第28話:分岐点
朝の食堂は、いつもより静かだった。
普段なら、ライナーの騒がしい声にマルガレーテの叱責が重なり、そこへエドガーが冷静な一言を差し込み、ルドルフが何事もなかったかのように給仕を続ける。
そんな賑やかな音が途切れることはない。
けれど、その朝は少し違っていた。
扉が開き、ミレイユが姿を見せると、食堂にいた全員の視線が一斉に集まる。
「……おはようございます」
どこか遠慮がちな声だった。
それを聞いた途端、張っていた空気が目に見えて緩む。
ライナーが勢いよく立ち上がった。
「おお、生き返ってる!」
次の瞬間、鈍い音が響く。
「いっっっっでぇ!」
「朝から縁起でもないことを言うものではありません!」
マルガレーテが拳を握ったまま睨みつけている。
いつものやり取りだった。
ただ、普段より少しだけ控えめなのは、誰もがミレイユの様子を気にしているからだろう。
ルドルフが何も言わず椅子を引く。
「どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
ミレイユが腰を下ろすと、すぐに温かなスープが運ばれてきた。
香草の柔らかな香りが漂い、胃に負担をかけないよう工夫されていることが分かる。
「今朝は消化の良いものをご用意しております」
ルドルフが静かに告げる。
マルガレーテも腕を組み、念を押すように頷いた。
「まずは、きちんと召し上がってくださいませ。これ以上お痩せになったら大変ですからね」
その言葉へ、エドガーが淡々と付け加える。
「疲労後は糖分と水分の補給が有効です。それから、睡眠も必要でしょう」
少し間を置いて、ミレイユの顔を見る。
「……昨夜、あまり眠れていませんね?」
ミレイユは、わずかに視線を逸らした。
図星だった。
それを見たライナーが吹き出す。
「わっかりやす」
「ライナーは、まずご自分の書類を片付けてください」
エドガーの返答は早かった。
「なんで今!?」
食堂に小さな笑いが広がる。
ミレイユはそんな彼らを眺めながら、ふと息を吐いた。
騒がしい。
落ち着かない。
決して静かではない。
それなのに、昨夜の村で感じた、あの異様な穏やかさよりもずっと安心できた。
怒る人がいる。
笑う人がいる。
呆れる人がいる。
それぞれが違う感情を抱き、それを隠さずに生きている。
それが、今はとても大切なものに思えた。
そんなミレイユの様子を、アロイスは黙って見ていた。
やがて食堂の空気が少し落ち着いたところで、彼が静かに口を開く。
「……行けるか」
短い問いだった。
けれど、ミレイユには何を尋ねられているのか分かった。
体調のことだけではない。
これから向かう皇宮で、山間部の装置について報告しなければならない。
あの村で何が起きていたのか。
そして、自分たちが何をしたのかを、自分の言葉で説明する必要がある。
ミレイユは一瞬だけ視線を落とした。
行きたくない。
そんな思いが胸をよぎったことに、自分でも少し驚く。
けれど、逃げるわけにはいかなかった。
あの装置に触れた自分だからこそ、伝えられることがある。
ミレイユは小さく息を吸い、顔を上げた。
「……大丈夫です」
ほんの少し苦笑する。
「今日は、本当です」
その言葉に、ライナーが吹き出した。
「信用ねぇなぁ」
「毎回、倒れていますからね」
エドガーの追撃に、ミレイユが少し困った顔をする。
それでもアロイスは何も言わなかった。
数秒だけ彼女を見つめたあと、静かに頷く。
「……そうか」
それ以上は聞かない。
無理に励ますこともしない。
ただ、ミレイユの言葉の奥にあるものへ気づいている。
それだけは、なぜか分かった。
その距離感が、今は妙に心地よかった。
*
皇宮へ着く頃には、ミレイユの表情も落ち着きを取り戻していた。
重厚な扉が開き、二人は謁見の間へ足を踏み入れる。
室内には第一皇子だけでなく、第二皇子の姿もあった。
その周囲には、それぞれに近しい側近や貴族たちが控えている。
人数こそ多くない。
だが、いずれも帝国の中枢に近い者たちだった。
無数の視線が、ミレイユとアロイスへ集まる。
やがて第一皇子が口を開いた。
「報告を」
短い言葉に促され、ミレイユは静かに頭を下げた。
そして、山間部で確認した異変について語り始める。
住民同士の争いが消えていたこと。
犯罪が途絶えていたこと。
怒りや悲しみといった感情そのものが、異常なほど薄れていたこと。
