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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第1話:赤飯の理由

夕暮れを過ぎた公爵邸は、昼間とは違う静かな熱を帯びていた。

窓の外には群青色の空が広がり、廊下では魔導灯が一つ、また一つと灯り始めている。

柔らかな橙色の光が石床へ落ち、その上を使用人たちが足音を忍ばせて行き交っていた。

そんな穏やかな時間に、本来なら起こるはずのない出来事が、静かに発生した。

*

アロイスは数枚の書類を手に、廊下を歩いていた。

帝都西部の防衛線について、至急確認が必要な案件だった。

内容を整理したところ、ミレイユにも共有しておいたほうがいいと判断し、そのまま彼女の私室へ向かっている。

頭の中は完全に仕事へ切り替わっていた。

だからこそ、扉の前に立ったときも、いつもの習慣が一つ抜け落ちた。

――ノックをする。

その選択肢自体が、頭から抜けていたのである。

何の迷いもなく扉を開ける。

「ミレイユ――」

そこまで言って、アロイスの動きが止まった。

視界に入ったのは、着替えの途中だったミレイユの姿だった。

薄布すらまだ身につけていない。

完全に下着姿。

肩から腕にかけての白い肌が、夕暮れの光の中にそのまま晒されている。

一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

アロイスも動かない。

ミレイユも動かない。

視線だけがぶつかる。

互いに何も言わないまま、時間だけが妙にゆっくりと流れていった。

ミレイユの指先が、わずかに震える。

一秒。

二秒。

そして三秒目になって、ようやくアロイスの思考が現実へ追いついた。

だが、なぜか身体のほうがまだ動かない。

「…………」

「…………」

完全な沈黙だった。

先に動いたのはミレイユだった。

みるみるうちに頬が赤くなり、耳まで熱を持っていく。

それでも声だけは、不思議なほど冷静だった。

「……出ていってください」

静かな声音だった。

だからこそ、怒っていることがよく分かる。

アロイスも、ようやく我に返った。

「……すまん」

言い訳の一つもない。

珍しく、完全に非を認める声音だった。

アロイスはすぐに扉を閉めた。

廊下へ出たところで、しばらくその場に立ち尽くす。

数秒経っても、動かない。

そして、少し離れた角には、ルドルフとエドガーがいた。

二人とも、何も言わない。

ただ、明らかに見ていた顔をしている。

アロイスは無言のまま歩き始めた。

数歩進んだところで、ふと足が止まる。

顔はいつも通り無表情。

しかし、耳まで含めて、わずかに赤い。

それを見たルドルフが、静かに口を開いた。

「……ノックもせず、淑女の私室へ入るとは。感心いたしませんな」

至極もっともな指摘だった。

アロイスは黙っている。

反論できない。

すると、エドガーが眼鏡を押し上げながら続けた。

「もっとも、鍵をかけない不用心な淑女も、どうかと思いますが」

冷静な声音だった。

ただし、口元だけがほんの少し緩んでいる。

挿絵(By みてみん)

アロイスは二人を見ない。

そのまま再び歩き出し、角を曲がる。

――ゴン。

鈍い音が響いた。

「…………」

壁に額をぶつけたまま、アロイスが止まる。

数秒後。

――ゴン。

もう一度。

さらに。

――ゴン。

三度目。

ルドルフはわずかに目を細め、エドガーは完全に観察者の顔になった。

「……かなり効いていますね」

「……ありゃ駄目ですね」

二人の小さな呟きが、静かな廊下に落ちる。

そして、そのさらに奥。

廊下の影に身を潜めるようにして、一人の女性が立っていた。

マルガレーテである。

いつからそこにいたのかは、誰にも分からない。

長年、公爵邸に仕えてきた使用人の気配遮断能力は侮れなかった。

状況を理解した彼女は、しばらく無言でアロイスの背中を見つめる。

そして、ぎゅっと拳を握った。

誰にも見えないように、ほんの小さく。

――ガッツポーズ。

(お赤飯よ……!)

