第1話:赤飯の理由
夕暮れを過ぎた公爵邸は、昼間とは違う静かな熱を帯びていた。
窓の外には群青色の空が広がり、廊下では魔導灯が一つ、また一つと灯り始めている。
柔らかな橙色の光が石床へ落ち、その上を使用人たちが足音を忍ばせて行き交っていた。
そんな穏やかな時間に、本来なら起こるはずのない出来事が、静かに発生した。
*
アロイスは数枚の書類を手に、廊下を歩いていた。
帝都西部の防衛線について、至急確認が必要な案件だった。
内容を整理したところ、ミレイユにも共有しておいたほうがいいと判断し、そのまま彼女の私室へ向かっている。
頭の中は完全に仕事へ切り替わっていた。
だからこそ、扉の前に立ったときも、いつもの習慣が一つ抜け落ちた。
――ノックをする。
その選択肢自体が、頭から抜けていたのである。
何の迷いもなく扉を開ける。
「ミレイユ――」
そこまで言って、アロイスの動きが止まった。
視界に入ったのは、着替えの途中だったミレイユの姿だった。
薄布すらまだ身につけていない。
完全に下着姿。
肩から腕にかけての白い肌が、夕暮れの光の中にそのまま晒されている。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
アロイスも動かない。
ミレイユも動かない。
視線だけがぶつかる。
互いに何も言わないまま、時間だけが妙にゆっくりと流れていった。
ミレイユの指先が、わずかに震える。
一秒。
二秒。
そして三秒目になって、ようやくアロイスの思考が現実へ追いついた。
だが、なぜか身体のほうがまだ動かない。
「…………」
「…………」
完全な沈黙だった。
先に動いたのはミレイユだった。
みるみるうちに頬が赤くなり、耳まで熱を持っていく。
それでも声だけは、不思議なほど冷静だった。
「……出ていってください」
静かな声音だった。
だからこそ、怒っていることがよく分かる。
アロイスも、ようやく我に返った。
「……すまん」
言い訳の一つもない。
珍しく、完全に非を認める声音だった。
アロイスはすぐに扉を閉めた。
廊下へ出たところで、しばらくその場に立ち尽くす。
数秒経っても、動かない。
そして、少し離れた角には、ルドルフとエドガーがいた。
二人とも、何も言わない。
ただ、明らかに見ていた顔をしている。
アロイスは無言のまま歩き始めた。
数歩進んだところで、ふと足が止まる。
顔はいつも通り無表情。
しかし、耳まで含めて、わずかに赤い。
それを見たルドルフが、静かに口を開いた。
「……ノックもせず、淑女の私室へ入るとは。感心いたしませんな」
至極もっともな指摘だった。
アロイスは黙っている。
反論できない。
すると、エドガーが眼鏡を押し上げながら続けた。
「もっとも、鍵をかけない不用心な淑女も、どうかと思いますが」
冷静な声音だった。
ただし、口元だけがほんの少し緩んでいる。
アロイスは二人を見ない。
そのまま再び歩き出し、角を曲がる。
――ゴン。
鈍い音が響いた。
「…………」
壁に額をぶつけたまま、アロイスが止まる。
数秒後。
――ゴン。
もう一度。
さらに。
――ゴン。
三度目。
ルドルフはわずかに目を細め、エドガーは完全に観察者の顔になった。
「……かなり効いていますね」
「……ありゃ駄目ですね」
二人の小さな呟きが、静かな廊下に落ちる。
そして、そのさらに奥。
廊下の影に身を潜めるようにして、一人の女性が立っていた。
マルガレーテである。
いつからそこにいたのかは、誰にも分からない。
長年、公爵邸に仕えてきた使用人の気配遮断能力は侮れなかった。
状況を理解した彼女は、しばらく無言でアロイスの背中を見つめる。
そして、ぎゅっと拳を握った。
誰にも見えないように、ほんの小さく。
――ガッツポーズ。
(お赤飯よ……!)