そして、その原因が古代装置による精神干渉だったこと。
「……便宜上、あの装置は“安寧型”と呼称いたします」
ミレイユがそう告げると、何人かの貴族が顔を見合わせた。
「他の装置とは、干渉の性質が大きく異なっていました」
ミレイユは慎重に言葉を選ぶ。
「精神を押さえつけるというより、苦痛そのものを眠らせる性質が強いようです」
その説明に、謁見の間がわずかにざわめいた。
ミレイユは続ける。
「また、今回の装置からは、対となる石板を確認できませんでした」
「未発掘なのか、すでに失われているのかも、現時点では不明です」
第一皇子は黙って聞いている。
その視線は鋭い。
やがて、問いが飛んできた。
「住民への影響は?」
ミレイユは、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
昨夜の光景が脳裏に蘇る。
泣き叫ぶ人々。
怒号。
混乱。
そして、あの男の言葉。
――安らかなまま暮らしていたかったのに。
ミレイユは胸の奥に残る重さを押し込み、静かに答えた。
「装置を休眠させたことで、精神への干渉は消失しました」
そこで一度、言葉を切る。
「感情の抑制も解除されています」
さらに続ける。
「その結果、住民たちは元の精神状態へ戻りました」
完全な肯定でもなければ、否定でもない。
ただ、起きた事実だけを伝える。
その言葉が落ちると、謁見の間に沈黙が広がった。
やがて、その沈黙を破ったのは第一皇子だった。
「……破壊だ」
低い声だった。
「その装置は破壊するべきだ」
迷いのない断定に、室内の空気が張り詰める。
第一皇子はミレイユを見たまま続けた。
「痛みは、人間に必要なものだ」
静かな声音だった。
「恐怖も、怒りも、悲しみも同じだ。それらすべてが、人間の意思を形作る」
そこで一度、言葉を切る。
「痛みを失った人間は、いずれ誰かに従うだけになる」
安寧型装置そのものを否定する、明確な言葉だった。
そのとき、柔らかな声が響く。
「ですが」
第二皇子だった。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、第一皇子へ視線を向けている。
「苦しみが減るなら、それは良いことではありませんか?」
第一皇子の視線が弟へ移る。
第二皇子は、少しも表情を変えずに続けた。
「争いもなく、悲しみも薄れる。誰もが穏やかに生きられるのなら――私は、それを否定する必要はないと思います」
その言葉に、謁見の間の空気がざわめいた。
第一皇子派の貴族たちは険しい顔を見せ、第二皇子派は黙ったまま成り行きを見守っている。
誰もが理解していた。
これは、単なる古代装置の扱いについての議論ではない。
人間はどうあるべきなのか。
苦痛を抱えたまま生きることに意味があるのか。
それとも、苦痛そのものから解放されることこそ救いなのか。
二人の皇子が示しているのは、まったく異なる思想だった。
そして、その視線が再び動く。
アロイスへ。
ミレイユへ。
シュタルク公爵家は、どちらの考えに立つのか。
精神干渉能力を持つミレイユは、何を選ぶのか。
無数の視線が二人を探る。
その中で、壁際に立つヴァルターだけが、どこか楽しげに口元を緩めていた。
(さて)
その目が細まる。
(どうするのでしょう?)
そして、そのさらに奥。
もう一人、静かに二人を見つめる人物がいた。
優雅に広げた扇の向こうから覗く瞳には、穏やかな光が宿っている。
ミレイユへの関心も、古代装置への警戒も、決して隠してはいない。
ただ、そのどちらにも私情を挟むことなく、彼女は静かに全体を見ていた。
皇子たちの言葉。
貴族たちの反応。
アロイスの立ち位置。
そして、ミレイユ自身の表情まで。
一つひとつを繋ぎ合わせ、その先にあるものを見極めるように。
そして古代装置を巡る問題は、単なる危険な遺物の処理という段階を越え、帝国そのものを揺るがす領域へ、静かに踏み込み始めていた。
第二章はここまでです。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます!
帝国シュタルク家の面々、いかがでしたでしょうか。
次章からは、この作品きっての最重要キャラクターが登場します。
よろしければ、第二章の感想や気になったキャラクターなど、ひとことでもお聞かせいただけると嬉しいです。




