↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択の魔女  作者: めいあん
第二章:帝国魔術師編
PR
56/144

第26話:戻ってきたもの

山を下りる頃には、空は薄く暮れ始めていた。

冷たい風が吹き抜けていくが、先ほどまで遺跡を満たしていた、あの静かな圧迫感はもう感じられない。

代わりに戻ってきたのは、どこか生々しく、現実そのものを思わせる空気だった。

馬を進めながら、ミレイユは小さく息を吐いた。頭はまだ重い。

感情を削られていくような感覚は消えているものの、胸の奥には別の重さが残っていた。

誰も多くを話さないまま、一行は集落へ戻った。

しかし、村へ足を踏み入れた瞬間、その空気が一変していることに気づいた。

「……っ」

騎士の一人が、思わず眉を寄せる。

昼間とは明らかに違っていた。

家々の間からは怒鳴り声が響き、どこかでは女が泣いている。

物が倒れる音に続いて、子どもの激しい泣き声まで聞こえてくる。

あちらでは男同士が声を荒らげ、こちらでは夫婦が言い争っていた。

「返せよ!」

男の怒声が響く。

少し離れた場所では、女が地面に座り込んだまま泣き続けていた。

「なんで……なんで急に……」

頭を抱えて震える老人もいる。

泣きながら走り回る子どもを、大人たちが必死に追いかけているが、その大人たち自身も余裕を失っていた。

昼間まで、この村を包んでいた異様な穏やかさは跡形もなく消えている。

住民同士の争いも、犯罪も、怒りも、涙もなかった。

けれど今は違う。

恐怖も、焦燥も、怒りも、悲しみも――人間が本来持っている感情が、一気に戻ってきていた。

ミレイユはそっと拳を握る。

そのとき、昼間に最初に声をかけてきた男が、こちらに気づいた。

穏やかだった顔はすっかり変わっている。

目には強い感情が宿り、青ざめた顔には怒りだけでなく、怯えや混乱までも浮かんでいた。

男は早足で近づいてくる。

「……あんたたち」

低い声に、明らかな怒気が混じっていた。

騎士たちが警戒する気配を見せる。それでも男は足を止めず、一行の前まで来ると、震える拳を握り締めた。

「一体、何をした」

その問いに、ミレイユは息を詰める。

男は、苦しそうに言葉を続けた。

「平和だったんだ。争いなんかなかった。みんな、穏やかに暮らしていた」

そこまで言って、男は一度言葉を失った。やがて、絞り出すように続ける。

「安らかなまま、暮らしていたかったのに……」

その声に含まれているのは、怒りだけではなかった。

挿絵(By みてみん)

