やかに広がっていた。

いつものように給仕の様子を見守っていたマルガレーテが、ふと思いついたように口を開く。

「最近、お二人ともお忙しそうでございますね」

その言葉に、苦手なブロッコリーへ目を落としていたアロイスが顔を上げる。

向かいに座っていたミレイユも、小さく視線を向けた。

マルガレーテは二人の反応を確かめるように微笑み、それから何気ない調子で続ける。

「たまには、少し外の空気を吸われてはいかがです?」

ごく自然な提案だった。

けれど、その目だけは妙に真剣である。

アロイスは一瞬考えた。

騎士団の運営、皇宮との調整、帝都西部の防衛線に関する案件。

頭の中で今日の予定を順番に整理し、それから短く尋ねる。

「……必要か」

「必要です」

マルガレーテの返答には、一切の迷いがなかった。

ミレイユがわずかに首を傾げる。

「……気分転換、でしょうか?」

「ええ」

マルガレーテはにっこりと笑った。

「お二人で」

一瞬、食堂が静かになる。

だが、誰も何も言わない。

エドガーは何事もなかったように紅茶を飲み、ルドルフも完璧な無表情で給仕を続けている。

ただ一人、空気を読まない男だけが口を開きかけた。

「お、デート――」

その瞬間、テーブルの下からマルガレーテの足が飛んできた。

「痛っ!?」

「静かにお食べなさい」

にこやかな笑顔だった。

ライナーは涙目になりながら口を閉じる。

「……はい」

こうして、誰も異議を唱えることなく、二人の最初の“外出”が決まった。

*

――その頃。

廊下の陰では、数人のメイドたちが密かに集結していた。

「決まりましたね」

「ついにお二人で外出です」

「本日の組み合わせ、最高ではありませんか?」

声を潜めているものの、興奮はまったく隠せていない。

その中心で腕を組んでいるのは、もちろんマルガレーテだった。

「皆さん、段取り通りにお願いします」

「はい!」

全員が真剣な顔で頷く。

どう考えても、ただの休日の外出ではない。

彼女たちにとっては、もはや特別任務だった。

*

昼の帝都は穏やかだった。

中心街へ続く石畳は陽光を受けて明るく輝き、その両側には装飾品を扱う店や菓子店、衣料品店などが軒を連ねている。

人通りは多いものの、騒がしいというほどではない。

その通りを、アロイスとミレイユは並んで歩いていた。

二人の距離は近すぎず、遠すぎず、普段とほとんど変わらない。

――少なくとも、本人たちはそう思っていた。

通りの角へ差しかかったとき、向こうから荷馬車がやってくる。

道幅はそれほど広くない。

すれ違うには、少し端へ寄らなければならなかった。

その瞬間、アロイスが自然に半歩前へ出た。

ミレイユを内側へ寄せるように位置を変え、自分は荷馬車側へ立つ。

ほんの数秒のことだった。

荷馬車が通り過ぎる間だけ、二人の距離がわずかに縮まる。

ミレイユは特に気にしていない。

アロイスも、いつもの護衛としての動作としか考えていない。

しかし、少し離れた建物の影では――。

「近い近い近い」

「今の、ものすごく自然でしたよ!」

「護衛として完璧です!」

メイドたちが息を殺しながら盛り上がっていた。

完全な尾行である。

その様子を見守るマルガレーテは、満足そうに頷いた。

「良い流れです」

真顔だった。

*

しばらく歩いたところで、二人は小さな装飾店の前へ差しかかった。

店先には硝子細工や髪飾りが並べられている。

その中に、淡い銀色の髪飾りがあった。

華美ではない。

細かな装飾が施されているものの、全体としては上品で、ミレイユの雰囲気にもよく合いそうな品だった。

「こちらなど、いかがでしょう?」

店主に声を掛けられ、ミレイユが足を止める。

何も言わなかった。

けれど、髪飾りへ向けられた視線が、ほんの少しだけ長く留まる。

それを見たアロイスは、髪飾りへ目を向け、それからミレイユを見る。

挿絵(By みてみん)