心の中だけで盛大に叫ぶ。
表情は完璧に平静だったが、歩き去る足取りだけが、どうにも軽かった。
*
一方、その頃。
ミレイユの私室では、扉が閉まったあとも、本人がしばらく動けずにいた。
心臓がうるさい。
頬が熱い。
呼吸まで妙に落ち着かない。
事故だったことは分かっている。
急ぎの用件があったのだろう。
ノックを忘れたのも、単純な不注意に違いない。
頭では、そう整理できていた。
それなのに、胸の奥だけがまったく納得してくれない。
思春期を迎えてから、クロウレイにさえ、あんな無防備な姿を見せた記憶はない。
まして、相手がアロイスだった。
ふと、先日の出来事が蘇る。
自室で偶然見てしまった、着替え途中のアロイス。
鍛えられた肩。
戦場を生き抜いてきた身体。
あのとき自分が感じた、妙な動揺。
そして今度は、自分が見られた。
ミレイユは両手で頬を押さえる。
「……なんで……」
自分でも分からない。
怒っているはずなのに、それだけではない何かが混じっている。
その正体を考えようとすると、余計に顔が熱くなる。
「…………」
結局、考えるのをやめた。
今は、やめておいたほうがいい。
そう自分に言い聞かせながら、ミレイユは深く息を吐いた。
けれど、その夜はいつもより少しだけ寝つきが悪かった。
*
翌朝。
公爵邸の執務室では、いつも通り朝の会議が行われていた。
書類が並び、報告が読み上げられ、騎士団の運営について確認が進んでいく。
少なくとも、表面上はいつも通りだった。
「以上が現状の報告です」
ライナーが書類を閉じて顔を上げる。
しかし、返事がない。
アロイスが机の一点を見つめたまま、完全に止まっている。
「……団長?」
数秒遅れて、アロイスが顔を上げた。
「ああ」
返事はした。
ただし、明らかに遅い。
ライナーが怪訝そうに眉を寄せる。
「……なんか変じゃね?」
エドガーは返事をせず、次の書類をアロイスへ差し出した。
アロイスはそれを受け取る。
そして、真剣な顔で読み始める。
数秒後。
「それ、上下逆だけど」
ライナーの指摘に、室内が静まり返った。
アロイスは無言で紙をひっくり返す。
「…………」
何事もなかったかのような顔だった。
だが、ライナーの疑念は深まるばかりである。
「いや、絶対なんかあるだろ」
「気のせいでしょう」
エドガーが淡々と答える。
しかし、その声には明らかに笑いを堪えている気配があった。
「いやいや、昨日までこんなんじゃなかったって!」
「ライナー」
アロイスが低く呼ぶ。
「はい」
「仕事をしろ」
「はい……」
一瞬で静かになる。
ところが、その直後だった。
執務室の扉が開く。
「失礼いたします」
入ってきたのはミレイユだった。
手には、昨夜の案件について整理した追加資料がある。
「追加の資料をお持ちしました――」
そこまで言って、止まる。
視線の先に、アロイスがいた。
アロイスもミレイユを見る。
一瞬。
二人とも、昨夜の出来事を思い出した。
「…………」
「…………」
妙な沈黙が落ちる。
ライナーだけが、何が起きているのか分からず二人を交互に見ていた。
一方、エドガーはすべてを理解している。
ルドルフはいつの間にか入室しており、何食わぬ顔でアロイスの前に茶を置いた。
その口元が、ほんの少しだけ上がっている。
先に視線を逸らしたのはミレイユだった。
「……失礼しました」
「……ああ」
アロイスも一拍遅れて答える。
明らかにぎこちない。
その空気に耐えられなくなったのか、ライナーがついに吹き出した。
「なにこれ?」
「静かにしてください」
エドガーが即座に刺す。
ただし、本人も少し笑っていた。
*
そして、その日の夕食。
食堂へ入ったミレイユは、テーブルを見た瞬間に足を止めた。
いつもより、妙に豪華だった。
肉料理が並び、焼き菓子まで用意されている。
茶葉も明らかに普段より上等なものだ。
そして、その中央。
堂々と置かれているものがあった。
赤飯だった。
ミレイユが固まる。
隣のアロイスも固まる。
二人とも、しばらく赤飯を見つめた。
やがてアロイスが真顔で尋ねる。
「……何かあったのか」
「いいえ?」
マルガレーテは、完璧な笑顔を浮かべていた。
「特には何もございませんわ」
あまりにも堂々としている。
だからこそ、明らかに怪しい。
ルドルフが小さく咳払いをし、エドガーはさりげなく視線を逸らした。
その肩が、ほんのわずかに震えている。
ただ一人、ライナーだけは何も知らない。
赤飯を普通に口へ運び、
「うめぇなこれ」
と呟いた。
誰も返事をしない。
ミレイユは何も言えず、アロイスも妙に居心地悪そうに黙っている。
そんな二人を眺めながら、マルガレーテだけが満足そうに頷いた。
(順調ですわね……!)
盛大な勘違いをしたまま。
公爵邸の夜は、今日も平和だった。




