第27話:眠れぬ夜
帝都へ戻る頃には、空はすっかり夜の色に染まっていた。
城門を抜ける馬車の中には、山間の集落で目にした光景が重く残っている。
誰も口にはしないが、あの村で起きていたことが普通ではなかったという事実は、全員が理解していた。
アロイスはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて同行していた騎士へ視線を向ける。
「先に早馬を出す」
「承知しました」
伝える内容は簡潔だった。
古代装置の休眠を確認したこと。
装置による住民への干渉が消失したこと。
そして、詳細については翌日改めて報告すること。
そのうえで、ミレイユの消耗が激しいため、今夜は休養を取らせる――必要な情報だけをまとめれば、それで十分だった。
*
同じ頃、皇宮では第一皇子の執務室へ早馬の報告が届けられていた。
夜も深まりつつある室内で、第一皇子は数枚の報告書へ静かに目を通していく。
周囲には側近のほか、古代装置の調査を担当する研究員たちも控えていた。
「……また装置が見つかったのか」
低い声とともに、第一皇子が書類を閉じる。
「はい。休眠にも成功したようです」
側近が答えると、第一皇子は短く頷いた。
「干渉消失、か……」
再び報告書へ目を落とす。
そこに並んでいるのは、住民への精神干渉、感情抑制、そして異常な安寧を示す記録だった。
どれも見過ごせるものではない。
そのとき、控えていた研究員の一人が口を開いた。
「ですが、明朝まで報告を待つ必要があるのでしょうか」
わずかに不満を滲ませた声だった。
「古代装置に関する情報は国家機密級です。研究員一人の体調を理由に――」
そこまで言ったところで、第一皇子が顔を上げた。
冷たい視線が向けられ、研究員は言葉を止める。
「“研究員一人”?」
静かな問いだった。
それだけで、室内の空気が張り詰める。
第一皇子は机へ肘を置き、落ち着いた声音で続けた。
「精神干渉能力を持つ者は少ない」
そこで一度、言葉を切る。
「まして、装置へ接続して休眠へ導ける者が何人いる?」
答えは返ってこなかった。
第一皇子は研究員たちを見渡す。
「代替の利かない人材を、消耗品のように扱うな」
短い言葉だったが、そこには明確な拒絶があった。
研究員は青ざめ、深く頭を下げる。
「……失礼いたしました」
第一皇子は、それ以上追及しなかった。
ただ、窓の外へ視線を向ける。
夜の帝都には無数の灯りが浮かび、その向こうには、先ほど報告を受けた西北の山々がある。
「休ませろ」
誰か一人へ向けたというより、その場にいる全員へ告げる命令だった。
「報告は明日でいい」
第一皇子は静かに続ける。
「無事に戻った。それだけでも、今夜は十分だ」
側近たちは黙って頭を下げた。
*
その頃、シュタルク公爵邸では、夜も遅いというのに正門の灯りが消されずに残されていた。
やがて馬車が門をくぐり、玄関前でゆっくりと止まる。
扉が開いた瞬間、真っ先に駆け寄ってきたのはマルガレーテだった。
「坊ちゃま――」
いつものように声を上げかけた彼女は、すぐに言葉を失った。
ミレイユの姿が目に入ったからだ。
顔色が悪い。
足取りもわずかに頼りなく、それでも本人はいつも通りに立とうとしている。
それを見たマルガレーテの表情が変わった。
「……すぐ、お部屋を温めます」
いつもの勢いはなかった。
代わりに、抑えた声の中へ強い心配が滲んでいる。
ルドルフもすぐに動いた。
「湯は用意しております。厨房には消化の良いものを頼みましょう」
淡々とした口調だが、その指示は早い。
エドガーもミレイユの顔を覗き込むようにして、静かに告げた。
「かなり消耗していますね」
冷静な分析だったが、普段より声が低い。
そしてライナーでさえ、今夜ばかりは騒がなかった。
「……おい。大丈夫か」