戻ってきた感情そのものへの恐怖。

失っていたものが一気に押し寄せてきたことへの戸惑い。

ミレイユは答えようとした。

けれど、何を言えばいいのか分からない。

装置が人々の意思へ干渉していた。

だから止めた。

それは間違いではないはずだった。

だが、装置によって消えていたのは、苦しみだけではない。

争いも、憎しみも、悲しみも、痛みも――それらと一緒に、人が何かを選ぶための感情まで薄れていた。

だから、止めた。

その結果として、今、この村には再び怒鳴り声が響いている。

「……」

ミレイユは何も答えられなかった。

そんな彼女の前へ、アロイスが一歩進み出る。

「行くぞ」

低い声だった。

男へ言い聞かせるためでも、ミレイユを庇うためでもない。

ただ、これ以上ここに留まるべきではないという意思だけが、その声には込められていた。

男はなおも何か言おうとしたが、結局言葉にはならない。

怒りと混乱を抱えたまま、その場に立ち尽くしている。

一行は、そのまま集落を後にした。

誰も振り返らなかった。

振り返ることが、できなかった。

*

夜になる頃には、馬車は山道を静かに進んでいた。車輪が一定の間隔で地面を打ち、暗闇の中にその音だけが続いている。

車内の空気は重かった。

同行した騎士たちも口数が少ない。

誰もが、先ほど村で目にした光景を思い返しているのだろう。

ミレイユは窓の外へ視線を向けた。

暗い山並みが流れていく。

冷たい夜気を感じながら、胸の奥に残った重さを持て余していた。

やがて、ぽつりと言葉が漏れる。

「……よかったのでしょうか」

誰かに問いかけるというより、自分自身へ向けたような声だった。

「装置を眠らせて……あれが、本当に正しかったのか」

しばらく、誰も答えなかった。

やがて、アロイスが静かに口を開く。

「……分からない」

その言葉に、ミレイユがゆっくりと顔を上げる。

アロイスは窓の外を見たまま続けた。

「俺にも、正解は分からん。ただ、選ばなければならなかった」

声に迷いはない。けれど、それは自分の判断を正当化しようとしている響きでもなかった。

「放置すれば、干渉は広がっていた。いずれ、この村だけでは済まなくなっただろう」

「……それでも」

ミレイユは小さく呟いた。

「彼らは、安らかでした」

アロイスは否定しなかった。

しばらく沈黙が続く。

やがて、低い声が返ってきた。

「だから厄介なんだ」

ミレイユは黙って彼を見る。

「苦痛を消す力は、正しいように見える」

アロイスの視線は、暗い窓の外へ向けられたままだった。

「苦しみがなくなれば、人は楽になる。争いも減る。誰も傷つかない」

そこで一度、言葉を切る。

「……それだけを見れば、悪いものには思えん」

しばらく黙ったあと、アロイスは静かに続けた。

「だが、何も感じなくなれば……」

わずかに間を置く。

「自分が何を選んだのかさえ、分からなくなる」

ミレイユは静かに聞いていた。

その言葉は、遺跡で自分が感じたものと重なっていた。

悲しみも、恐怖も、孤独も、すべて消えてしまえば確かに楽だった。

けれど、その先には「自分」が残らない。

アロイスが、ふと口を開いた。

「……俺は、人を斬った」

ミレイユの視線が動く。

アロイスは前を向いたまま、淡々と続けた。

「父も、兄も」

その声に大きな感情はなかった。

けれど、そこにある記憶が消えているわけではないことだけは、ミレイユにも分かった。

「必要だった」

短い言葉だった。

「家を残すために、他に選択肢はなかった」

アロイスはそこで黙った。

ミレイユも、何も言わない。

やがて彼は、ほんの少し視線を落とした。

「だが、何も感じなかったわけじゃない」

静かな声だった。

「戦場で恐怖を感じたこともある。震える手を抑えたことも、眠れない夜を過ごしたこともあった」

淡々とした言葉の一つひとつが、妙に重く響く。

「それでも、恐怖があるからこそ、次にどうするかを考えられる。失いたくないものがあるから、守ろうとも思える」

ミレイユは、黙ってその横顔を見つめる。

「……何も感じなくなれば、終わりだ」

アロイスは低く言った。

「人として生きることも、シュタルクであることもできなくなる」

その言葉は、誰かへ向けたものというより、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。

ミレイユはゆっくりと視線を落とした。

安寧型の装置。

苦痛を消す力。

それは確かに優しかった。

けれど、その優しさは、人から痛みだけを奪うのではない。

怒りも、悲しみも、恐怖も、そして自分で何かを選ぼうとする意思さえも、少しずつ削っていく。

遺跡で感じた感覚を思い出す。

忘れてしまえば楽だった。

苦しみも、孤独も、恐怖も、すべて手放してしまえばいい。

それでも――。

(……消したくなかった)

そう思えたことが、今は何より大切だった。

「……はい」

ミレイユは小さく答えた。

何に対する返事なのか、自分でも分からない。

ただ、胸の奥には確かなものが残っていた。

悲しみも、恐怖も、痛みも、そして誰かと過ごした温かな時間も。

どれも手放したくない。

馬車は、静かな夜道を進んでいった。

誰も答えを持たないまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。