心の中だけで盛大に叫ぶ。

表情は完璧に平静だったが、歩き去る足取りだけが、どうにも軽かった。

*

一方、その頃。

ミレイユの私室では、扉が閉まったあとも、本人がしばらく動けずにいた。

心臓がうるさい。

頬が熱い。

呼吸まで妙に落ち着かない。

事故だったことは分かっている。

急ぎの用件があったのだろう。

ノックを忘れたのも、単純な不注意に違いない。

頭では、そう整理できていた。

それなのに、胸の奥だけがまったく納得してくれない。

思春期を迎えてから、クロウレイにさえ、あんな無防備な姿を見せた記憶はない。

まして、相手がアロイスだった。

ふと、先日の出来事が蘇る。

自室で偶然見てしまった、着替え途中のアロイス。

鍛えられた肩。

戦場を生き抜いてきた身体。

あのとき自分が感じた、妙な動揺。

そして今度は、自分が見られた。

ミレイユは両手で頬を押さえる。

「……なんで……」

自分でも分からない。

怒っているはずなのに、それだけではない何かが混じっている。

その正体を考えようとすると、余計に顔が熱くなる。

「…………」

結局、考えるのをやめた。

今は、やめておいたほうがいい。

そう自分に言い聞かせながら、ミレイユは深く息を吐いた。

けれど、その夜はいつもより少しだけ寝つきが悪かった。

*

翌朝。

公爵邸の執務室では、いつも通り朝の会議が行われていた。

書類が並び、報告が読み上げられ、騎士団の運営について確認が進んでいく。

少なくとも、表面上はいつも通りだった。

「以上が現状の報告です」

ライナーが書類を閉じて顔を上げる。

しかし、返事がない。

アロイスが机の一点を見つめたまま、完全に止まっている。

「……団長?」

数秒遅れて、アロイスが顔を上げた。

「ああ」

返事はした。

ただし、明らかに遅い。

ライナーが怪訝そうに眉を寄せる。

「……なんか変じゃね?」

エドガーは返事をせず、次の書類をアロイスへ差し出した。

アロイスはそれを受け取る。

そして、真剣な顔で読み始める。

数秒後。

「それ、上下逆だけど」

ライナーの指摘に、室内が静まり返った。

アロイスは無言で紙をひっくり返す。

「…………」

何事もなかったかのような顔だった。

だが、ライナーの疑念は深まるばかりである。

「いや、絶対なんかあるだろ」

「気のせいでしょう」

エドガーが淡々と答える。

しかし、その声には明らかに笑いを堪えている気配があった。

「いやいや、昨日までこんなんじゃなかったって!」

「ライナー」

アロイスが低く呼ぶ。

「はい」

「仕事をしろ」

「はい……」

一瞬で静かになる。

ところが、その直後だった。

執務室の扉が開く。

「失礼いたします」

入ってきたのはミレイユだった。

手には、昨夜の案件について整理した追加資料がある。

「追加の資料をお持ちしました――」

そこまで言って、止まる。

視線の先に、アロイスがいた。

アロイスもミレイユを見る。

一瞬。

二人とも、昨夜の出来事を思い出した。

「…………」

「…………」

妙な沈黙が落ちる。

ライナーだけが、何が起きているのか分からず二人を交互に見ていた。

一方、エドガーはすべてを理解している。

ルドルフはいつの間にか入室しており、何食わぬ顔でアロイスの前に茶を置いた。

その口元が、ほんの少しだけ上がっている。

先に視線を逸らしたのはミレイユだった。

「……失礼しました」

「……ああ」

アロイスも一拍遅れて答える。

明らかにぎこちない。

その空気に耐えられなくなったのか、ライナーがついに吹き出した。

「なにこれ?」

「静かにしてください」

エドガーが即座に刺す。

ただし、本人も少し笑っていた。

*

そして、その日の夕食。

食堂へ入ったミレイユは、テーブルを見た瞬間に足を止めた。

いつもより、妙に豪華だった。

肉料理が並び、焼き菓子まで用意されている。

茶葉も明らかに普段より上等なものだ。

そして、その中央。

堂々と置かれているものがあった。

赤飯だった。

ミレイユが固まる。

隣のアロイスも固まる。

二人とも、しばらく赤飯を見つめた。

やがてアロイスが真顔で尋ねる。

「……何かあったのか」

「いいえ?」

マルガレーテは、完璧な笑顔を浮かべていた。

「特には何もございませんわ」

あまりにも堂々としている。

だからこそ、明らかに怪しい。

ルドルフが小さく咳払いをし、エドガーはさりげなく視線を逸らした。

その肩が、ほんのわずかに震えている。

ただ一人、ライナーだけは何も知らない。

赤飯を普通に口へ運び、

「うめぇなこれ」

と呟いた。

誰も返事をしない。

ミレイユは何も言えず、アロイスも妙に居心地悪そうに黙っている。

そんな二人を眺めながら、マルガレーテだけが満足そうに頷いた。

(順調ですわね……!)

盛大な勘違いをしたまま。

公爵邸の夜は、今日も平和だった。

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