珍しく、本当に心配している声だった。
ミレイユはいつものように微笑もうとする。
「大丈夫です」
反射的に出た言葉だった。
その瞬間、アロイスが口を開く。
「大丈夫ではない」
ミレイユが言葉を止める。
アロイスは彼女を見たまま、淡々と続けた。
「今日は休め」
命令に近い声音だった。
反論する余地などない。
マルガレーテもすぐに頷いた。
「ええ、そうですとも。今夜はもう、何も考えなくてよろしいですからね」
そのまま半ば強引にミレイユを部屋へ連れていく。
残された三人は、その背中を見送った。
「……なんか、やばそうだったな」
ライナーがぽつりと呟く。
エドガーは眼鏡を押し上げた。
「精神干渉を深く使えば、当然です」
少し間を置いてから、静かに続ける。
「むしろ、立ったまま戻ってきただけでも異常ですよ」
ライナーは顔をしかめた。
いつもの軽口を返す気には、なれなかった。
*
ミレイユの部屋では、温められた湯から白い湯気が静かに立ち上っていた。
香油の柔らかな匂いが漂い、寝台も整えられている。
何もかも、いつもと変わらない。
それなのに、ミレイユは眠れなかった。
寝台へ横になり、ぼんやりと天井を見つめる。
目を閉じれば、山間の村が浮かんでくる。
泣いていた女。
怒鳴っていた男。
震えていた老人。
そして、あの言葉。
――あんたたち、一体何をした。
続いて聞こえてくる。
――安らかなまま暮らしていたかったのに。
胸の奥が重くなる。
装置は危険だった。
人の意思へ干渉していた。
だから眠らせた。
それは間違っていない。
理屈では、そう分かっている。
それでも、疑問が消えなかった。
(……本当に?)
もし、苦しみも悲しみもなく、穏やかに生きられるのなら。
それは、本当に間違いなのだろうか。
ミレイユはゆっくりと目を閉じる。
すると、遺跡で消えかけた記憶が蘇った。
母の死。
孤独。
冷たい水。
空腹。
拒絶。
痛み。
どれも確かに苦しかった。
けれど、その苦しみの先でクロウレイと出会い、仲間を得て、公爵家で温かな食卓を知った。
そして、アロイスとも出会った。
苦しみがあったから今がある。
では、苦しみそのものを消してしまえば、本当に人は救われるのだろうか。
答えは出なかった。
眠気も訪れない。
時計の針だけが、静かに夜を進んでいった。
*
同じ頃、アロイスもまた自室にいた。
灯りは最低限に抑えられ、机の上には途中まで目を通した書類が残されている。
しかし、今夜は一向に内容が頭へ入ってこなかった。
視線は書類へ向いているのに、思い浮かぶのは馬車の中で交わした会話だった。
――震える手を抑えたこともある。
――叫び出したい夜もあった。
なぜ、あんな話をしたのか。
アロイスは眉を寄せた。
自分は過去を語るような人間ではない。
弱さを誰かと共有する必要も感じていない。
まして、ミレイユに話す理由などなかった。
それなのに、あのときは自然に言葉が出てきた。
まるで、彼女には説明しておく必要があると考えたかのように。
(……意味が分からん)
心の中で吐き捨てる。
だが、考えれば考えるほど、別の記憶まで蘇ってきた。
昼間、山道を進んだときのこと。
馬上で、背中越しに伝わってきたミレイユの体温。
細い腕。
わずかに強張った呼吸。
あのとき、自分は一瞬だけ、それを妙に意識した。
そして、自室での出来事も思い出す。
扉を開けた瞬間、動きを止めたミレイユ。
慌てて逸らされた視線。
熱を持った耳。
アロイスは無意識に額へ手を当てた。
疲れているのかもしれない。
そう考えようとした。
だが、それだけでは説明できない何かが、胸の奥に残っている。
やがて窓の外が、ほんの少しずつ白み始めた。
夜明けが近い。
それでも、ミレイユもアロイスも、その夜は深く眠ることができなかった。