そして、何の気負いもなく言った。

「……それ、似合うな」

ミレイユの動きが止まった。

「……え?」

思わず聞き返す。

アロイスは不思議そうに首を傾げた。

「……どうした」

本当に分かっていない。

自分が今、何を言ったのかも。

ミレイユは返す言葉を失った。

その瞬間、先日の出来事が脳裏をよぎる。

着替えの途中だったアロイス。

そして、自分の無防備な姿を見られた昨夜のこと。

思い出した途端、顔が熱くなった。

「……いえ」

ようやくそれだけ答える。

アロイスは特に気にした様子もなく、店主へ視線を向けた。

「それを包め」

「え?」

今度はミレイユの声が大きくなる。

「気に入ったのだろう」

あまりにも淡々としている。

「……ですが、そんな……いただくわけには」

「問題ない」

短い返答だった。

そのまま支払いまで済ませてしまう。

店主から小さな包みを受け取ったミレイユは、しばらくそれを見つめていた。

「……ありがとうございます」

ようやく出た声は、ずいぶん小さい。

アロイスは頷いただけだった。

――その頃、建物の影では。

「買った……!」

「さらっと買いましたよ!?」

「何ですか、あの自然な流れ!」

「贈り物ですわ……!」

小声の悲鳴が飛び交う。

マルガレーテは両手を握りしめ、またしても小さくガッツポーズを決めていた。

*

その後、二人は近くの甘味処へ入った。

案内された席は、向かい合わせになっている。

普段より距離が近いせいか、ミレイユは少し落ち着かなかった。

視線をどこへ置けばいいのか分からず、何となく店内へ目を向ける。

一方のアロイスは、いつもと変わらない様子で座っている。

やがて、生菓子と果実蜜、それから湯気の立つ温かな茶が運ばれてきた。

ミレイユは生菓子を一口食べる。

その瞬間、張り詰めていた表情がほんの少しだけ緩んだ。

普段のような緊張した顔ではない。

年相応の、穏やかな笑顔だった。

アロイスは、そんなミレイユを見た。

そして、一瞬だけ思考が止まる。

脳裏に浮かんだのは、またしても「あの日」の光景だった。

(……)

すぐに意識を逸らす。

(いやいやいや)

さらに自分へ言い聞かせる。

(俺はただの後見人だ)

それでも思考が止まらない。

(こんな年下の少女に何を考えている)

そこでようやく、アロイスは自分の思考を強引に打ち切った。

無表情へ戻る。

「……どうかなさいましたか?」

ミレイユが不思議そうに尋ねる。

「何も問題ない」

「……そうですか」

ミレイユは首を傾げながらも、再び菓子へ目を向けた。

アロイスも茶へ視線を落とす。

会話は途切れた。

けれど、その間に流れる空気だけが、以前とはほんの少し違っていた。

*

――それから数日後。

公爵邸の中庭には、簡易の弓場が設けられていた。

「気分転換に、とのことでございます」

ルドルフが淡々と説明する。

どう考えても、誰かが用意したとしか思えないほど手際がいい。

ミレイユは苦笑しながら弓を手に取った。

幼い頃、令嬢教育の一環として習ったことはある。

けれど、それ以来まともに弓を引いた記憶はない。

構えてみると、思った以上に身体が覚えていた。

ただ、肩に少し力が入りすぎている。

そのとき、背後からアロイスの声がした。

「肩を下げろ」

「……はい」

「肘も上がっている」

言われた通りに姿勢を直す。

アロイスは一定の距離を保ったまま、必要なことだけを指示していく。

触れることはない。ただ、すぐ後ろから静かに見ている。

「呼吸を整えろ」

ミレイユは息を吸い、ゆっくりと吐いた。

そして、矢を放つ。

矢は一直線に飛び、的へ突き刺さった。

中心からは少し外れている。

それでも十分な結果だった。

「……十分だ」

短い評価。

ミレイユは小さく笑う。

「ありがとうございます」

その横顔を見た瞬間、アロイスの脳裏にまたしても、夕暮れの光の中で見た白い肌が浮かんだ。

「…………」

ほんの一瞬、思考が止まる。

そして、耳がわずかに赤くなった。

「……もう一度やるぞ」

「はい?」

「集中しろ」

「……はい」

ミレイユは不思議そうに首を傾げた。

その一方で、彼女もまた弓を構えながら、ふと「あの日」のことを思い出していた。

胸の奥がざわつく。

(……違う)

自分に言い聞かせる。

(私は、ただ保護されているだけ)

そう思おうとする。

けれど、その言葉だけでは完全に整理できない何かが、少しずつ胸の奥へ残り始めていた。

そして、その二人を植え込みの陰から見守っている者たちは、別の意味で落ち着いていなかった。

「近い……」

「今の距離、かなりいいですね」

「触れていないのが、逆にいい!」

「分かります!」

完全に観客と化している。

マルガレーテは満足そうに頷いた。

「順調です」

誰も異論を唱えなかった。

*

その夜。

シュタルク家の食堂には、いつも以上に豪華な料理が並んでいた。

肉料理に彩り豊かな温野菜、高級な食中酒。

そして、その中央には――。

またしても赤飯が堂々と鎮座している。

ミレイユが足を止める。

アロイスも止まる。

「……何かあったのか」

真顔で尋ねるアロイスに、マルガレーテは完璧な笑顔を向けた。

「いいえ?」

「特にはございませんわ」

どう考えても嘘だった。

だが、誰も指摘しない。

ライナーだけは何も知らず、普通に赤飯を口へ運んでいる。

「うめぇなこれ」

相変わらず空気を読まない。

エドガーは何も言わずに視線を逸らしていた。

明らかに事情を把握している顔だった。

ミレイユは赤飯を見つめたまま、何も言えない。

アロイスも、なぜこれが食卓の中央に置かれているのか理解できていない。

けれど。

二人はほとんど同時に、あの日の出来事を思い出した。

ミレイユの頬が赤くなる。

アロイスの耳も、わずかに赤くなる。

ただし、二人とも互いの顔は見ない。

だから、その変化に気づくこともない。

残ったのは、どこか妙にぎこちない空気だけだった。

その様子を見て、マルガレーテは確信する。

(順調ですわ……!)

背後では、メイドたちが声を押し殺して小さく歓声を上げていた。

本人たちが自覚していないだけで、二人の距離は確実に縮まっている。

ほんの少しずつ。

けれど、確実に。

――だからこそ。

このあと落とされることになる“爆弾”は、誰も予想していないほど大きなものになる。

この時点では、まだ誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。